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    タグ:帝政

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    平和になっても、フランスは国王支持の王党派と下院(国民議会)を支える共和派に
    分裂していたが、ナポレオン戦争の荒廃から、次第に立ち直った。 ルイ18世の後、
    1824年に国王になったシャルル10世は、中央集権制度を強化し、参政権など多くの
    個人の自由を制限した。 下院を解散して選挙法を改正しようとしたため、1830年
    7月に3日間、パリで革命が起き、シャルル10世は王位を追われた。 下院は
    ブルボン家のルイ・フィリップを新国王にした。

    ルイ・フィリップ国王の治世下で、フランスは工業化が急激に進んだ。 経済は、
    新しい工場や製造技術によって変化した。 労働者は、村や農場から大都市に移って
    来た。 政府は、鉄道や学校を建設した。 だが、王政は労働者に参政権を与える
    ことを拒否した。

    1846年に経済不況になると、都市では人民の代表を選出しようとする気運が
    高まった。 1848年に、パリで街頭デモ行進が行われると、暴動が広まった。
    反乱者は憲法も国王も葬り、共和派の指導者は第2共和制を打ち立てた。

    1848年2月の革命の後、社会改革を一層推し進める要求が続き、都会の暴動は
    日常的になった。 共和派は政権を保ち、新憲法を採択した。 これによって
    全ての男性市民参政権、選挙による大統領選出と1院政議会が保障された。
    ナポレオン・ボナパルトの甥のルイ・ナポレオンが最初の大統領選挙で勝ったが、
    議会が大統領の権限を制限するのではないかと恐れて、憲法を廃棄して自ら
    皇帝ナポレオン3世を宣言し、第2帝政の時代となった。

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    【第3共和制】
    ナポレオン3世は経済開発を進めた。 諸外国との貿易を奨励し、田舎や都市での
    公共事業計画を認可した。 フランスに限らず、ヨーロッパではこのようにして
    工業化が進んだ。 他方、プロイセン(現在のドイツ)は近代陸軍を創設、幾つかの
    ドイツ民族国家を統一して強力な帝国を築こうとしていた。 この脅威を防ぐため、
    フランスは1870年にプロイセンに宣戦を布告した。 フランス陸軍は初めから
    敗戦が続き、ナポレオン3世は捕虜となり、フランス軍はプロイセンに降伏した。
    この結果、フランス北東部の重要なアルザスとロレーヌの2地方をプロイセンに
    取られてしまった。

    プロイセン戦争に敗れると、フランスの官僚は第2帝政を覆し、第3共和制を
    宣言した。 だが、新政府は内輪もめして、力がなかった。 共和派と王政派の
    争いは1880年代を通じて続いたが、社会の改良は進んだ。 19世紀末になると、
    工業が拡大した。 労働者は労働組合を結成した。 政府は全ての小学校児童の
    教育を無料とし、義務化した。

    この期間に、フランスは、2つの重要な同盟を結んだ。 ロシアとの同盟
    (1894年)とイギリスとの協商(1907年)である。 ロシアとイギリスも1907年に
    同盟を結んだので、この3カ国の関係は三国協商と呼ばれた。 これは、ドイツの
    ビスマルク首相がイタリア、オーストリアとの間に三国同盟(1882年)を
    結んだ上、ドイツの軍事力が高まっていたので、ドイツと力の均衡を保とうと
    したものだった。

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    【七月革命二月革命から帝政へ】

    ナポレオンが追放されると、ブルボン朝のルイ18世が王位に就き、立憲君主国
    としてスタートした。 しかし、次のシャルル10世が議会を解散すると、1830年に
    七月革命が起こった。 オルレアン家のルイ・フィリップが王位に就くが、やがて
    中小の市民層が支持する共和派や、社会主義派が力を伸ばし、1848年に二月革命を
    起こした。

    ここに再び共和制が成立するが、1852年にナポレオン3世が帝位に就いた。 産業
    革命や鉄道建設を進め、スエズ運河の建設、パリの都市改造等にも着手した。
    外国にも、クリミア戦争への参加、インドネシアへの進出、メキシコ遠征等を
    進めるが、1871年にプロイセンとの戦いに敗れ、帝政は崩壊した。

    19世紀後半、フランスの文化はさまざまなジャンルで花開いた。 モネやセザンヌ、
    ルノアールらの画家が相次いで登場し、パリは芸術と流行の中心として発展した。
    それに合わせて、パリでは、万国博覧会が開かれ、世界の注目を集めた。

