東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:戦争

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    第二次世界大戦の歴史を展示している『大祖国戦争博物館』は、ミンスクを
    中心としたベラルーシにおける戦争の歴史を分かりやすく展示した博物館で、
    ミンスクを理解するためには、是非訪れて欲しい観光スポット。

    この博物館では、武器や写真、ジオラマ等による展示が行われており、
    ベラルーシでは『大祖国戦争』と呼ばれている『第二次世界大戦』の歴史を
    伝えている。 当時ミンスク郊外には、アウシュビッツ等に次ぐ第3のナチスの
    収容所があり、20万人が虐殺されたとも言われている。 その収容所の様子を
    伝える展示もあり、他の国では見る機会が非常に少ない貴重な戦争の博物館で
    あるため、改めて平和について考えさせられるミンスクのおすすめ観光スポット。

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    ロシア語では、『第二次世界大戦』のことを『大祖国戦争』と呼ぶが、それは、
    対独戦で100万人以上にも及ぶ多大な戦死者を出したためこう呼ばれている。
    ミンスクの街は、ドイツ軍によって徹底的に破壊され、その後、社会主義経済に
    則り、復興されたため、ミンスク市内は旧ソ連式の大規模な建物が多い。

    戦争とは、幾ら語り継いだとしても、正確には伝わらないため、このような
    目で見て直接確かめることが出来る展示型の博物館が最も効果的。 米軍により
    爆撃を受けた仙台にも『戦災復興記念館』なるものがあるが、館内の展示品が
    少ないため、余り実際の戦争を想像出来ないのだが、この巨大な戦争博物館では、
    様々な展示品を用いて、かなり忠実に戦争を再現している。

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    大祖国戦争博物館は、地下鉄の駅からは若干離れており、全ての展示を見て周る
    ためには、半日程度は必要。 但し、この日は、列車が出るまでの時間が少なかった
    たため、45分程度の駆け足での見学となってしまったが、もっとゆっくりと時間を
    翔けて、色々な事を考えながら見たい設備であった。

    案内に展示していある展示物は、実際に戦争で使用された物も多く、非常に
    生々しく、蝋人形を交えて、更に細かく説明をしているため、非常に分かりやすい
    設備であった。

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    その後、ミンスク駅の1番線の一番奥にある21番線からビリニュス行きの電車に
    乗り、リトアニアの首都であるヴィリニュスへと旅立った。 ロシアから
    ベラルーシへ入国し、リトアニアへ抜ける場合、ベラルーシのビザが絶対に必要
    となる
    。 ビザをを所持していない場合、ここからリトアニアとの国境までは
    行けるものの、そこでビザがないことが判明すると、またミンスクまで強制的に
    連れ戻されるため要注意。

    べラルーシの国境が、実際のロシアとEUとの国境となるため、世界でも出入国
    審査が非常に厳しい場所となっている。 元々は、同じソビエト連邦という国
    だったのだが、体制が急激に変わったため、色々と面倒な手続きが増えた。

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    急速な成長を遂げた時代で、スウェーデンとノルウェーは1814年以来の連合関係を
    維持していた。 しかし、ノルウェーの場合は、スウェーデンに比べて、議会が
    王室よりも遥かに大きな権力を持つようになり、そうした政治的な違いのため、
    両国間の連合関係は機能しなくなって来た。 そして1905年、スウェーデンの
    オスカル王はノルウェーの王冠を捨て、連合は平和的に解体した。 1900年代、
    大半の国民は生活が貧しく、大きな都市ではスラムの住民が多く見られた。
    工業化が進むに連れ、労働者の生活条件は悪くなる一方だった。

    1907年、グスタフ5世は、改革を求める圧力が高まったため、委員会を作って
    社会福祉の法整備の必要性を検討した。 1909年、24歳以上の全ての男性に
    投票権が与えられ、議員選出のための1人1票制度が実施された。 女性の投票権は
    1919年から認められた。 社会問題の解決に対する政府の関心が高まり、1913年に
    政府は初めて、老齢年金を引き上げ、犯罪に対する罰則を改正し、商店の営業
    時間を規制した。

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    【世界大戦】
    第一次世界大戦(1914年~1918年)がヨーロッパで勃発すると、スウェーデンは、
    ノルウェーやデンマークと同じように、中立を宣言した。 当初は、戦争のお陰で
    スウェーデンの産業は刺激を受け、戦争当事国への製品の輸出が大いに伸びたが、
    戦争が終わらないうちにスウェーデンは食糧不足になり、経済困難に陥った。

