東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:戊辰戦争

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    アイヌ文化体験のため、日高地方にある二風谷を訪れた。 新千歳空港に
    降り立ってから、まず最初に向かったのは、すぐそばにあるウトナイ湖。
    8月下旬なのに、ウトナイ湖には既に白鳥が飛来しており、夜は10度位まで
    気温が下がっていて、完全に秋であった。

    胆振地方の中心地は室蘭なのだが、鉄の街はどこも地盤沈下が激しく、室蘭を
    抜いて、苫小牧が胆振地方では最大の街。 港湾を中心とした工業地帯で
    あるため、街中には煙突が数多く建ち並んでいる。

    札幌は常に人口増加率では全国でも1、2を争うぐらいの伸び率を示しているが、
    北海道全体で見ると、徐々に人口が減少している。 北海道で人口が増えて
    いるのは、札幌と苫小牧と帯広ぐらいで、それ以外の地域は、人口の減少が
    著しく、離農をした農家がほぼ全員札幌へと集まって来るため、札幌は常に
    人口が増加している。

    【苫小牧】
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    無料の日高自動車道を利用して、胆振地方から日高地方へと移動。 二風谷を
    訪れた8/24(日)は、たまたま、舟おろしのお祭り『チプサンケ』の開催日だった。
    『チプサンケ』とは、丸太舟を造って、川を下るお祭りなのだが、船の転覆が
    続出しており、乗船前に川に落ちても全て『自己責任』でお願い致しますという
    念書まで書かされた。 しかも、川下りであるため、同じ場所には戻っては来ない
    という理由により、持参したデジカメやスマホ等の荷物を一切預かっては
    くれないため、この行事は、舟が沈没するかどうかは、一か八かの賭けとも言える。

    二風谷は、同じアイヌ人居住区域の白老と共に、元々は仙台藩士が開拓した
    土地である。 仙台藩は元々、外様大名としては、最大規模の経済力を持って
    いたため、江戸幕府から再三お家取り潰しの嫌がらせを受けたのだが、幕末には、
    広大な蝦夷地の開拓を無理やり押し付けられ、後に、それが仇となり、戊辰戦争で
    負ける切っ掛けとなったとも言われている。

    実は、仙台藩が開拓した場所は、戊辰戦争で逆賊として負けた見せしめとして、
    開拓しても全く意味のない場所ばかり明治政府から与えられた。 最も酷い扱いを
    受けたのは、亘理伊達家で、老若男女武士一般人を問わず、1人残らず、全員
    蝦夷地の開拓をさせられたため、開拓の印として『伊達市』となったもの。
    戊辰戦争では、会津ばかりが注目されるが、最も領地を召し上げられて、
    明治政府から最も酷い扱いを受けたのは、実は仙台藩である。

    【二風谷】
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    アイヌ人は、北海道全体で見ても、数千人程度しか居ないとも言われていますが、
    差別を恐れて、アイヌ人とは言わない人が多く、和人との混血が進み過ぎており、
    既に、見た目的には判断出来ない人が多くなっているため、正確な数は分かっては
    いない。

    アイヌ人であったとしても、アイヌ語を自由に喋れるのは、高齢者しかおらず、
    この施設内に居たアイヌ人の方に、日本語とアイヌ語は、どちらが難しいですか?
    と訊いたところ、アイヌ語の方が難しく、普段は全く使っていないと言っていた。
    アイヌ語は、消滅危機言語の中でも、『極めて深刻』と判定されており、ロシア側の
    サハリンと千島列島のアイヌ語は、既に消滅している。

    【チプサンケ】
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    この日は、アイヌ模様の木彫り体験と、アイヌ語の語り部であるユカラを聞いた
    のだが、ユカラとは、アイヌ語で『叙事詩』を意味している。 この日語り部を
    していた方は、50歳を過ぎてからアイヌ語教室でアイヌ語を学んだそうで、
    それまでは、父親の方針で、家庭内ではアイヌ語を決して使わず、アイヌ人の
    知り合いが来ても、家の隅で聞かれないようにアイヌ語を使っていたため、
    アイヌ語には、全く触れずに育ったとのこと。

    このため、アイヌ民族は、バカにされるだけの存在だとずっと思っていたそうだが、
    アイヌ語を学ぶうちに、アイヌ民族は、決してバカではないことに気付いたとか。
    アイヌ語ネイティブは、基本的に90歳を越えているらしい。



    丸木舟での川下りは、実は、若干沈没し掛かったのだが、船頭さんが気転を利かせて
    川の中に入り、沈没しないように舟を引っ張ってくれため、この判断がなければ、
    恐らく、沈没していたと思いますw

