O-Zoneは、旧ソ連邦のモルドバ共和国出身のルーマニア語による男性3人組
グループ。 1999年、リーダーのダン・バラン(Dan Bălan)とその友人ペトル・
イェリホフスキ(Petru Jelihovski)の2名で結成され、モルドバ国内で、7曲のメガ
ヒットを生み出す前代未聞の快挙を達成する。 しかし、作詞、作曲をひとりで
担当し、音楽を真剣に考えるダンは、ルーマニアでの音楽活動を希望、あくまで
音楽を趣味と考える、ペトルとの対立が表面化し、二人は袂を分かつが、その後も
友人関係は続いている。
グループ。 1999年、リーダーのダン・バラン(Dan Bălan)とその友人ペトル・
イェリホフスキ(Petru Jelihovski)の2名で結成され、モルドバ国内で、7曲のメガ
ヒットを生み出す前代未聞の快挙を達成する。 しかし、作詞、作曲をひとりで
担当し、音楽を真剣に考えるダンは、ルーマニアでの音楽活動を希望、あくまで
音楽を趣味と考える、ペトルとの対立が表面化し、二人は袂を分かつが、その後も
友人関係は続いている。
【ダン・バラン最新曲】
2001年春、ダンは、3人組のユニット結成を計画したが、彼のボーカルの先生が
音楽スクールの後輩アルセニェ・トデラシュ(Arsenie Toderaş)を紹介した。
アルセニエは、歌を習い始めたばかりで、時期尚早とも思われたが、将来性を信じた
ダンが、グループに迎え入れたものだが、この時ロシア訛りで話すアルセニエが
オーディションで、エルヴィス・プレスリーの『Love Me Tender』を歌うと、
ロシア語のアクセントが嫌いで、ロシア訛りが苦手だというダンだったが、彼の
歌に嫌悪感が吹っ飛び、気にならないと言ったそうである。 少し経ち、ダンは、
ラドゥ・アレクセイ・スルブ(Radu Alexei Sârbu)と出会い、新しいメンバーを
加えて、第2次O-Zoneが結成された。
アルセニエは、歌を習い始めたばかりで、時期尚早とも思われたが、将来性を信じた
ダンが、グループに迎え入れたものだが、この時ロシア訛りで話すアルセニエが
オーディションで、エルヴィス・プレスリーの『Love Me Tender』を歌うと、
ロシア語のアクセントが嫌いで、ロシア訛りが苦手だというダンだったが、彼の
歌に嫌悪感が吹っ飛び、気にならないと言ったそうである。 少し経ち、ダンは、
ラドゥ・アレクセイ・スルブ(Radu Alexei Sârbu)と出会い、新しいメンバーを
加えて、第2次O-Zoneが結成された。
ダンは、早速、新曲4曲をリリースし、人気は上々だった。 これを受けて、
いよいよダンが望んだ、ルーマニア進出へと乗り出す。 モルドバ人が
ルーマニアで成功した前例は過去になかったが、3人は成功を信じ、努力は
惜しまなかった。 資金が不足していたため、所有していたスタジオと
シンセサイザーを売却した。
2002年春、ルーマニアの音楽大手『Media Services』と契約が決まり、8月に
3人としてのファーストアルバム『Number1』を発売したものの、当初
ルーマニアでは、『モルドバの新しいバンド』としか受け止められていな
かったためか、ラジオでもなかなか取り上げられずに苦戦した。
そこで、2002年秋には、このアルバムの中から『Despre Tine』をシングル
カットして発売、『覚えやすくて面白い』をテーマに、プロモーション・ビデオも
制作されると、これがルーマニアでは数十年ぶりという大ヒットを記録、5ヶ月
以上に渡ってヒットを続け、多くの老若男女が口ずさむほどの人気曲となり、
それに乗じてアルバム『Number1』も10万枚を超えるメガヒットとなり、
O-ZONEは一躍ルーマニアで大人気のバンドとなった。
【ウクライナのヴェラ・ブレジネワとのデュエット曲】
2003年、シングル『Dragostea Din Tei』 (DDT) をリリース、ヨーロッパ全土を
巻き込んで空前の大ヒットとなった。 同年8月にリリースされた、セカンド
アルバム『DiscO-ZONE』も翌年夏に大ブレイクし、『Dragostea Din Tei』の
軽快なリズムに乗ってO-Zoneは欧州を席巻、モルドバの大ヒーローとなった。
2004年夏には、日本でも『恋のマイアヒ』としてメガヒットを記録し、社会現象
にもなった。日本では、『SMAP×SMAP』や、『ミュージックステーション』
にも緊急生出演している。
しかし、ヨーロッパを席巻し、日本でもヒットの兆しが見え始めていた矢先の