    社会主義者で労働界のリーダーであるヒャルマール・ブランティングが、戦後の
    実力者として政界に登場、平和的、かつ段階的な社会改革を主張して、一部の
    政治家グループが求める急激な変革に反対した。 1920年代初めには、経済も
    急速に回復を見せ、国は非常に繁栄した。

    ところが、1930年代には、世界的な不況の煽りでスウェーデンの経済も痛手を
    受けた。 そうした社会条件の悪化に反応して国民は始めて社会民主労働党の
    政府を選び、Pハンソンの指導の下に政権が誕生した。 ハンソンは、農民や
    労働者代表の議員達の支持を受け、生活改善のための福祉政策を実施した。

    しかし、幅広い福祉改革が実施されないうちに、第二次世界大戦(1939年~
    1945年)がヨーロッパで始まり、スウェーデンは再び中立を宣言した。 お陰で
    隣国のデンマークやノルウェーとは違って、戦争中のスウェーデンは侵略を免れ、
    紛争の部外者としての立場を維持出来たのである。

    戦時中は資源を有効に使うためスウェーデン政府は、民営産業の統制、管理を
    強化した。 スウェーデンはまた、人道的な努力の一環として、戦争犠牲者の
    難民受け入れにもひと役買い、ユダヤ人をはじめ、ノルウェー人、デンマーク人、
    フィンランド人、その他、バルト海の近くに住む人達に援助の手を差し伸べた。
    ナチの処刑室から2万人のハンガリー系ユダヤ人を救い出したスウェーデンの外交官
    Rワーレンベルイの話は有名である。 戦争が終わると、スウェーデンは
    ノルウェーとデンマークになかりの経済援助を与えた。

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    近代化に伴ってヨーロッパでは、領土や貿易をめぐる対立が激化していた。
    この対立が戦争になりかねないことを見て取ったヴェルヘルム2世は、1888年、
    権力の座に就くと、強力、かつ、近代的な海軍の組織作りを命じた。 既に、
    ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を結んでおり、戦争になれば協力する
    ことで合意していた。 また、ドイツの戦力を恐れたロシア、フランス、イギリスは
    後に三国協商を結成、この2つの対立するブロックは、それぞれ軍隊を整備し、
    全ヨーロッパを巻き込む戦争に備えた。

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    1914年6月、オーストリア皇太子が、ヨーロッパ南東のセルビアで暗殺されるという
    事件が起きる。 これに対してオーストリアは、セルビアに宣戦布告をした。
    一方、セルビアはロシアの同盟国であったので、三国協商の国々はセルビア救済の
    ために軍隊を終結した。 ドイツもオーストリアとの同盟の下、戦時体制を敷き、
    8月、ヴィルヘルム2世はフランスへの進軍を命じた。 こうしてヨーロッパの
    国々の対立は、第一次世界大戦(1914~1918年)へと広がって行った。

    ドイツは東部戦線でロシアを破るなど、初めは優勢であった。 ところが、
    1917年にはアメリカがイギリスなど連合国側に参加する。 また、北フランスでも
    ドイツはイギリス、フランス、アメリカとにらみ合っていたが、海上封鎖を受け、
    ヴィルヘルム2世下の軍隊にとって、次第に形勢は不利になって行った。 こうして
    1918年11月、ドイツは遂に降伏した。

    これに対し政府の政策や上官の命令に不満を抱いていたドイツの労働者や軍人達は、
    国中で暴動を引き起こした。 このためヴィルヘルム2世は退位を迫られ、
    社会民主党は新しい民主的な政府の設立を宣言することになる。 ヴェルサイユ条約
    (第一次世界大戦後の講和条約)の下、ドイツはアルザス・ロレーヌをフランスに
    返還、プロイセンの大部分をポーランドに割譲することを余儀なくされた。 また、
    連合国はドイツに多額の賠償金を要求し、ラインラントとザール地方を占領し、
    産業を摂取した。

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    韓国の兵士は、四六時中、軍事境界線を監視している。 いつでも北朝鮮の
    侵略を撃退する用意が出来ている。 朝鮮は今も戦争中だと考えている人もいる。
    朝鮮戦争(1950~1953年)で韓国にはかろうじて国の存在を守ったが、この戦争は
    正式には終わっていない。 2つの国に分断された朝鮮の人々は、お互いの国を
    自由に行き来することは出来ない。 家族が離れ離れになってしまったままの人も
    多い。