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    河井継之助は、越後長岡藩の家老であり、郡奉行の職に就いてから数々の
    藩政改革を行い、若くして重職に抜擢された。 戊辰戦争において、長岡藩を
    率いて新政府軍に徹底抗戦したことで知られる継之助ですが、本来目指して
    いたのは『武装中立』であった。 当時、日本に3門しかなかった最新鋭の
    ガトリング砲を2門購入し、戊辰戦争に投入した。 丸腰だけではどうにも
    ならないため、武装での中立を目指したのである。

    諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で
    生きて行くことを志向した継之助。 しかし、その先進的な考えは理解されず、
    開戦へと突き進み、戦いのなかで落命して行くこととなります。



    彼が目指したのは「庶民を豊かにすることで藩の財政を立て直す」という、
    現代の日本人が聞いても羨ましい立派なものでした。

    実際に、
    代官の収賄禁止
    100石以上の藩士の禄は減らし100石以下のものは増やす
    水が腐ったような土地の免税
    川の通船税取立て廃止
    などを敢行。

    そしてわずか1年で藩の余剰金9万9,000両を残すのです。



    戊辰戦争での継之助は、講和派で、会津をかばい、最後まで戦争を避けようと
    していた。 しかし、交渉は決裂し、長岡藩は奥州列藩同盟側として開戦を
    決意する。 継之助は、長岡城の攻防で指揮官として采配を振るい、落城し、
    敵に奪われた城を一度は奪還した。 だが、その時に膝に傷を受け、指揮を
    取れなくなった。 体制を立て直すため、長岡軍は会津若松へと敗走するのだが、
    彼は濃毒症を発症したと考えられ、只見に到着した時には、既に重体であった。

    先に会津へ落ち延びていた藩主が派遣した幕府の医師の治療も受けたものの、
    当時の技術では、銃創に対する適切な処置が出来ず、直接的な死因は、
    破傷風だったと言われている。 42歳だった。

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    長岡の陥落は7月29日。 川井継之助が只見に入ったのは8月5日。 逃れて
    来たのは兵士ばかりではなかった。 町を焼かれた庶民も只見に押し寄せた。
    8月1日から10日間ほどに、延べ1万5,000人の兵士や避難民が只見に滞在した。

    避難民は土砂降りの中、八十里越を越えて来た。 只見をはじめ、伊南川
    流域の村々に分宿し、60人ほどに班分けされ、徐々に会津若松に送り出されて
    行った。 主に只見川沿いのルートをたどったらしい。

    戊辰の当時、会津若松へ向かう兵士や避難民たちは、濁流渦巻く只見川を
    恐れながら旅をしたことであろう。 この時の豪雨は、もうひとつの悲劇を
    生んでいる。

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    2018年で150周年を迎える戊辰戦争では、鶴ヶ城こと若松城下での戦いが有名だ。
    戦火は会津藩領全域に及んでいた。

    ひときわ山深い奥会津は、一時占領されたものの、その地形を生かしてゲリラ戦を
    展開。 新政府軍を追い散らし、戦いは会津軍優勢となって行った。 若松城下で
    敗戦間近だった時、奥会津では負けていなかったのである。

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    奥会津は山深い。 只見川、伊南川の流域は、この2川とそこに注ぐおびただしい
    数の支流が山ひだを縦横に縫って、深い谷をつくっている。 そして、それらの
    川筋に町や集落が散在する。

    奥会津は福島県会津地方の南西部。 柳津町、三島町、金山町、昭和村、只見町、
    桧枝岐村、南会津町の7町村を指す。 この町村に、会津若松市の一部、会津美里町
    高田地区の大部分、下郷町、更に栃木県日光市の一部を加えた地域が、かつては
    天領だった。 南山御蔵入領という。

    天領は直轄地だが、南山は長い間、会津藩が幕府に代わって統治する預かり地と
    なっていた。 山間で農地が少ないため、米は余り採れなかったが、下野(栃木)と
    並ぶ麻の一大産地であり、交易の盛んな土地だった。 その豊かな山河が幕末、
    戦火に蹂躙された。 慶応4年(1868年)、会津戦争の時である。

    大政奉還の翌年の1月、鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争は、江戸、関東、
    上越へと拡大して行き、会津に及ぶ。 戊辰の会津戦争と言うと、若松城の
    落城や、白虎隊の悲劇が良く知られている。 しかし、この南山でも、熾烈な
    戦いが領内の至るところで繰り広げられた。

    それは、幹線道である下野街道、越後街道をはじめ、八十里超、沼田街道など、
    若松城下へ向かう道が何本も南山を通っていたからだ。 この交通の要衝、
    各街道の入り口を防御することが、会津藩の死活に関わったのである。

