1812年にナポレオン軍がロシアに侵入した。 フランス軍を中核とした
欧州諸国の兵士を合わせて約60万人の大軍団が目指したのは、ペテルブルグ
ではなく、モスクワだった。 モスクワこそがロシアの心臓であるという
ナポレオンの考えだったに違いない。 迎え撃つロシア軍は、数の上では、
その半分にも満たなかった。

モスクワ郊外のボロジノの野で両軍は激戦を展開したが、決着は付かず、
ロシア軍の総司令官クトゥーゾフ将軍は、フィリ村(現在のモスクワの市域内)
の農家での作戦会議で戦略的退却の道を選んだ。

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9月1日に全ロシア軍が撤退し、ナポレオンはがモスクワに入ったのは、翌日の
2日であった。 彼は、モスクワの西にあるポクロンナヤ・ガラーと呼ばれる
場所で、開城の使節団が来るのを2時間ほど待ったが、慈悲を乞いに現れる者は
居なかった。 27万5,000人居たと言われる当時のモスクワの住民のうち、
残ったのは、1万人を超えなかった。 占領軍による略奪がすぐに始まった。

その夜のうちにボヤが起きたが、大火になったのは、4日の未明の事である。
6日に雨が降ったが、それでも火の勢いは衰えず、8日になってやっと鎮火した。
モスクワの建物の3分の2が灰になった。 フランス軍は、血眼になって放火犯人を
探したが、見つけることは出来なかった。

火事のため、満足な住まいや食料が得られなくなったフランス軍は、たちまち
困窮に陥った。 彼等がモスクワから退却を始めるのは、10月6日のことであった。
その年は、格別に寒い冬が早く到来したのである。 フランス軍は、モスクワに
放棄する直前に、腹いせにクレムリンの中の建物や、クレムリンから南東に
4キロ程離れたシーモノフ修道院等を爆破して行った。

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文豪トルストイの『戦争と平和』は、対ナポレオン戦争を描いた大河小説が
あるが、その主人公の1人のナターシャは、貴族のロストフ伯爵家の娘である。
若くて美しいナターシャは、アンドレ・ボルコンスキーに愛されるが、彼は
戦死した後に、もう1人の主人公ピエール・ベズーホフと結ばれる。 ロストフ家
の邸のモデルとなった建物は、クレムリンの西のポバルスカヤ通りに実在している。
イワン雷帝の時代には、クレムリンでツァーリのコックとして働く人々がこの
辺りに土地を与えられ、1つの村をなしていたのであるが、宮廷がペテルブルグに
移ってからは、貴族達の広壮な屋敷が立ち並んでいたのである。

ナポレオンを撃退したこの戦争は、特別に祖国戦争(ナチスドイツとの戦争は、
大祖国戦争)と呼ばれ、ロシア人の国民意識を形成する上で大きな意味を持った。
ナポレオン軍を撃退してヨーロッパの国々に赴き、その地の社会制度や人々の
暮らしをその目で見た将校達は、ロシア社会の遅れに衝撃を受けたのである。
やがて、それが民主化を目指すデカブリストの運動へと繋がって行くこととなる。

【お勧めの一冊】


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