15世紀になって、『ルネッサンス』と呼ばれる古代の芸術や哲学の復興運動が
イタリアから伝えられると、ドイツには大きな変化が起こった。 ドイツの新しい
大学では、ルネッサンス学者たちが強力なローマ・カトリック教会に改革を迫り、
改革者のひとりであるドイツの聖職者マルティン・ルターは教会の悪習を非難して、
1521年には破門される。 しかし、北ドイツには改革の呼び掛けに賛同する人々が
多く、プロテスタント(新教徒)として知られているこれらルターの支持者たちは、
1520年代にルター派の教会を創設した。 こうして間もなく北ヨーロッパは、
宗教改革の嵐に包まれることになる。

1555年には、貴族から農民まで階層を問わず、ドイツの大部分の人々が
プロテスタントに改宗した。 また、北ドイツの諸侯の中には、宗教改革を理由に、
カトリック教会の持っている土地を没収する者も居た。 ハプスブルグ家の皇帝
カール5世は、カトリック教徒であったので、激しい造反に直面、アウグスブルグの
宗教和議で、ついに諸侯の領地における宗教の選択権を認めた。

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その後、数十年の間にドイツ、オランダ、スイスでプロテスタントの新宗教派が
創設された。 これらの宗教はルター派、カトリック派いずれの宗教の儀式も
拒否した。 また、ローマ・カトリック教会は南ドイツの大半、オーストリア、
ボヘミア(オーストリア北部に位置する王国)に勢力を盛り返して行った。
ハプスブルグ家はカトリックだったので、ローマ教会と密接な関わりを持ち
続っており、1618年、カトリックの王をボヘミアの王位に就けようと企てた。

ところが、激しい反対が起き、暴動に繋がり、30年戦争の間、ドイツの諸侯は
互いを攻撃、周辺の諸国はドイツの領地を略奪しようと中央ヨーロッパに進軍、
プロテスタントと同盟を結んだスウェーデン王国は、ドイツのバルト海沿岸を
攻撃、フランスはハプスブルグ家と戦うため、ライン川を越えて進撃に出た。

戦争は1648年、ドイツにおけるカトリックとプロテスタントの領土を正式に
承認するヴェストファーレン条約にようやく解決をみる。 こうして
プロテスタント国家におけるハプスブルグ家の支配は終わったが、神聖ローマ
皇帝の称号はなおもハプスブルグ家が継いで行った。

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