慶長遣欧使節団に同行したソテロの『覚書』が残されているが、それには、
『日本との通商はイスパニア(現在のスペイン)に利益をもたらすであろう 』
とか、『通商が成れば、イスパニア系のフランシスコ会派は言うまでもなく、
キリスト教宣教師を幕府が厚遇するであろう』と書かれていた。
これだけであれば、通商が目的ということで別に問題はないが、更に驚くべき
ことが書かれていたのである。 要約すると、『政宗は時期皇帝になるべき最強の
実力者であり、家康の信頼もあつく、今回の使節派遣は家康の不快とするもの
ではない』というものである。
ここで注目されるのは、家康のキリスト教に対する姿勢である。 周知のように、
家康は慶長17年にキリスト教を禁止している。 ただ、家康は『キリスト教は
好ましくないが、貿易は推奨したい』と考えていた。 特に、ルソン(現在の
フィリピン)とノビイスパニア(現在のメキシコ)は、当時、世界有数の産銀国で、
その技術を導入したいと考えていたようである。

そのルソンは、ノビイスパニア副王の支配下にあり、ノビイスパニアは、
イスパニア国王の下にあった。 だから、ルソンやノビイスパニアとの交渉が
必要だったのである。 交渉のためには、好意を持っていないキリスト教宣教師
とも接触を保っていなければならなかった。 家康が慶長18年までバテレン
追放令を出さなかったのには、そうした背景があったのである。
家康がはっきりキリスト教禁止を打ち出している状況の下で、政宗は何を考えて
いたのだろうか。 ここに、政宗が天下を狙うという可能性を垣間見ることが
出来る。 というのは、使節一行がマドリードからローマに行く時、マドリード
から一行に従い、渉外係、兼通訳として同行したシピアーネ・アマチが
『伊達政宗遣使録』というものを遣わしていて、そこにびっくりするようなことが
書かれていたのである。

支倉常長がイスパニア国王フィリップ三世の前で次のように演説したという。
わが君、奥州王は、陛下の強大なることと、その保護を請う者に対して、寛仁
なることを聞き、予を派遣し、その位と領土とを陛下に献じ、大国と親交を結ば
しむ。 今後、いつにても陛下の望みに応じ、喜びて、その全力を用いんとする。
ここに、『位と領土とを陛下に献じ』とあることに注目したい。 政宗自身を
『奥州王』と言っていることも興味深いが、これは、仙台領、別な言い方をすれば、
奥州国を植民地として、イスパニアに献上し、イスパニア無敵艦隊の力を借りて、
倒幕に立ち上がり、日本全土を自分のものにしてしまおうという意図があった
ということになる。 ただ、この時の政宗の策略は、不発に終わっている。
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