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    同年閏4月、会津と旧幕府方の連合舞台(東軍)が下野街道を南下し、宇都宮領内で
    新政府軍(西軍)と衝突。 西軍が南山に侵攻する。 更に7月29日に越後長岡城が
    落城すると、南山が騒がしくなる。

    戦況は当初、西軍優位で進んだ。 南山統治の本拠、田島陣屋を奪い、一時は
    奥会津をほぼ制圧する。 だが、その直後に東軍は巻き返しをはかり、西軍を
    追い立てた。 占拠された田島陣屋を奪還。 更に各所に兵力を展開し、優位を
    取り戻すのである。

    意外にも、この時の東軍の主力となったのは、屈強で知られる会津藩正規軍では
    ない。 領内から集められた農兵を中心とする臨時編成の部隊だった。 しかも、
    奥会津での戦いは、9月22日に若松城が落城し、会津藩が降伏した後も、数日間に
    渡って続いた。

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    現在は、東北の中心地として発展著しい仙台なのだが、現在の美しい杜の都の
    街並みは、戦後の焼け野原から長年を掛けて復活したもので、特に、現在仙台の
    表玄関となっている仙台駅西口付近は、アメリカ軍のB-29によって、焼け野原と化
    したため、何も残らなかった。

    仙台駅東口付近は、逆に戦後も焼け残ったため、20年ほど前までは、戦争で焼けた
    地域と焼け残った地域がハッキリと分かったのだが、現在では、東口も大々的に
    再開発が行われたため、その差が殆どなくなった。



    1945年(昭和20年)5月20日、B-29による仙台の偵察飛行が行われ、街の様子が
    上空から撮影された。 アメリカ軍は、仙台を工業面での重要性はないが、住宅が
    密集し延焼を防ぐ広い道路や広場がほとんどないといった点から焼夷弾攻撃に適した
    都市であり、爆撃による心理的効果も期待出来ると評価していた。 アメリカ軍は、
    大規模空襲を行う前に、ビラを上空から撒き空襲を予告しており、そこには、
    『仙台よい町森の町 7月10日は灰の町』と印刷されていたという。 更に連合国は、
    ラジオでも恐怖を煽るために、繰り返し『仙台にお邪魔します』と放送したという。

    1945年7月10日、テニアン島からB-29 124機が飛び立ったが、そのうち1機は引き
    返した。 B-29 123機は、午前0時3分から2時5分まで、仙台中心部を大規模
    攻撃し、約912トン、1万2,961発の焼夷弾を投下した。 仙台上空に到着した
    爆撃機は、3~5機編成で飛行し、25回に渡る空爆を敢行した。 この時の死者は
    1,399人にも上り、負傷者は1,683人となった。 主に仙台駅西側の約500
    ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1,900戸にも上った。



    仙台空襲では、仙台城付近も空爆されたため、その際に大手門や当時国宝であった
    伊達政宗の墓所、瑞鳳殿も焼け落ちた。 戦後の復興において仙台では、大幅な
    道路の拡張が行われ、杜の都を取り戻す活動が行われた。 仙台が城下町であり
    ながら、片側5車線もの幅の広い道が整備されているのは、戦後の復興計画による
    ものであり、戦後の更なる仙台の発展を見越して計画されたもの。 計画当初は、
    余りにも広い道路であったため、一体何に使うのかと揶揄されたという。

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    伊達政宗が仙台にやって来た際、それまでにあった『千代』の街と城は徹底的に
    破壊され、新たな城下町が建設された。 その後、日本を二分した内戦『戊辰戦争』
    において、仙台藩は総指揮を取ったが、戦に敗れてしまったため、仙台の街は
    官軍によって徹底的に破壊された。 太平洋戦争でも徹底的に街が破壊され、
    2011年には、東日本大震災によって、今度は沿岸部が消滅した。

    『仙台の街はフェニックス』という言葉があるが、それは、過去に何度も破壊され
    ながら、その度に着実に復興、復活をして来た仙台の街の歴史を物語っている。

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    明治維新』とは、文明開化であり、それまでの後進的な考え方を全て捨て去り、
    近代日本の幕開けであると謳っているが、明治維新とは、本当に庶民が望んだ
    ものだったのか?