    非武装地帯にある村、板門店に、ただひとつの非武装地帯がある、ここを通過する
    許可をもらうためには、たくさんの書類をそろえなければならない。 軍事境界線に
    めぐらされた塀と有刺鉄線は、朝鮮における過去の激しい戦いを常に思い出させる。
    それでもなお、南北朝鮮の多くの人々が、いつかまた、朝鮮はひとつになるという
    希望を持ち続けている。

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    【非武装地帯】
    朝鮮半島で野生動物が手付かずのまま生息している数少ない場所が、非武装地帯
    である。 非武装地帯は、韓国と北朝鮮の軍事境界線上に延びる幅4キロの一帯で、
    1953年、朝鮮戦争停戦の時に儲けられた。 それから70年近くもここには誰も足を
    踏み入れたことがないが、その両側からは、およそ200万人もの兵士たちが互いに
    監視を続けている。 予想外だったのは、この非武装地帯が、野生動物が人間に
    邪魔されずに生きることの出来る安息の地になったことだった。 ツルやその他
    沢山の貴重な鳥が、ここで冬を越す。 もし朝鮮半島のどこかに今も野生の虎が
    いるとしたら(否定する専門かもいる)、住んでいるのは、この非武装地帯である。
    もし非武装地帯がこのまま続くのであれば、自然保護家たちは、ここを世界的に
    有名な自然保護区にしたいと考えている。

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    1892年、アンドレス・ボニファシオがカティプナン(タガログ語で団結の意味)を
    結成した。 カティプナンは秘密結社で、武力によってスペインの植民地支配を
    転覆させようというものだった。

    1896年、3万人のカティプナンのメンバーがスペイン攻撃に立ち上がった。
    しかし、エミリオ・アギナルドを指導者とする軍だけが、反スペインの戦いに
    成功し、1897年ボニファシオに代わってカティプナンの指導者となった。
    スペイン側は領土の大半を奪い返したが、アギナルド軍の鎮圧には失敗した。

    1897年末、アギナルドはスペインと和平条約を結んだ。 アギナルドの亡命と
    引き換えに、3年以内に自治を約束していた。 同年12月、アギナルドは香港へ
    亡命した。

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    一方、スペインの他の植民地でも反乱が起きていた。 カリブ海の島国キューバが
    スペインから独立を宣言すると、アメリカはこれを支持した。 この結果、
    アメリカとスペインは1898年初め、米西戦争を戦った。

    戦争の報償はフィリピンだった。 1898年4月、ジョージ・デューイ准将は
    アメリカ海軍を率いて香港からマニラ湾に入り、スペイン海軍を破った。
    アギナルドは香港から戻り、カティプナンを率いてスペインと戦った。

    カディプナンの支持のお返しに、アメリカ政府はフィリピンの独立を約束した。
    アメリカとカティプナンの連合軍は、1898年8月、スペインを敗北させた。
    その年の後半、アメリカとスペインは戦争を終結、パリ条約を結んだ。 条約の
    下でアメリカはフィリピン、グアム、プエルト・リコを獲得、スペインには
    2000万ドルを与えた。

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    多くのフィリピン人にとって、アメリカの占領はスペインの植民地支配と
    比べても、状況は改善されなかった。 アギナルドや多くのフィリピン人は
    アメリカに抵抗した。

    いかなる形の植民地支配も拒否し、アギナルドは1899年に独立を宣言した。
    1901年に逮捕されるまで、彼はアメリカに対する武力闘争を指導した。 その後も
    アギナルドの軍隊はしばらく戦い続けた。

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    第二次世界大戦末期、大日本帝国海軍の切り札として、航空機を使った
    『特別攻撃隊』が組織されたが、この『特攻隊』とは、生きて帰還出来る望みが
    非常に低い決死の攻撃、あるいは、最初から戦死を前提とする、正に決死の攻撃を
    行う戦術を表していた。 『十死零生』とも呼ばれ、作戦の成功は、すなわち、
    100%死を意味していた。

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    特攻は、基本的に志願制であったものの、実際のところは、特攻への志願を問われた
    場合、その場の雰囲気からして、到底拒否出来るようなものではなく、例え、特攻を
    拒否したとしても、死罪が課せられたため、特攻を受けれても拒否しても、いずれに
    しても、死が待っていたという、非常に過酷な作戦であった。
     