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    【2つの世界大戦】
    19世紀末から、ドイツとの緊張が高まった。 フランスは、ロシアやイギリスと
    手を結び、ドイツを中心とした三国同盟に対抗した。 1914年に第一次世界大戦が
    始まると、フランスは戦場となり、1918年までに140万人もの死者を出した。
    1939年に第二次世界対戦が始まると、ナチス・ドイツ軍は1940年にパリを占領
    した。

    これに対抗して、ド・ゴール将軍は、ロンドンに亡命政権を起こし、国内では
    レジスタンスによる抵抗運動が続けられた。 1944年にレジスタンスは反撃に
    転じ、パリを開放した。

    戦後は海外植民地で独立運動が高まった。 1954年にベトナムの独立を認めたが、
    アルジェリアでは1958年に反乱が起こった。 この危機に大統領に選ばれたド・
    ゴールは、アルジェリアの独立を国民投票で決め、フランスの工業化を進めると
    共に、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させる等、独自の路線を展開した。

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    経済成長期に北アフリカから多くの移民を受け入れたフランスでは、1980年代から
    移民を巡る問題が起こっている。 2005年には中東やアフリカ系移民による暴動が
    起こり、政府は非常事態宣言を出した。 移民対して開かれた国でいられるか、
    注目されている。

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    皇帝であったペドロ2世は亡命し、ブラジルは正式に共和国の宣言をした。
    1891年には、新憲法が発布された。 共和制への移行は、円満とは言えな
    かった。 古くから勢力を持つ北部の大農園主と、力を付け始めた南部地域の
    産業資本家が対立し、政治を混乱させ、これが軍部が政治に割り込む口実と
    なった。

    結局のところ、南部の勢力が勝利をおさめた。 その後40年以上、ブラジルの
    大統領は、2人の例外を除いて、ミナスジェライスとサンパウロという南部
    2州の出身者で占められた。 州政府は、どこまで自治権を与えるかで
    リオデジャネイロの中央政府と州政府が衝突した。 しかし、その間にも、
    ブラジルの鉄道は発達し、港は近代化され、ブラジルは国際的にも経済力の
    ある国に成長した。

    新しくブラジルに生まれた産業勢力は、南部地域にある2、3の工業と金融の
    中心地に集中していた。 地域格差が目立つようになり、人々はそれに気付き
    始めた。 南部出身の政治家が放置して来た北東部では、貧困と病気がは
    びこり、何百万人という貧しい黒人は、飢えに苦しみながら死んだ。

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    第一次世界大戦が起きると、ブラジルの指導者層は2つに割れた。 上流階級の
    殆どと中流の人々の多くは、連合国側を支持した。 一方、ドイツ支持を表明
    する人達もいた。 南部地方のドイツ系の人々と軍の指導者の一部である。

    ブラジルの船がドイツの潜水艦に何度も撃沈されても、国論は定まらず、1917年、
    ブラジルは、ようやく、ドイツに宣戦布告した。 南アメリカの国の中で、
    ドイツに宣戦布告したのは、ブラジルのみである。 戦争の後で、ブラジル軍部に
    不満が生じ、反乱が起きた。

    1922年の『コパカバーナ砦の反乱』は、中流の下の階層出身の若手将校が、社会
    正義と政治の一新を目指して起こしたものであった。 理想は高いが、準備不足
    だったこの反乱は、たちまち鎮圧された。

    1924年、ひとりの軍人が改革を志した。 元陸軍大尉のルイース・カルロス・
    プレスティスは、軍を率いて全国を行軍し、各地で国の改革を訴えた。 沢山の
    ブラジル人が、彼の考えに共感したが、プレスティスは、反逆行為を行ったとして、
    追放された。 長い間、モスクワに滞在した後、彼は、熱心なマルクス・レーニン
    主義になって帰国し、1934年、ブラジル共産党を組織した。

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    【ジェトゥリオ・ヴァルガスの時代】

    世界的な不況の波がブラジルにも押し寄せ、軍や民間の指導者達は、共産革命を
    恐れるようになった。 そんな時代に、ジェトゥリオ・ヴァルガスは登場した。
    ヴァルガスは、州知事から1930年に、大統領選挙に立候補した。 ヴァルガスは、
    選挙に敗れたが、軍部の支持を得て、共産主義の扇動から国を守るためと言って、
    その年の10月に権力を握った。