    19世紀後半、帝国主義の列強は、アフリカやアジアでの植民地の拡大を競っており、
    中国、朝鮮、日本の東アジア諸国は、ヨーロッパ列強、ロシア、アメリカ合衆国から
    開国を迫られるようになった。

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    【欧米列強のアジア侵略】

    清(中国)
    1662 年以降、中国を支配した満州族の清は、東インド会社が経営するインドとの
    貿易を開いていたが、イギリスとのアヘン戦争(1840~42年)や、アロー戦争
    (1856年~1860年)の敗北を契機に、列強諸国と不平等条約の締結を迫られ、
    外国からの圧力を受け、香港島は、この時、イギリスに奪われた。 日清戦争
    (1894~1895年)の敗北以降は、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ等によって、
    鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、清は、半ば植民地の状態となった。

    インドネシア
    14世紀にジャワ島を中心に、マジャバヒト王国が勢力を拡大し、17世紀には
    マタラム王国等、イスラム系の群小国家が成立した。 17紀よりポルトガル、
    オランダ、イギリス等が進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして
    植民地にし、19世紀末までにスマトラ、ボルネオを支配した。 1904年には、
    オランダ領東インドを作って、オランダの植民地体制が確立された。

    ベトナム
    ベトナムは、中国による千年に渡る支配から独立したのもつかの間、その後、
    100年間も続くフランス統治の植民地となった。 自分達の土地を自分達のために
    耕してきた人々が、フランス総督の重税のために土地を手放し、ゴム園の小作農
    として働かされ、少しでも反抗を企てると、逮捕監禁、重労働を課せられた。
    無理に値段を高くされたアルコールや阿片を吸引することを強制され、体も心も
    疲れ果て、それでも毎日作業をしなければならなかった。

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    日本
    日本でも1808年には、九州でフェートン号事件や、1811年には北海道でゴローニン
    事件といった海外との摩擦が起こり始めた。 徳川宗家最後の将軍となった慶喜は、
    英国系とフランス系フリーメイソンによる日本を内戦に誘い込む意図を見抜き、
    これに対抗した。 持久戦に持ち込めば、幕府側にも十分に勝ち目があったにも
    拘らず、あっさりと大政奉還をし、薩長に降伏した。 これによりフリーメイソン
    目算が外れた。 フリーメイソンの手の内にあって操られていた、岩倉具視や、
    木戸孝允が、慶喜にしきりにケンカを売ったが、慶喜は忍の一字で耐えた。
    慶喜が倒幕派の誘いに乗り、フランスの軍事援助を受けていたら、戊辰戦争
    (1868年~1869年)は注文通りに長期化した筈である。 慶喜は、腰抜けと
    罵倒されることを覚悟しつつ、あえて政権委譲に応じた。 大政奉還は、
    フリーメイソンに抵抗するための最善の方策だったと言えるのかも知れない。

    幕末から維新へと日本全土を巻き込む戊辰戦争を、日本人はわずか2年で終わら
    せた。 他のアジア諸国では、内戦が長引き、次々と植民地となった。 西欧
    金貸しの真の狙いは、他国を内争へと導き、漁夫の利を得ながら、支配権を
    自らの手中に収め、骨の髄までしゃぶり尽くすことであった。

    【アメリカ至上主義】
    明治維新に限らず、この他にも日本では、『年次改革要望書』、『郵政民営化』、
    直近では、『TPP』等、これまでに官僚主導によって、アメリカに有利な政策
    ばかりが進められて来た。 その中でも、特に中心となって動いて来たのは、
    フルブライト留学制度や、ローズ奨学金制度等で、アメリカの教育を受けた
    官僚達となっている。

    日本人がこうしたアメリカに都合の良い政策ばかりを安易に受け入れてしまう
    背景としては、戦後教育によって植え付けられた『個人主義』、『民主主義』、
    『市場主義』等、欧米から持ち込まれた教育制度によるものが大半を占めて
    いるが、更にその教育機関は、近代以降、金貸しが国家や民衆を支配して行く
    ための『洗脳』の道具と化している。

    【明治維新】
    実際の『明治維新』の実態は、欧米列強諸国による、アジアでの『植民支配』の
    拡大でしかなかった。 歴史を紐解くと、『尊皇攘夷』を掲げた維新志士達は、
    いつの間にか『尊皇』から『倒幕』へと転換して行く。 孝明天皇の意に従い、
    外国勢力を国内から排除しようというのが本来の『攘夷』の意味なのであるが、
    国内最大武力の徳川幕府を倒して、どうやって外国勢力を排除出来るのか?
    どれもこれも、海外金融勢力が日本にもたらした内戦の火種でしかない。
     
    大政奉還による政権交代以後、国際金融資本によって操られた明治新政府は、
    政府とは別の軍事組織である総督府を勅命で組織し、官軍を名乗り『戊辰戦争
    という侵略戦争を開始、江戸を攻め、会津を攻め、東北全土、函館をも戦火に
    巻き込み、略奪暴行虐殺の限りを続け、植民地とした。 つまり、『維新』とは、
    極左テロリストによって政権転覆させられた『革命』のことなのである。

