多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の『多言語翻訳GoWest』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:志津川

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    志津川湾から約300メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の総合結婚式場
    『高野会館』。 震災時、利用客や従業員ら約330人は会館に留まった。
    『帰したら、津波で危険だ』。 避難誘導に当たった従業員らのとっさの判断が、
    全員の命を救った。

    160a4180.jpg
    高野会館の屋上まで水が押し寄せ、建物最上部に移動する避難者ら
    2011年3月11日午後3時40分ごろ(従業員提供)


    逃げる その時 帰さず(宮城・南三陸町、高野会館)
    出典:河北新報 2011年6月23日

    会館を出ようと、ロビーに殺到した人だかりが歩みを止めた。 階段の前で、
    従業員らが大きく手を広げ、仁王立ちになって行く手を遮っていた。
    『生きたかったら、ここに残れ』。 男性の怒鳴り声が響いた。

    『頑丈なこの会館が崩壊するなら町は全滅する』。 同会館営業部長の佐藤由成さん
    (64)は、1988年の開館当初から勤務。 設計段階から知り尽くした建物の強度に
    自信を持っていた。

    f1a2583c.jpg
    330人を救った高野会館の屋上。 中央奥に見えるのが公立志津川病院
    2011年6月19日 宮城県南三陸町志津川


    『お年寄りの足では途中で津波に遭遇してしまう』と判断したのは町社会福祉
    協議会総務課長の猪又隆弘さん(52)。 経験と利用客の状況を踏まえ、4階
    建ての会館に留めるのが最善と考えた。 地震発生時、3階の宴会場は、老人
    クラブによる『高齢者芸能発表会』の閉会式の最中。 強烈な横揺れに大勢の
    客はパニック状態になった。

    1階にいたマネジャーの高野志つ子さん(67)が階段を駆け上がると、従業員
    らが来館者を上階に誘導するのが見えた。 最高齢90代後半、平均80歳前後。
    来館者の避難は困難を極めた。 『早ぐ上がって、早ぐ上がって』。 営業課長の
    西條正喜さん(44)は列の最後尾で追い立てた。 階段は人でびっしり。
    『このままでは津波に飲まれる』。 体力のある人がお年寄りを背負った。

    町社協老人クラブ担当の佐々木真さん(39)は4階への階段を上りながら、
    背後に津波を感じた。 ガチャン、バキバキ。 1階の窓ガラスが割れ、2階にも
    がれきが流れ込んだのが音で分かった。 3階を振り返ると、ロビーの窓ガラスを
    大量の水が突き破った。 足元もぬれていた。

    屋上には既に水が押し寄せていた。 水位は膝まである。 『ここもだめか』。
    西條さんと佐々木さんらは、普段人が入らないエレベーター室や高架水槽などが
    ある会館最上部へ避難誘導を急いだ。

    四方を水で囲まれた会館はまるで孤島のようだった。 佐藤さんの手帳には
    津波の記録が残る。

    <午後3時26分、第1波。 40分、引き始め>
    <4時13分、第2波。 28分、引き方開始>
    <5時、第3波。 10分、引き波開始>

    そう書いたところで手が止まった。 2キロ弱先の荒島までの海底が姿を
    現している。 『次の波が来たらみんな死んでしまう』。 スーツの内ポケットに
    手帳を仕舞い、ボタンを掛けた。 自分が流されても記録は残るように―。

    佐藤さんの記録によると、第4波は午後5時32分に襲来。 屋上までには到達
    しなかった。 会館に孤立したのは約330人。 4階にある約25平方メートルと
    約30平方メートルの会議室二つは人であふれ、廊下や更衣室まで埋め尽くされた。

    室内は人いきれで息苦しいほどだった。 深夜、80代の女性が意識もうろうと
    なった。 『脳梗塞の疑いがある』と町社協の看護師。 佐藤さんは最上部に
    上がり、公立志津川病院へ向かって大声で呼び掛けた。

    『先生、倒れている女性がいます。 波が引いたら、そちらで診ていただけ
    ませんか』 医師とみられる男性の声が返ってきた。 『こちらは薬も電気もない。
    7人が亡くなりました』

    7424a5f5.jpg

    風通しの良い場所で寝かせるよう助言された佐藤さんは、全員に屋上に出るよう
    促した。 『外の空気吸ってきてけさい』。 10分ほどの短時間だったが、
    室内に外気が入ると女性は持ち直した。

    職員らの判断と機転。 会館で命拾いしたお年寄りは口をそろえて言う。
    『よく生きていられた。 従業員らの指示に従い会館に残ってよかった』

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    宮城県南三陸町志津川の特別養護老人ホーム『慈恵園』は、志津川の中心部を
    一望できる高台にある。 棟続きの町社会福祉協議会の施設は、津波など災害時の
    指定避難場所でもあった。