    日本陸軍は日露戦争において、白襷隊といった決死隊を臨時に編成したことは
    あったが、これは決して生還を許さない任務ではなく、決死の覚悟で極めて困難で
    危険な任務を果たすというものであったため、生還の可能性が全くない訳では
    なかった。
     
    日本海軍の航空機による体当たり戦術は、太平洋戦争、および、神風特攻隊の創設
    以前に、日本海軍航空隊の草分けである山本五十六が既に言及していた。 1931年
    (昭和6年)12月1日、城英一郎少佐が、海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六
    少将(海軍航空本部技術部長)に提示したが、この時に2人は『最後の手は、肉弾
    体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出』として、航空機の体当たり戦術を検討した。
     
    1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六
    少将は、新聞記者に対し『僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する』
    『艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ』と語ったという。
     
    1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発後、ミッドウェー海戦やガダルカナル
    島の戦いを経て戦況は悪化、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)も1943年
    (昭和18年)4月18日の海軍甲事件で戦死した。

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    特別攻撃隊の中でも最も有名なのが、神風特攻隊であり、1944年10月20日に最初の
    編成があり、1945年8月15日の終戦まで続けられた。 『しんぷう』が正式な読み方
    であるが、戦後は訓読みの『かみかぜ』が定着している。 アメリカなどでは、
    大日本帝国陸軍航空隊による特攻を含む特攻全般を含めて『カミカゼ』と称される
    こともある。 神風特攻隊は、機体に約2トンの爆弾を搭載しており、機体には
    車輪もまともには付いていなかったため、生還は絶対に許されなかった。

    神風特攻隊の初出撃は、1944年10月21日のフィリピン海戦で、敷島隊・大和隊・
    朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれて、ほぼ全機が
    帰還したものの、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。 そのため、
    『特攻第1号』は敷島隊隊長・関行男ではなく、大和隊隊長・久納中尉を未確認
    ながら第一号とする主張も戦後現れた。

    各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・佐藤馨上
    飛曹が未帰還となる。 そして同月10月25日午前10時49分、敷島隊指揮官の関
    (戦死後中佐)以下6機が護衛空母セント・ローを撃沈し、初戦果を挙げて活路を
    開いたが、この思わぬ大成功が、その後の特攻を更に酷いものにした。



    特攻隊は、当初は確かに戦果を挙げた。 米軍を初めとする連合軍は、爆弾を
    積んだ飛行機が飛行機もろとも自分たちに突っ込んでくる行為が、継続的かつ
    組織的に行われることを予想していなかった。 このため日本軍の特攻への
    対処が遅れ、被害が拡大した。 特攻隊が、敷島隊のような戦果を挙げ続けて
    いたのであれば、第二次世界大戦の流れは変わっていたかも知れない。 しかし、
    現実は異なっていた。
     
    米軍は、特攻の意図を知り、対処を進めた。 特攻機の第一目標は航空母艦で
    あった。 しかし、空母は、レーダーを駆使し、空母群と特攻隊の進路の間に
    護衛機や戦艦なども多数配置していたため、特攻隊は、目標に体当たりする
    どころか、対空砲火により、近づくことさえ困難となった。
     
    特攻隊員は、実際に特攻を行う際に、自分が死ぬ瞬間まで、本当に敵に突撃したか
    どうかを本部へ知らせるため、自分でボタンを押し続けて、モールス信号を発した。
    『ツー』という、モールス信号の音が長ければ、敵艦に突撃したと判断され、
    短ければ、対空砲火で撃墜されたと言う意味。 モールス信号が途切れた瞬間が
    死の瞬間。

    【泣ける】涙なしでは見られない…特攻隊員の想いがたくさんつまった遺書

    大日本帝国では、敗戦まで特攻が続けられたが、特攻による戦死者は、海軍
    2,431人、陸軍1,417人となっており、計3,830人の命が奪われた。 その一方、
    実際に敵艦を撃沈した戦果は以下の通りとなっている。

    正規空母 0
    護衛空母 3
    戦艦 0
    巡洋艦 0
    駆逐艦 撃沈13
    その他(輸送船、上陸艇など)撃沈 31

    敵艦撃沈数は47隻で、1隻沈めるために、81人もの兵士が死ななければなら
    なかった。 但し、この戦果の殆んどは、米軍にとっては、余り影響の少ない
    小艦艇ばかりだった。