    現在の日本政府は、その流れを汲んでおり、未だに残忍非道な極左テロリスト組織で
    あった長州出身の首相を戴いているため、どうにもならない。 尚、戊辰戦争
    よって、破壊され尽くされた地への謝罪は、150年が経過した現在になっても、
    未だに一度も行われてはいない。

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    尚、戊辰戦争を引き起こす引き金となった思想家達を育てた吉田松陰は、その
    過激な思想や言動を抑えられずに、安政の大獄により、若くして粛清、斬首
    されている。

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    伊達62万石の城下町仙台は、東北最大の都市であると共に、東北最大の観光地。
    今回は、その歴史と主な見どころを紹介します。



    伊達政宗公の肖像画や木造は、生前片目だけで非常に親不孝をしたという遺言により、
    基本的に全て両目が入れられている。 仙台市博物館所蔵の肖像画に書かれて
    いるのは、辞世の句。 現代語に翻訳をすると、『少年時代は、いつも馬の上で
    過ごしたが、世の中が平和になり、白髪も多くなったため、この世を楽しまないで
    どうするよ?』

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    伊達政宗の従兄弟の伊達成実は、戦場では、決して後退りをしなかったという非常に
    勇猛果敢な武将で、常に政宗を助けた。 藩政時代の仙台藩の藩図は、明治政府に
    無理やり割譲させられた岩手県の南3分の1と、同じく、福島県に割譲させられた
    新地が含まれており、この他にも、仙台藩は、愛媛県の宇和島と、滋賀県にも領土が
    あった。 蝦夷地(北海道)が独り立ちするまでは、仙台藩が蝦夷地を統括して
    いたのと、戊辰戦争に負けた際に、仙台藩の武士は、蝦夷地へと強制的に
    送られたため、仙台弁と北海道弁は、概ね同じとなっている。 但し、言語的に別れて
    から、既に150年程経過しているため、北海道弁の方が古い形を残しているのが特徴。

    仙台藩は、豊富秀吉によって、現在の福島、並びに、山形の旧領地を全て召し上げられ、
    現在の宮城県へと国替えになったが、伊達家が最終的に目指したのは、武力ではなく、
    経済力による江戸の支配。 伊達家は、全国第3位の大大名であったものの、それに
    満足する事なく、近江の国出身で、治水の名手と言われていた、川村孫兵衛に命じて、
    河川を切り開き、水田と港を開いて他藩との交易を活発に行なった結果、仙台藩の
    実質石高は、その表高の約4倍にまで膨れ上がり、江戸に流通している米の約半分を
    完全に牛耳るまでになった。 その経済力を使い、仙台藩は、直接ローマやスペインとの
    交易を試みたものの、時は既に鎖国、切支丹弾圧へと進んでいたため、最終的には、
    うまくは行かなかった。

    仙台市博物館では、それらの資料が「慶長遣欧使節団関連資料」として展示してあり、
    現在は、国宝、並びに、世界記憶遺産として指定を受けている。 慶長遣欧使節団は、
    日本で初めて太平洋と大西洋を単独で横断した使節団であり、散切り頭で有名な
    岩倉使節団が欧州を訪れた際に、この事実を知り、非常に感銘を受けたと言われて
    いるが、それが幕末に大逆賊の汚名を着せられた仙台の地に日本で2番目の帝国大学
    (現在の東北大学)が開設された直接の理由とも言われている。

    支倉常長を描いた洋画は、日本人を描いた世界で初めての油絵で、切支丹へと改宗した
    常長の子孫が、幕府からの弾圧を恐れて折り畳んだ後、更に丸めて筒に入れて隠し
    持っていた跡がクッキリと残っている。 使節団の一部は、切支丹へと改修の後、
    弾圧を恐れて、そのままスペイン南部に残り、現在は、「日本」を意味する「ハポン姓」を
    名乗っているが、サムライの末裔である事を大変誇りにしているとか。 400年以上も
    前に、単独で船を建設して、危険を犯してまで海を渡ってスペインとの交易を試みたのは、
    表面上は、貿易のためとされているものの、実際のところは、当時世界最強の力を
    誇っていたスペインの力を借りて、江戸の徳川幕府を倒すためとも言われている。

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    毎年、仙台七夕の夜にだけ開催される瑞鳳殿のライトアップイベントでは、夜の瑞鳳殿を
    見る事が出来る。 瑞鳳殿は、伊達政宗公の御霊屋で、今でもこの下に遺骨が納められて
    いる。 仙台大空襲を受けるまでの瑞鳳殿は、国宝指定されており、日光東照宮と
    同時期に建てられたため、「奥の日光」とも呼ばれていたが、戦災で消失。 その後、
    昭和54年に再建されたものの、現在は、国宝指定はされていない。 派手好きであった
    政宗公の御霊屋らしい、安土桃山時代の豪華絢爛な建築様式となっているため、
    非常にお勧めのスポットとなっている。