    南隣のさらに高い場所にある志津川高に高齢者を避難させようとしているさなか、
    大津波は車いすを押す職員と、まだ入所者らが残っていたホームに襲い掛かった。
    入所者とショートステイ利用者計67人のうち46人が死亡、2人が行方不明になり、
    職員も1人が亡くなった。

    19158eec.jpg

    その時 何が 高齢者46人が犠牲(宮城・南三陸町)出典:河北新報

    2011年3月11日午後3時半、特養ホーム『慈恵園』の駐車場。 津波がJR志津川駅
    そばのスーパーの大看板をゆっくりとなぎ倒すのが見えた。 ホームまでの距離は
    約500メートル。

    『(志津川)高校に行って』『早く逃げて』職員たちは押せるだけの車いすを押して
    走り出した。 ホームは標高約15メートルの高台にあり、南隣の志津川高はさらに
    20メートル以上高い場所にある。

    施設長佐藤喜久子さん(65)も車いすを押して志津川高に急いだが、高校に続く
    階段手前の坂道で車輪が止まった。 押しても押しても進まない。 家が流される
    のが見えた瞬間、車いすとともに津波にのみ込まれた。

    ホームの裏山の方に押し流された後、渦を巻いた波で施設内に引き戻された。
    佐藤さんは必死に木材にしがみついた。 『もう駄目かもしれない』。 そう思った
    瞬間、すっと水が引き、床に足が着いた。

    津波はホームの天井の下30センチまで達した。 気力を振り絞り、施設内で入所者を
    捜し、数人をベッドに戻した。 『すぐ助けに来ますから』。 声を掛け、さらに
    生存者の姿を捜した。 佐藤さんがひざの出血に気付いたのは、その日の夜遅く
    だった。

    『誰かいますかー』 志津川高に利用者1人を避難させた介護士星雅也さん
    (38)は、第1波が引くと同時にホームに駆け戻った。 救出には志津川高の
    生徒たちも加わった。

    星さんは、ホームの周囲に積み上がった高さ1メートル以上のがれきを乗り越え、
    2人を運び出した。 3人目を捜していた時、悲鳴に似た叫び声が聞こえた。
    『また(津波が)来たぞー』『早く戻れー』。 高校に駆け戻らざるを得なかった。
    志津川高まで連れ出せた高齢者は28人。 外は雪。 その夜のうちに、寒さなどで
    8人が息を引き取り、搬送先の病院でも1人が亡くなった。

    高台にあるホームと棟続きの町社協の施設は津波災害の際、避難者の受け入れを
    担う。 敷地内には地震発生直後から、近隣の住民が続々と避難。 ホームの
    スタッフも慌ただしく利用者をホールに集め、毛布や保存食、飲料水の準備を
    始めていた。

    0606-jikei-enNP

    相談員佐々木博美さん(50)は『一番心配したのは、余震で建物が崩れること
    だった。 まさか、ここまで津波に襲われるとは』と振り返る。 施設長の佐藤
    さんは自問する。 『津波が来ることが分かっていたとしても、全ての高齢者を
    避難させられただろうか』

    移送手段は車しかない。 スタッフは29人。 当時ホームにいた高齢者67人の
    多くは要介護度4以上で寝たきりか、車いすが必要な人たちだ。 車に乗せる
    のは2、3人掛かりの作業になる。

    町社協デイサービスセンターでも、津波で利用者9人が死亡、1人が行方不明に
    なった。 高齢者21人に対し、避難誘導に当たったスタッフは半数に満たない
    10人だった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    がれきの町に赤い鉄骨だけを残す3階の建物。 宮城県南三陸町の防災対策
    庁舎は、津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道
    されてきた。

    屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の
    現場。 その屋上で男性職員は、庁舎が大津波にのまれる瞬間をカメラに
    収めていた。

    d0dfc407.jpg<

    その時 何が 悲劇の防災庁舎でシャッター(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    その時、南三陸町総務課の加藤信男さん(39)が構えたカメラの設定が正確
    ならば、2011年3月11日午後3時34分だった。 海岸から約500メートル離れた
    町防災対策庁舎を、巨大津波が直撃した。

    『決定的瞬間』とか『決死のシャッター』だとか、ほめられた話じゃない。
    こんな所まで津波は来ないと油断し、逃げ遅れた。 反省、後悔…。つらい
    写真です』