    こうして、20年間にも及ぶヴァルガスの時代が始まった。 気さくで、謙虚で、
    温厚な人柄の上に、胸の奥に鉄の意志を秘めたヴァルガスは、護衛も連れずに街を
    散歩し、来客をセンスのあるユーモアで楽しませた。 当時、政治家は、地元の
    利益ばかりを考え、駆け引きに明け暮れていたので、国内は無政府状態に近かった。
    そこに、良心的で正直なヴァルガスが登場した。 彼が大統領になった時、
    ブラジルの人達の大半は、ついに国民と同じ願いを持つ大統領が登場したと
    喜んだ。

    ヴァルガスは、地方意識の強い国民に、州への忠誠よりも挙国の一致が大切だと
    説いた。 議会は、州の間の交易の生涯をなくし、外国債の支払いを停止し、
    工業の育成に務める法案を次々に可決した。 ヴァルガスが、ブラジルで最初の
    職能組合を発足させ、社会保障制度を定めると、一般市民は、大喜びした。
    反乱があると厳しく鎮圧したが、反乱分子の扱いは、寛容であった。

    ファシスト集団の台頭に悩まされたヴァルガスは、1937年11月、国の安全を
    理由に、もう1期大統領を努めると宣言した。 面倒な議会を解散すると、新しい
    憲法を制定し、中央集権的な新国家を建てた。 国民の権利は制限された。 新聞、
    ラジオをはじめとして、学校でさえも、検閲の対象となり、新政府の情報局から
    命令を受けるようになった。

    ヴァルガスが他の南アメリカの独裁者と違っていたところは、自分のやり方に
    批判的な指導者達さえも役立て、有能な人材を州知事、閣僚、軍の長官、外国の
    大使として起用した。 その度に国民の信頼は、高まるばかりであった。

    ヴァルガスの精力的な活動は、アメリカの援助を引き出し、これにより工業化が
    進められた。 1938年には国立石油審議会が、1941年には、国立製鉄会社が
    始められ、鉄道が延長された。 第二次世界大戦が近づくに連れて、ヴァルガスは、
    一方でドイツ、イタリア系の枢軸国寄りの将校の支持を取り付けながら、もう
    一方で、アメリカとも友好関係を続けなければならなかった。 だが結局、
    1942年8月、ブラジルは、枢軸国に宣戦布告した。

    1945年になって戦争が終わりに近づくと、ヴァルガスの独裁に対する不満が現れ
    始めた。 ヴァルガスは、選挙を行ったが、敗北した。 1946年9月、新政権が
    出来、新憲法が発布された。 しかし、ヴァルガスの時代は、まだ終わらなかった。

    新政府の下のブラジルは、国際収支の赤字や、インフレや政治の腐敗に悩まされ、
    国民の不満が高まった。 しかし、議会は、様々な派閥に分かれ、こうした
    問題に立ち向かう能力も意欲も示さなかった。

    1950年、ヴァルガスは、再び大統領に選ばれたが、かつての手腕は振るえ
    なかった。 大統領が代わっても、増え続ける体外赤字は止まらなかった。
    賃金労働者は、激しいインフレで給料が目減りするのに腹を立て、ヴァルガスの
    経済政策を非難した。 やがて事件が起きた。 ヴァルガスを激しく非難した
    新聞の編集長が、大統領側近が雇った殺し屋に暗殺されそうになった上に、
    同行の軍人が殺害されたのである。 これを切っ掛けに、ヴァルガスの時代は
    終わった。 ヴァルガスは、長く権力の座にあったが、個人への暴力は認めない
    人だった。 側近がこれらの事件に関わっていることを知ると、彼は自殺した。
    1954年8月のことだった。

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    【ジュセリーノ・クビチェック】
    1956年、ジュセリーノ・クビチェック・デ・オリヴェイラが大統領に選ばれた。
    彼は、1961年まで、民主的に国をおさめた。 経済の悪化をものともせずに、
    クビチェックは、ブラジル人の昔からの夢の現実に務めた。 それはまったく
    新しい土地に首都を築くことであった。 首都であったリオデジャネイロから、
    北西におよそ1,000キロ進んだ土地に、ブラジリアが建設された。 当時は、殆ど
    住む人も居なかったが、そこは、地理的にブラジルの中心地であった。 1960年に
    ブラジリアが完成すると、国民は、国への信頼を取り戻した。 遷都のための
    急激なインフラが生じたことで、クビチェックを非難する人が居るが、歴史は、
    彼の判断の正しさを証明している。 1961年、クビチェックは、平和のうちに、
    任期を終え、後継者のジャニオ・クアドロスに大統領の座を譲った。 一般選挙で
    選ばれた大統領で、任期を終わりまで務めたのは、彼が最後となった。

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