    仙台は日本におけるスケート発祥地となっており、仙台城三の丸にある五色沼には、
    スケート発祥の地の碑が建っている。 二の丸の入口付近には、支倉常長の像が
    建っている。 本丸への入り口にある隅櫓は、戦災で消失の後、再建されたが、
    大手門は、消失したままの状態となっている。



    昭和46年に建設された仙台港は、現在トヨタ東日本の積出港となっているため、新車が
    常に駐車されているが、東日本大震災の際には、これらの新車も全て津波に流され、
    瓦礫と化した。 仙台フェリーターミナルからは、北海道の苫小牧と名古屋までのフェリーが
    運行されており、苫小牧まで7,500円、名古屋までは5,000円で行く事が出来る。

    貨物専用駅の仙台港駅付近は、東日本大震災の際に、鉄路ごと流されたが、今では、
    全ての復興が完了しているため、細かく見て行かないと、津波の爪痕は残っていない。
    仙台港のすぐ裏にあった蒲生干潟は、津波で破壊されて、干潟ではなくなった。

    尚、「被災地に略奪はなかった」と言う都市伝説は、全くの大ウソで、仙台港付近では、
    かなり略奪が発生したが、東北の場合は、人が優しいため、「困っているのであれば、
    どうぞ持って行って下さい」と言った人が多かったため、結局は、略奪にはならなかった
    というのが事実。 但し、本当の略奪も実はかなり多かった。

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    1945年7月10日、米軍のB-29爆撃機が2時間に渡って約13,000発の焼夷弾を
    仙台市中心部に投下したため、仙台市中心部分は、ほぼ全て消失。 この時の
    死者数は1,000名を超え、東北地方で最大の被害をもたらした。 この時、惜しくも、
    国宝であった、瑞鳳殿と仙台城大手門は消失した。 その後、瑞鳳殿は市民らの
    手によって再建されたが、大手門は、その後も再建される事なく、現在に至っている。

    仙台市内の道路が、城下町にしては珍しく、片側5車線もあるのは、戦時に街の
    中心部を全て焼き払われたためで、将来を見越して、かなりゆとりのある街づくりを
    した結果。



    『杜の都』の呼び名は、藩政時代からあったものだが、この時の仙台大空襲によって、
    全ての杜が失われたため、現在のけやき並木は、戦後になってから全て新しく
    植えたもの。 戦時中は、学生も総動員されたが、教育は二の次で、竹槍での戦闘
    方法等、戦争の実践の方が重要視された時代であった。

    仙台七夕は、藩政時代から続くお祭りではあるものの、戦中は、数年間に渡って、
    開催が中止された。 現在の仙台七夕祭りが復活したのは、戦後間もなく。 よって、
    今年で第70回目の七夕祭り。 仙台は、別名『杜の都』として有名だが、戊辰戦争で
    敗れた仙台藩には、戦後、すぐに、仙台城二の丸に軍隊が置かれた。 これが
    『帝国陸軍第二師団』。 その後、歩兵第4連隊も置かれたため、戦前の仙台は、
    日本屈指の『軍都』として栄えた。

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    戊辰戦争で町を焼き払われ、太平洋戦争で町を破壊され、東日本大震災でも沿岸部が
    消滅した仙台には、『仙台の町はフェニックス』という言葉がある通り、戦後70年を掛けて
    徐々に復興を果たしたものの、現在の仙台城三の丸には、戦後に50年間の約束で
    仙台市が市民に提供した土地があるが、現在でもその場所では、出て行け出て行かないの
    押し問答が繰り返されているため、沿岸部の津波被災地での集団移転には、この時の
    二の舞いにならないように、しっかりとした復興計画が必要。 仙台市戦災復興記念館
    では、戦争体験者等による語り部活動が続けられているが、既に80代後半以上とかなり
    高齢化しているため、正しい戦争の記憶を次の世代へと引き継ぐための資料作りが
    急がれている。



    宮城県は、戦前まで、帝国陸軍第二師団が置かれていたため、仙台市のみならず、
    全土で空爆された。 特に、航空自衛隊松島基地は、5回に渡って空爆をされており、
    山本太郎がキチガイのように騒いでいる、原発のすぐそばに自衛隊がある。

    仙台に帝国陸軍が置かれたのは、戊辰戦争で負けてしまった見せしめで、その後、
    宮城県は帝国陸軍の基地に、福島県は東電の原発の基地になった。 戊辰戦争は、
    会津ばかりが出て来るが、一番重罪を課せられたのは、仙台藩の方。