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    フィンランド語でスオミと呼ばれるフィンランド共和国は、スカンジナビア半島と
    ロシア連邦に挟まれた北ヨーロッパの国で、このような地理のため、フィンランドは
    領土を拡張しようとする近隣の大国から侵略されて来た。 フィンランドは、長い
    歴史の中で多くの戦争を経験し、国境は何度も変えられた。

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    国境を接するスウェーデンは、フィンランドを自分の国に組み入れて、13世紀
    半ばから1808年まで統治した。 1808年には、ロシア軍がフィンランドを征服
    したが、ロシア皇帝は、スウェーデンが制定した法律や行政制度は、そのまま
    フィンランドに残した。

    フィンランドで文芸が栄えた19世紀に、フィンランド人の民族意識と文化を誇る
    気持ちが高まった。 民族主義運動を支えとしてフィンランド人は、ロシアの祖国
    完全併合の企てに抵抗した。 1917年に革命家達が、ソ連をつくる第一歩として
    ロシア帝政を倒すと、フィンランドは、ロシアの支配からの独立を宣言した。

    独立国となったフィンランドは、国境紛争、特にソ連との紛争に巻き込まれるのを
    避けようと努力した。 だがフィンランドは、1939年にソ連に侵略されてしまい、
    中立政策を放棄しなければならなくなった。 それから1944年まで、ソ連は
    フィンランドに莫大な金と物資の賠償支払いを求め続けた。

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    それにも関わらず、フィンランド人たちは、第二次世界大戦後に産業を復興し
    近代化した。 また、1950年代初めまでに、フィンランドはソ連に対する賠償
    支払いを完了した。 それ以来、フィンランドは近隣諸国と友好関係を維持する
    ことを最優先とした。 同時にフィンランドは、西ヨーロッパ諸国との通商上の
    協定も発展させた。 これらの努力によって、1990年代半ばまでに経済は健全化し、
    フィンランド人の生活水準は非常に良くなった。

    政府は、国民所得の多くを教育や福祉にあてている。 1人あたりの所得も高く、
    このような数多くの利点を、フィンランド人はこれらも改善し守って行こうとして
    働いている。

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    1991年6月になると、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を
    宣言した。 それに反対するセルビア人中心のユーゴスラビア連邦軍は、
    スロベニアに介入。 だが、綿密な計画と戦略、それに国民の9割がスロベニア人
    だったこともあって、10日間でスロベニアは独立を果たす。 しかし、クロアチア
    紛争は違った。 ユーゴスラビア王国当時からの懸案とされていた、セルビア人と
    クロアチア人の激しい民族対立が再燃したのだ。

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    6月25日の独立宣言以降、クロアチアでの戦闘は、クロアチア国内に残留した
    セルビア人との間で続いた。 しかし、9月になってユーゴスラビア連邦軍
    (実質的にはセルビア人中心の軍隊)が、クロアチアの首都ザグレブを襲撃
    するにおよび、大規模な戦闘に発展、民族紛争は、本格化した。 特に、
    クロアチア人とセルビア人が混住するスラボニア地区での戦闘では、死者
    3000人を数えたが、元々は仲良く暮らしていた隣り同士だった。

    アメリカ、ロシア、EU、国連などが調停を試みたが、双方の憎しみは深く、
    クロアチア軍は何度もセルビア人自治区に攻勢を掛け、略奪、暴行、虐殺の
    限りをつくした。 この結果、セルビア人自治区は全て制圧され、1995年に
    内戦は終結した。

    クロアチア紛争を契機に、1992年に独立したボスニア・ヘルツェゴビナでも
    紛争が起きた。 430万人の人口のうち、33%を占めるセルビア人の反発を無視し、
    人口比17%のクロアチア人と44%のボシュニャク人(イスラム教徒)が、独立を
    問う住民投票を独断で進めた結果の宣言だった。 不満を抱いたセルビアは、
    大規模な軍事行動を開始。 内戦は3年以上にもおよんだ。

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    【民族浄化】
    この内戦では、民族浄化と呼ばれる異民族排除の政策がとられた。 民族浄化
    とは、ある地域を民族的に単一なものにすることを目的に、嫌がらせや差別的な
    待遇、資産の強制接収や略奪など、異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる
    方法がとられたり、戦闘能力があると見なされた男は、各地で集団殺害や強制
    収容の対象とされたりした。 また、家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・
    ヘルツェゴビナの農村部では、強制収用された異民族の女性らを組織的に強姦し、
    妊娠後しばらくしてから解放することによって、出産せざるを得ない状況に
    追い込んだ。 女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、更に多くの異民族の
    自発的な避難を促すことが出来るからだ。