2005年1月14日、突然解散を発表した。 ダンがアメリカに渡り、O-Zoneの名で
英語で新しい歌詞をつけた曲をリリースしたが、これに反発した残りの2人に対し、
ダンが『今まで、作詞、作曲、プロデュース、全て自分でやってきた。 O-Zoneは
ずっと俺のものだった。』『O-Zoneに今後はない。 今このプロジェクトを終わら
せているところだ。』と一方的に解散を宣言をした。
2005年10月、解散コンサート後にも関わらず3人で再び来日し、10月7日の
『ミュージックステーション』、24日の『SMAP×SMAP』にも出演している。
この年の12月に、またもや来日し、『ミュージックステーション』や
『とくばん』等にも出演。 しかし、ラドゥーは、娘と迎える初めての
クリスマスの為か、来日しなかった。
【空前のメガヒットとなった『恋のマイアヒ』】
2007年3月12日、O-Zoneが近々再結成するのではないか、という内容の記事が、
ルーマニア語サイト『Revista Vip』に掲載された。 2月にキシナウのクラブにて、
ダンとアルセニェが面会していたため、これが噂の出所では、との声もあるが、
今のところ、メンバーの復活は実現しておらず、それぞれが、ソロ活動を行っている。
ダンは、近年、主に、ロシア語で歌っており、ロシア市場でのヒットも数々記録して
いるが、グループ結成時よりも、歌唱力が数段上がっているため、今後も目の離せ
ないアーティストと言えるかも知れない。
2018年版「恋のマイアヒ」
【お勧めの一枚】
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2005年1月14日、突然解散を発表した。 ダンがアメリカに渡り、O-Zoneの名で
英語で新しい歌詞をつけた曲をリリースしたが、これに反発した残りの2人に対し、
ダンが『今まで、作詞、作曲、プロデュース、全て自分でやってきた。 O-Zoneは
ずっと俺のものだった。』『O-Zoneに今後はない。 今このプロジェクトを終わら
せているところだ。』と一方的に解散を宣言をした。
2005年3月、エイベックス・ディストリビューションより、日本盤のアルバム
『DiscO-ZONE』がリリースされ、7月15日には、初来日を果たし、ミュージック
ステーションにも出演。 8月22日付のオリコン総合アルバムチャートで発売24週目
にして、1位を獲得。 海外アーティストのデビューアルバムの1位は、1972年の
ポール・サイモン、2003年のt.A.T.u.、2004年のUtadaに続いて史上4組目であった。
2005年12月1日、第47回日本レコード大賞特別賞を受賞し、2005年9月23日、
ルーマニアの音楽イベント『チェルブル・デ・アウル国際音楽祭』にて、最後の
コンサートを行った。
『DiscO-ZONE』がリリースされ、7月15日には、初来日を果たし、ミュージック
ステーションにも出演。 8月22日付のオリコン総合アルバムチャートで発売24週目
にして、1位を獲得。 海外アーティストのデビューアルバムの1位は、1972年の
ポール・サイモン、2003年のt.A.T.u.、2004年のUtadaに続いて史上4組目であった。
2005年12月1日、第47回日本レコード大賞特別賞を受賞し、2005年9月23日、
ルーマニアの音楽イベント『チェルブル・デ・アウル国際音楽祭』にて、最後の
コンサートを行った。
2005年10月、解散コンサート後にも関わらず3人で再び来日し、10月7日の
『ミュージックステーション』、24日の『SMAP×SMAP』にも出演している。
この年の12月に、またもや来日し、『ミュージックステーション』や
『とくばん』等にも出演。 しかし、ラドゥーは、娘と迎える初めての
クリスマスの為か、来日しなかった。
【空前のメガヒットとなった『恋のマイアヒ』】
2007年3月12日、O-Zoneが近々再結成するのではないか、という内容の記事が、
ルーマニア語サイト『Revista Vip』に掲載された。 2月にキシナウのクラブにて、
ダンとアルセニェが面会していたため、これが噂の出所では、との声もあるが、
今のところ、メンバーの復活は実現しておらず、それぞれが、ソロ活動を行っている。
ダンは、近年、主に、ロシア語で歌っており、ロシア市場でのヒットも数々記録して
いるが、グループ結成時よりも、歌唱力が数段上がっているため、今後も目の離せ
ないアーティストと言えるかも知れない。
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