    激しい揺れが襲った時、隣接する木造の町役場1階にいた。 当時は企画課で
    広報を担当して3年目。 『何かあったらすぐ写真を撮る。 それが習慣に
    なっていた』。 揺れが収まると、使い慣れた一眼レフカメラを手に取った。

    書類が散乱した役場内、屋外の様子。 『どうせ津波が来ても1、2メートル。
    その時は防災庁舎に上がればいい』。 そう思いながら撮影を続けた。
    『津波が来るぞ!』との声を聞き、加藤さんも庁舎屋上に上がった。

    レンズ越しに眼前に迫る津波を見ても『恐怖心はなかった』。 波に足を
    すくわれ、われに返った。 『まずい』その日は、町議会の最終日だった。
    役場には佐藤仁町長や職員約40人、町議らがいた。 地震後、佐藤町長や職員、
    町議の何人かが防災庁舎に向かった。

    防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が高台への避難を
    繰り返し呼び掛けていた。

    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~



    津波が迫る。 職員らが屋上に続く階段を続々と駆け上がった。 間もなく、
    巨大津波が屋上をたたく。 何人かは、そびえる無線アンテナにしがみついた。
    加藤さんは首から提げていたカメラを、とっさにジャンパーの内側に入れた。
    屋上を流され、やっとのことで外階段の手すりにつかまった。 階段の手すりに
    背を向け、柵に左足を絡めた。

    津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支点にエビぞりになった。 体を起こそう
    にも水圧に勝てない。 水位がどんどん上がる。 顔が激流にさらされ、沈み、
    水を飲んだ。

    死を覚悟したとき、胸ぐらをつかまれた。 『ほら頑張れ!』。 そばで同じ
    ように津波に耐えていた副町長の遠藤健治さん(63)が、体を起こしてくれた。

    激流の中で遠藤さんの手が離れると、また潜った。 『やっぱり駄目か』。
    諦めそうになると、遠藤さんがまた、胸ぐらをつかんで引き起こす。 その
    繰り返し。 生死の境を何度も行き来し、気付くと津波が引き始めた。

    翌日、骨だけの庁舎に絡んだ漁網などを伝って、がれきが重なる地上に下りた。
    しばらく体調がすぐれず、カメラを確かめたのは10日ほど後。 本体は壊れて
    いたが、データは無事だった。

    残っていた数十こまの写真には、犠牲になった上司や行方が分からない同僚の
    姿も写っていた。

    町は3月末、加藤さんが残した写真のうち6枚を、町のホームページで公開した。
    関係者らの心情に配慮し、人物が写っていないこまに限った。

    『みんなが真剣に津波防災に取り組む参考にしてほしい。 写真は避難が
    遅れた証拠。 見た人には『津波の時はまず避難』と思ってほしい』

    忘れたい出来事さえも伝え残さなければならない。 加藤さんら助かった
    職員らは葛藤しながら、復興の前線に立ち続けている。

    >>【南三陸防災庁舎】 町長不起訴『予見不可能』

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    ブログネタ
    被災地通信 に参加中!

    建物がほぼ全てなくなった、南三陸町の中心地、志津川地区。 約10メートル強
    嵩上げ工事を行ったため、風景が一変し、更には、道路自体が大幅に変わって
    しまったため、昔の面影は、一切残らず。 唯一残った防災庁舎も、周囲の嵩上げ
    工事により、この建物だけが谷のように残ったため、不自然感が否めず。 海の
    すぐ目の前に20メートル程度の防波堤を建設したため、この周辺では、海が一切
    見えなくなった。

    【南三陸町中心部】
    IMG_6440
    IMG_6434
    IMG_6439
    IMG_6433
    IMG_6432
    IMG_6429

    震災遺構として、2031年まで宮城県が管理(保存)することとなった、南三陸町
    旧防災対策庁舎。 当初は、6mという津波予想であったため、庁舎に留まり避難
    しなかったのが、犠牲者を大きくする一因となった。 2階に危機管理課があり、
    町災害対策本部が置かれた。 本庁舎では津波来襲の15時25分頃まで、防災無線
    放送で繰り返し住民に避難を62回に渡り呼びかけ続けた。 本庁舎から発信された
    約30分間の防災無線の放送音声は全て録音されている。 危機管理課の女性職員は
    繰り返し避難を呼びかけ続けたが、波の高さについては「最大で6メートル」という
    放送が続き、最後の4回のみ「10メートル」と放送した。 音声は、放送を続け
    ようとする女性職員の声を遮るように「上へ上がって 未希ちゃん 上がって」
    という周囲の制止の声を最後に放送が途切れている。
     