    このような民族浄化を含め、全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、
    難民、避難民200万人が発生、第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争となった。

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    共に中央アジアに位置するアゼルバイジャンとアルメニア。 黒海と
    カスピ海に挟まれたカフカス山脈の南に隣り合う両国は、アゼルバイジャン
    にあるナゴルノ・カラバフ自治州をめぐって泥沼の争いを続けて来た。
    根底には、民族と宗教が絡んでいる。

    nagkab

    トルコと友好関係にあるアゼルバイジャンは、元々は、イスラム教の国で、
    国民の95%がイスラム教徒となっている。 一方、ロシアとは強固な関係を
    築いて来たアルメニアは、キリスト教の国。 ソビエト時代には、連邦内の
    民族自決を弱めるために、宗教や民族間の分断を狙ったスターリンの政策で、
    キリスト教とであるアルメニア人が多数を占めるナゴルノ・カラバフは、
    アゼルバイジャンの自治州に組み込まれていた。

    1988年、同自治州の人口の8割を占めるアルメニア人はが、アルメニアへの
    帰属を求めたところ、アゼルバイジャンは要求を拒否しただけではなく、
    自治州まで廃止し、直轄統治という強引な措置に出たため、火種はくすぶり出した。

    1991年のソビエト崩壊に伴って、両国が独立を果たすと、アルメニア人の
    アルメニアへの帰属を求める民族意識は一気に燃え上がった。 紛争の勃発は
    1992年、ナゴルノ・カラバフが一方的に独立を宣言したことにある。
    アゼルバイジャンは経済封鎖などで対抗したが、アルメニアは、当然ながら
    戦闘状態に突入した。

    1994年、ロシアとフランスの仲介により、停戦が成立したが、停戦案の中身は、
    戦闘でアルメニアが占拠したアゼルバイジャンの領土は返還しなければならない、
    ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに帰属し、自治共和国として昇格する
    などと定められたことから、アルメニア側は反発、今も解決の目処が立って
    いないが、実質上は、アルメニアの支配下にある。

    更に、2009年、アルメニアは、 宿敵トルコとの間で国交正常化が実現したが、
    ここでもナゴルノ・カラバフ紛争をめぐる文言にアルメニア側が反発、正常化は
    ほど遠い現状となっている。

    nagorno410

    ロシアやフランス、トルコを始め、欧米などの仲介が上手く行かない背景には、
    バクー油田など豊富な天然資源がアゼルバイジャンの経済を支えて来た現状があり、
    更に、ヨーロッパ向け原油パイプラインに対する欧米の直接投資や原油高に伴う
    収益が、国内経済成長を後押ししているという現状に、仲介側が配慮せざるを得な
    かったという事情がある。

    その影で、この紛争では、2万人の犠牲者と100万人以上の難民が発生した。

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    【16世紀に始まったロシア帝国の侵略】

    ロシア連邦チェチェン共和国は、モスクワの南1500キロの場所にに位置し、
    面積は、日本の四国よりも少し狭い約1万7000平方キロメートルである。
    このあたりの一体は北コーカサス地方と呼ばれ、寒いロシア連邦の中では、
    温暖で豊かな地域である。

    200210

    北コーカサスには、多くの少数民族が住むが、チェチェン人は約6000年前から
    暮らしていたと言われ、チェチェン語はロシア語とは全く異なる言語で、
    現在では住民の殆どがイスラム教徒となっている。

    帝政ロシアは18世紀から、コーカサス地方の征服を始めるが、チェチェン人らは、
    これに抵抗して来た。 エカテリーナ2世の時代に戦争が本格化し、1785年に
    チェチェンで大規模な反乱が起こった。 それ以降戦争が続き、1859年に抵抗の
    指導者シャミーリがロシア帝国に降伏。 その5年後にチェチェンはロシア帝国に
    併合された。

    1917年に起きたロシアの十月革命は、チェチェン人らコーカサスの諸民族が独立を
    勝ち取る希望ととらえられた。 翌1918年には、コーカサス諸民族が集まり
    『山岳共和国』の成立を宣言した。