    動画の中で『戦争は、温かい心が無くなった時に起きる』と言っているが、全くもって、
    その通り。

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    仙台藩は150年程前に戊辰戦争に敗れてしまったため、近代化を図るために引いた
    はずの鉄道は、それぞれの町を発展をさせないために、わざと宮城県内全ての
    町の中心街を外して施設されました。

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    当然この仙台駅も当初は、中心地から外れた現在のJR貨物の仙台貨物ターミナル
    駅付近に建設をする計画でしたが、その後の市民運動により、多少中心部に近い
    地点に戻されました。 よって、仙台駅付近は、無意味にS字を描くように大きく湾曲
    した路線として建設をされました。

    元々仙台駅を通過する列車は1本もないため、このような遠回りをするような路線でも
    構わないのですが、30年ほど前に新幹線を建設する際にも、この無意味な湾曲が
    問題視されたため、やはり宮城野貨物駅付近に新仙台駅を建設する計画がありました。

    現在では押しも押されもしない東北の玄関口の仙台駅ですが、実際の仙台の中心部は
    県庁や市役所がある地下鉄勾当台公園駅付近なので、地下鉄で2駅、歩くと15分程度
    中心部から外れています。 尚、現在のJR仙石線の仙台駅は、当初駅を新設する
    計画ではなく、現在のあおば通駅が仙台駅となる計画でしたが、JR線との乗換えが
    不便になるため、急遽仙台駅と交差する場所に駅が追加されました。



    その後、地下鉄仙台駅との接続駅をどうするかという話になり、結局はあおば通駅が
    仙石線の終着駅になりました。 本来は、この仙石線を延伸して、そのまま地下鉄
    東西線となる計画でしたが、東西線の建設計画が大幅に変更され、しかも、リニア駆動
    形式で建設される事となったため、仙石線と地下鉄の相互乗り入れは、未来永劫
    なくなりました。

    尚、仙石線のあおば通駅~仙台駅間は、元々宮城電鉄が運営をしていた地下路線で、
    これが日本で初めて電車が地下を通った路線となるため、日本初の地下鉄路線と
    呼べるかも知れません。 尚、現在の仙台駅は、元々この地下鉄東西線の建設を
    見越して設計をされていますが、あくまでも1路線だけを想定して設計を行っており、
    仙石線が既に地下化されて仙台駅の下を通っているため、地下鉄東西線の仙台駅
    付近の工事は、かなりの難工事となっています。

    今年の年末に開業予定の地下鉄東西線は、東日本大震災により、半年ほど、工事が
    中断されましたが、地震の影響を殆ど受けなかったため、予定通りの開通を予定して
    います。 これが、日本における最後の地下鉄工事とも言われています。

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    最近、地方の方に電話を掛ける機会が多くなり、先日は、札幌、福岡、仙台に
    電話を掛けた。 さて、この中で、最も訛っている都市は、どこかと言うと、
    比較的標準語に近いとされている、札幌なんですねw

    私、何気に、東京⇔仙台⇔札幌を引越しで行ったり来たりしております関係上、
    標準語に加えまして、東京弁、仙台弁が完全ネイティブ、北海道弁は、仙台弁の
    南側の方言である、仙南弁が変形した方言であるため、こちらも、ほぼネイティブ
    となっております。

    仙台弁と北海道弁は、単語も70%程度同じで、イントネーションは完全に同じ。
    『いづい』と『したっけ』は、仙台弁と北海道弁以外は使っていない方言で、
    『いづい』は、標準語で言うと、『しっくりこない』になるのだが、ニュアンスが
    標準語とは、かなり異なりる。 また、同じ仙台弁から派生した単語である筈が、
    北海道の場合は、『今日の天気いづいね』とも言うため、仙台弁の使い方からは、
    既に逸脱している。

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    北海道弁で言うところの、『今日の天気いづい』とは、仙台弁では、『今日の天気
    おがつねー』と言うので、既に全くの別物。 『したっけ』に至っては、共に基本的
    には、『~すると』と言う意味で使うのだが、北海道弁では、『またね』という意味
    でも使うものの、仙台弁には、そのような意味は一切ないため、完全に元の意味が
    変形したもの。

    尚、仙台弁で『またね』は、『んでね』と言います。 『したっけ』と
    『しったっけ』は非常に似ているのだがが、全く別の意味で、『しったっけ』は、
    『~していたら』という意味。

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    北海道は、かつては蝦夷地と呼ばれた外地で、松前藩が完全に独立をするまでは、
    仙台藩が直轄地として、一時蝦夷地を治めていた場所。 その後、戊辰戦争~
    明治維新を経て、東北列藩同盟の各藩が、蝦夷地の開拓を強要されたのだが、
    その中でも、仙台藩からは多くの武士たちが強制的に蝦夷地の開拓をやらされたため、
    北海道には、その方言が完全に残った。