    職員約30人は屋上に避難したが、屋上の床上約2メートルの高さまで津波が
    押し寄せ、度重なる津波によって庁舎は骨組みだけとなった。 アンテナに
    しがみつくなどして波に耐えた佐藤仁町長ら11名は生還したものの、庁舎に
    詰めていた他の職員や住民は津波で流され犠牲になった。 屋上で写真を撮影
    していた職員(この職員は津波に飲まれ気絶したが、副町長が腕を掴み続けて
    いたので、無事生還している)のデジタルカメラの本体は壊れてしまっていたが、
    データは無事で、津波が来る前の様子から、屋上が水没する瞬間までを捉えた
    様子が写っており、写真の一部は南三陸町のホームページに掲載された。

     

    最期まで防災無線で避難を呼びかけ続けて犠牲になった女性職員の行動は、
    『多くの命を救った命懸けのアナウンス』と大きく評価され、埼玉県の公立学校で
    2012年の4月から使われる道徳の教材に掲載された。 また、堅牢な建物であり
    2階の電算室で各種行政システムを管理していたが、サーバ及びバックアップ
    テープも滅失した。

    2012年3月6日には、佐藤仁町長が高台へ避難させず、庁舎に留まらせたのが
    原因で町職員ら43人が犠牲になったとして、町職員の2遺族により業務上過失
    致死容疑にて宮城県警南三陸署に告訴状が提出された。 尚、この付近に
    押し寄せた津波の高さは、最終的には、約15.5mであった。

    >>町民を救った天使の声 

    【岩井崎】
    IMG_6404
    IMG_6408
    IMG_6411
    IMG_6406
    C01959
    IMG_6415


    津波による甚大な被害を受けた気仙沼市内にある風光明媚な岬で、岩の隙間から
    波が打ち寄せる潮吹岩が有名。 横綱秀ノ山雷五郎像は、津波に流されずに、
    そのまま残ったが、復興のシンボルと言われていた龍の形をした『龍の松』は、
    現在、保存に向けて、撤去されている。 三陸地域の津波被害が甚大だったのは、
    リアス式海岸の間を波が遡って来たためで、山の間を津波が遡上して来たため、
    その分、数倍に波がせり上がったためで、平野部での津波災害とは、被災状況も
    異なる。

    【歌津駅跡(上)と清水浜駅跡(下)】
    IMG_6417
    IMG_6420
    IMG_6421
    IMG_6422
    IMG_6423
    IMG_6424
     
    旧JR気仙沼線の歌津駅と清水浜駅付近。 歌津駅の下には、復興商店街があるが、
    付近に民家がないため、かなり閑散としている。 この付近は、鉄道が、残ったり
    撤去されたりしているため、かなり寂しい風景が広がっている。 嵩上げ工事が
    本格化したとは言え、被災から丸4年を経ても、周囲は、瓦礫がなくなっただけで、
    特に何も変わってはいない。

    【神割崎】
    IMG_6447
    IMG_6449
    IMG_6457
    IMG_6460
    IMG_6448
    IMG_6454

    石巻市と南三陸町の境界線上にある神割崎。 付近には、キャンピング場もあり、
    テントを持ち込めば、900円程度で宿泊可能。 ロッジでの宿泊は、一泊5,000円
    程度。 すぐ目の前には、仮設住宅が今でも残されている。

    【石巻市立大川小学校】
    IMG_6477
    IMG_6478
    IMG_6481
    IMG_6484
    IMG_6522
    IMG_6523
     
    宮城県石巻市釜谷地区の北上川河口から約4キロの川沿いに位置する大川小学校は、
    3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明と
    なった。 教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した。 東日本
    大震災で起きた数々の悲劇の中でも、最も悲劇的な場所とされる所以である。

    地震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。
    教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り、全員の安否を確認した後に、避難先に
    ついて議論を始めた。 学校南側の裏山は有力な避難先であったが、急斜面で
    足場が悪い事から、児童らが登って避難するには問題があるとされていた。
    約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋の三角地帯も
    避難先候補となり、裏山へ逃げるという意見と、老人も含まれている事を
    考慮して三角地帯にするべきという意見が教職員の間で対立し、最終的に
    三角地帯に避難する事になり、移動を開始した。

    その直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方から飲み込んだ。
    列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて、裏山を駆け上がり、一部は
    助かったが、迫り来る津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難
    出来ない児童も居た。

    家族が車で迎えに出向き、独自に避難した児童は助かった。 避難先として
    選定した三角地帯も標高不足で津波に呑み込まれており、避難が完了して
    いたとしても、被害は避けられなかった。 校庭には、スクールバスも停車
    していたが、その運転手も、津波に飲み込まれて、死亡した。

    >>悲劇の大川小学校

    >>【被災地巡り】気仙沼線編

    【お勧めの一品】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