    しかし、革命政権『ボリシェビキ』、革命に反対する白軍、地元コーカサス
    諸民族が3つ巴の戦争状態となり、1924年には山岳共和国は廃止されて、
    チェチェンやその他の民族は、ソビエト連邦の領土として支配された。 つまり、
    帝政ロシアが革命で倒れた民族独立が達成されるかと期待されたが、新たに
    ソビエト革命政権に組み込まれてしまったのだ。

    第二次世界大戦末期の1944年2月、ソ連政権はチェチェン人がナチスドイツに
    協力をしたとして、チェチェン民族を全員貨車などに押し込めて中央アジアの
    カザフスタンに強制移住させた。 貨車での移動中に大量の人々が死に、
    強制移住先での病気や餓死などで、民族の半分を失った。

    zizitait

    【独立宣言と2つのチェチェン戦争】

    ソビエト連邦崩壊直前の1991年11月、チェチェン共和国は独立を宣言した。
    ソ連に代わったロシアは、特殊部隊などを派遣して独立運動の弾圧を試みたが
    失敗し、ついに1994年12月にロシア軍が全面侵攻し、第一次チェチェン戦争が
    始まった。

    ロシア軍は非武装の住民をも攻撃し、また、独立派ゲリラを探し出すために大量の
    住民を逮捕して『選別収容所』に送った。 このため、国際的にも非難の声が
    高まった。 1996年8月、8万人以上の犠牲者を出しながら、独立問題は棚上げを
    したまま停戦協定が結ばれて、戦闘は終わった。

    その後、中東などからイスラム急進主義者達がチェチェン領内に流入するように
    なったが、ロシア当局は、それを見逃していた。 1999年8月、チェチェンの
    イスラム武装勢力が隣国のダゲスタン共和国に侵攻する。

    また同月から9月に掛けて、ロシア各地でアパート爆破テロが連続し、合計300人が
    死亡した。 ロシア政府は、チェチェン独立派勢力のテロだと断定し、9月には
    チェチェン攻撃を再開した。 この第二次チェチェン戦争は、2009年4月16日に
    国家対テロ委員会が独立派の掃討が完了したとして、対テロ作戦地域からの除外を
    発表、10年の長きに渡った紛争が終結したものの、連続爆弾テロに関しては、
    多くの謎と疑問が指摘されたままで、未だに解明されていない。

    第二次チェチェン戦争では、前回を上回る激しい攻撃により、2000年春までに
    ロシア軍がチェチェンの主要部分を占領した。 2003年にはチェチェン共和国で
    大統領選挙を行い、ロシアの全面支援を受けたカディーロフ政権が正式に樹立され、
    今もチェチェンを統治している。

    人口100万人の地域で、20万人の犠牲者を出す残虐な戦争だった。 戦闘が終息に
    向かっても、ロシア軍やロシアに援助された傀儡政権による住民連行は後を絶たず、
    人権上大きな問題となっている。 国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチの
    モスクワ支部によると、2000年から2004年までの間だけでも、約1万8000人の
    行方不明者を出しており、未だ解決されていない問題となっている。

    ahgined

    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】
    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破
    親ロシア派のチェチェン共和国大統領アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】
    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモジェドヴォ空港爆破事件

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    ビクトリア女王の死去した1901年には、他の国々、中でもドイツとアメリカ
    合衆国は、製造業や鉄鋼生産の面でイギリスの強敵になっていた。 ドイツは
    海軍力と工業力を伸ばし、植民地、国際市場、外交の点でイギリスの敵対国と
    なっていた。

    1914年、オーストリア(ドイツの同盟国)が東ヨーロッパのセルビアを攻撃
    したのが発端で、19~20世紀に掛けて結んでいた種々の同盟関係によって、
    イギリス、フランス、ロシアが参戦して世界大戦となった。 これが第一次
    世界大戦である。 イギリス、フランス、ロシアは、ドイツ、オーストリア、
    トルコを相手に戦った。

    あらゆる階級や職業の何百万人ものイギリス人が志願、または、徴兵により
    イギリス軍に編入されて、フランス、ベルギー、中東の地で戦った。
    イングランド諸州も軍隊を送った。 国民がこの戦争を支持したからだ。

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    戦争に勝つために工場に出たり、看護師として海外へ行く女性もいた。
    広い自分の屋敷を傷病兵の収容病院のために提供する人もいた。

    しかし、戦争が長引き、多数の若者が見込みもないまま戦闘で戦って死んで
    行くにつれて、大衆の支持は弱まった。 1918年、対戦終結には80万人以上
    ものイギリス人が命を落としていた。 この世界規模の戦争は、イギリス
    社会に大きな変化をもたらした。 ビクトリア女王の時代には階級の区別が
    はっきりしていたが、大戦後の、女王の孫ジョージ5世の代には薄れていた。