    その他、現在の愛媛県宇和島市は、仙台藩の支藩だったため、藩祖伊達政宗公の
    長男である、伊達秀宗公が、初代藩主となり、仙台藩から、家臣を引き連れて、
    宇和島入りしたが、その方言自体は、現地に完全に吸収され、全く残ってはいない。

    これと同様に、約400年ほど前に、石巻の月の裏から、ローマに向けて出帆した、
    慶長遣欧使節団の一部は、その地でキリスト教へと改宗し、スペイン南部に
    留まったが、こちらも、現地の人たちと同化し、今でも、その名残として、
    スペイン語で、日本を意味する『ハポン』姓を名乗っている。

    支倉常長を団長とする、この慶長遣欧使節団については、下記のリンクを参照。

    >>遠い帆 ~日本で始めて海を渡ったサムライ~

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    今回は、仙台が、どうして、宮城県という名前になったかについて、お話しようと
    思います。
     
    時は遡り幕末の京。 仙台藩は、鳥羽伏見の戦いで、理不尽な条件ばかりを飲まされ
    そうになった会津藩をかばい、当初は、薩長に会津藩を許してくれるようにと懇願
    しますが、全く受け入れられず、逆に仙台藩が責任を持って、会津を倒すようにと
    命じられます。 その後、福島で長州の責任者と再度会談を試みるものの、ここで、
    かなり屈辱的な事を言わる事となったため、その大使を殺害してしまいます。
    これが、戊辰戦争の始まりです。
     
    この時に、米沢藩と共に、他の奥州列藩軍を率いたのが、奥州最大の藩であった
    仙台藩。 白河城を奪われたところから、続々と退却を余儀なくされた奥州列藩軍
    ですが、いよいよもって、仙台藩の砦である白石城も落城し、最終的には、
    仙台城は落城しなかったものの、仙台藩は、薩長軍に降伏を余儀なくされます。

    仙台藩は、自分が力尽きる最後の最後まで、会津を裏切りませんでしたが、会津の
    味方をしただけで、特に何も悪い事をしなかったのにも関わらず、その後に
    課せられた罪は、会津藩以上でした。 当時の仙台は、繁栄を極め、ここよりも
    大きい町は、その当時、江戸・京・大阪・名古屋・金沢だけでしたが、その後、
    大逆賊の汚名を着させられて、没落する事となります。

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    伊達家一の家臣である白石の片倉家は、領地が全て没収となったため、伊達家には
    迷惑を掛けられないという理由で、全員で率先して、当時何もなかった札幌の
    開拓へと行きます。 現在の札幌市白石区は、この当時の名残で、北海道弁は、
    仙台弁の南側の方言である仙南弁が完全にベースになって変形したもの。

    仙台伊達家は、わざと開拓しても無駄な白老の開拓に行かされ、亘理伊達家は、
    伊達市の開拓に、岩出山伊達家は当別の開拓に行く事となります。
     
    その後、廃藩置県が進められたのですが、仙台藩の元々の領地は、現在の宮城県
    全てと、岩手県の南3分の1だったのにも関わらず、『今後仙台が二度と発展しない
    ように』との戒めを込めて、北半分を『水沢県(正確には、涌谷県、登米県、
    一関県と目まぐるしく名前が変更)』として分離、南側は、一時期だけ『仙台県』
    として存在しましたが、仙台は戊辰戦争を率いた大逆賊として扱われたため、
    その名称を使う事だけは許されず、他の名前を付ける事となりました。 これは、
    現在の被災地である、岩手、福島も同様の扱いでした。



    水沢県は、その後、南北に分割され、北側は、盛岡へと割譲、岩手県となりました。
    岩手県の南3分の1では、今でも仙台弁が話されていますが、それは、この時の名残。
    岩手県の陸前高田市が、わざわざ仙台の旧国名である『陸前』と付けているのは、
    市の名前を持ってして、盛岡とは違うと言っているため。 その後、水沢県の
    南半分は、元の仙台へと吸収され、仙台市がある『宮城野』の名前を取って、
    宮城県となりました。
     
    仙台人は、基本的に、『宮城』とは余り言いたがりませんが、それは、『仙台』
    という単語が、今の岩手県の南側も含むため。 学区制を敷いていた当時は、
    『仙台』『東北』と付くと、男子校、『宮城』と付くと、女子高という規則が
    ありました。 よって、仙台人は、今でも、『宮城』と聞くと、女を連想します。
     
    戊辰戦争での大敗を期に、結果的に福島は、東電の植民地と化しますが、宮城は、
    軍事基地にされました。 宮城県内の自衛隊が、かなり大規模なのは、帝国陸軍
    第二師団だったため。

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