    イギリス女性達は、対戦中に手に入れていた自立を守ろうとし、1918年には
    選挙権を勝ち得た。 労働党は、自由党をジリジリと追い出し、政権は
    労働党と保守党の間で交代した。 これまで地主や工場経営者と戦って来た
    農民や労働者も、繁栄の恩恵にあずかることを期待した。

    だが期待は外れた。 1930年代の世界的大不況でイングランドの農工業は、
    苦境に陥り、労働党、保守党どちらが政権を取っても300万人の失業者、市場の
    減少、植民地での暴動を解決出来なかった。 また、第一次世界大戦で敗戦
    したドイツが再び陸海軍力、経済力を強めて来た。

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    19世紀前半にはイングランドは、経済の重点を農業から商工業へ移していた。
    ロンドンのイングランド銀行は、金融の国際的中心となり、イングランドの
    投資家達は、6大陸の事業に資金を提供した。 こうした変化と共に、
    イングランドの社会は階層化し、上流、中流、下層と厳密に分かれるように
    なった。

    この間にイギリスは、自国の市場や海上の通商航路支配権を守るため、
    ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍と戦った。 1805年、スペインに
    近いトラファルガー岬沖で、またベルギーのウォータールーでフランス軍を破り、
    世界最強国としての地位を確立した。

    イングランドの繁栄は上、中流階級には利益をもたらしたが、大多数の下層の
    人々の生活は貧しかった。 工業の労働条件や都市の生活条件は劣悪で、
    賃金も低く、労働者は教育を受けることはまずなく、選挙権もなく、生活は
    苦しく、不潔であった。 健康管理も不十分で、幼い子供が危険な労働環境の
    下で長時間、働かされることも良くあった。

    1830年代に議会がこれらの問題に関心を寄せ、工場の労働条件を規制し、
    児童の労働問題を制限する法律を制定した。 労働組合が法的に認められ、
    選挙権が中流階級の男子まで広げられた。 不公平な刑罰を廃止するため、
    議会は古い法制度を改革し、また、全てのイギリス植民地での奴隷制度を
    不法とした。

    議会そのものも改革された。 以前は広大な土地を所有する家柄の者だけが
    議会を占めていた。 それが、1832年に選挙法改正法案が議会を通過すると、
    人口が増加しているにも関わらず、代表者を送ることが出来なかった、リーズ、
    バーミンガム、マンチェスター等の大都市が、議席を確保出来るようになった。
    過疎化した地域は、代表を送る権利をなくした。

    gokhiterad


    【ビクトリア朝時代】
    産業革命は、ビクトリア女王(1837年即位)の時代に最高潮になった。
    議会は、産業を奨励した。 当時のイギリス帝国の植民地は、インド、
    オーストラリア、ニュージーランド、カナダとアメリカ、アジア、カリブ
    諸島のある地域だった。 しかし、この頃のイングランドの発達は偏っていた。
    鉱山は世界全体の鉄の2分の1を産出したが、食糧不足は深刻だった。
    イングランドの貿易額は、他の国々全てを合わせた貿易量をしのいでいたが、
    労働者は選挙権もなかった。 このような状況が、更に新しい改革の波を
    呼び起こした。

    公衆衛生法が成立して労働者の悲惨な生活はある程度改善した。 政治の
    変革で、旧ホイッグ党とトーリー党が、それぞれ自由党と保守党に生まれ
    変わった。 ウィリアム・グラッドストンが自由党、ベンジャミン・
    ディズレイリが保守党の党首となった。

    london43

    二人は1868年~1885年の間内閣総理大臣の地位を交代し合い、選挙権を
    労働者に広げる法や、国民教育制度を確立する法の成立につくした。
    続く党首達も改革に努力し、退職者、病人や失業者に財産的援助を与える
    法律を制定した。

    やがて、これらの改革を通して、労働者の利益を代表する労働党が結成された。
    これでイギリス社会の全ての階級が、何らかの政治力を持つことになった。
    国際舞台では、イギリスは、自国の通商、軍事両面の支配権を利用して、
    ヨーロッパの重要事態の方向を決定した。 また、複雑な軍事同盟を結んで、
    19世紀後半の主な戦争に巻き込まれるのを避けた。

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