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共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:崩壊

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    前回、ハバロフスクからノボシビルスクまでは、シベリア鉄道で丸4日間掛かると
    述べたが、ロシアでは、割とつい最近まで、入国後72時間以内に警察に行って、
    住民登録を必ずしなければならなかったため、この件で罰金を取られることと
    なった。

    当時アエロフロートは、燃料不足により、半年以上も一切飛んでいなかったのだが、
    ロシアでは、そのようなどうでも良いことは一切考慮されないばかりではなく、
    規則は規則なので、どうにもならない。 よって、このような場合は、机を叩いて
    でも怒りの意思表示をしなければならないのがロシアのしきたり。

    実は、チケットを購入して、ハバロフスク空港に到着してから、この衝撃的な
    事実を知ってしまったのだが、その時のアエロフロートの窓口の対応は最悪で、
    チケットは払い戻しするが、手数料が掛かるという意味不明なものであったため、
    怒りの意思表示をしたところ、空港まで送ってくれたロシア人の友人が、こちらの
    余りの剣幕に、呆れ顔で見ていたという逸話が残った。

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    さて、シベリア鉄道だが、ロシアの車両は、外国人専用のスーパーワゴンには
    シャワーが付いているものの、ロシア人向けのコンパートメントや、3段式の寝台
    車両にはシャワーがない。 また、ロシアの長距離列車には、コンパートメント
    内にお菓子が置いてあるのだが、それを食べると別料金を請求される。 ロシアは
    基本的に何でもやった者勝ちで、少しでも遠慮をした人間が100%バカを見るという
    システムが完全なまでに構築されている。

    ロシアを訪れた人間が、ロシアに対して、好意を抱くか、または、悪意を抱くか
    なのだが、基本的に、ロシア語を喋れない人間の場合は、ぞんざいな扱いしか受け
    ないため、嫌いになる確率の方が遥かに高い。 但し、例え片言だけでもロシア語を
    喋れると、大歓迎されるため、好きになるという、インド並ぐらいに好き嫌いが
    ハッキリと分かれる国でもある。

    元々、ロシアは世界一の超多民族国家であるため、アジア人でも特に差別はされない
    のだが、よほどのインテリでもない限り、外国語は通じないため、ロシアを訪れる
    際には、基本的にロシア語が必須となっている。 但し、2000年以降は、急速に
    英語が普及したため、大学の学生レベルであれば、ある程度英語を喋れるように
    なったのには、時代の流れを感じずにはいられない。

    ソ連時代の外国語と言えば、ドイツ語とフランス語がメインで、英語はかなり
    マイナーな言語でワンツースリーのレベルでも一切通じなかった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    ソ連崩壊直後の93年4月から、ロシア第3の都市、ノボシビルスクに留学する
    ことになった。 これは、90年から始まった、札幌とノボシビルスクの姉妹都市
    締結を記念して開催された、コム博が切っ掛けではあったが、実際は、全て
    自分から持ち掛けた話であるため、大学にも札幌市にも一切関係がない話であった。
     
    93年当時のノボシビルスクには、全部で7人程度の日本人しか住んではいなかった。
    しかも、そのほぼ全てが札幌からの関係者ばかりであった。 当時、ノボシビルスク
    大学には、過去においても、日本人が入学したことがなかったことから、私が
    ノボシビスルク大学に正式に入学した日本人第一号となった。
     
    93年当時のロシアは、91年の12月末にソ連が崩壊したばかりで、まだ崩壊から
    1年程度という状況もあり、混迷を極めていた。 ソ連の崩壊と言うとあまりピンと
    来ない人が多いのだが、実際には、国がなくなった訳で、国を司っていた法律も
    全てなくなった。 よって、ソ連末期の頃から既に治安が悪化していたのだが、更に
    状況が悪化し、世界一治安が悪い国とまで呼ばれるに至った。

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    その状況たるや、目を覆うばかりで、車が信号で止まると、ジプシーが列挙して
    車に襲い掛かり、部品を丸ごと持って行くだとか、これを同じく、信号待ち
    していた人がジプシーに身包みはがれただとか、男でもトイレの中で犯された
    だとかはまだましな方で、至るところで犯罪、殺人、自殺等の社会不和が一気に
    表面化し始めた。 昼間でもひとりで道を歩くには危険と言われたが、日が暮れて
    から外出するのは、正に命懸けであったため、常に何らかの武器を携帯しなければ
    犬死も同じ時代であった。
     
    それと同時に、ハイパーインフレが始まり、ロシア・ルーブルは、連日米ドルに
    対して、20ドルづつ暴落していたため、商店に並んでいた商品の価格は、朝と
    夕方とでは大幅に異なっていた。 尚、ノボシビルスク大学にあるのは、学術
    研究都市である、アカデム・ゴロドクにあるため、当時のロシアの中では、比較的
    治安が良い場所ではあったものの、いかんせん、研究都市であったため、市場や
    スーパーというものがなく、週に1度、約1時間ほど掛けて、路線タクシーと
    地下鉄を乗り継いで、ノボシビルスク中心部にある市場へと食料の買出しに行か
    なければならなかった。 その当時、猫を飼っていたのだが、当時の
    ノボシビルスクには、キャットフードなどという贅沢品は一切置いてはおらず、
    週に1度、魚を買いにはるばる市場へと通った。
     
    尚、93年には、モスクワで反エリツィン派による政治クーデータが起こり、国の
    機能が一時麻痺した。 テレビ局も全て機能がストップし、全てのテレビ局が
    同じ放送内容ばかりを流した。 恐らく、ロシアの歴史の中でも、この93年
    前後が最も厳しい時期で、食料や燃料が不足し、正に地獄の底であった。 この
    当時、アエロフロートの国内便は、燃料不足により、数ヶ月間全便結構していた
    ため、ノボシビルスクへの移動は、ハバロフスクから丸4日掛けて、シベリア
    鉄道で移動した。 当時は、ロシアの学生証を所持していたため、丸4日間電車に
    乗っても料金は日本円に換算して、400円であった。

    当時飛んでいなかったハバロフスク→ノボシビルスクの飛行機のチケットは、
    180ドルであった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その①
    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑦

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    ソ連崩壊直前の1989年当時、ロシアの通貨であるルーブルは、360円だった。
    但し、その年にロシアルーブルは一気に下落して、10分の1の価値である、36円
    まで暴落した。 ここからロシアの経済危機とハイパーインフレが始まった。
    90年1月には、モスクワのプーシキン広場に初めてアメリカ資本のマクドナルドが
    進出し、ソ連の歴史が始まって以来、身分の高い店員様が客に対して、
    『ありがとうございました』と言ったことが非常に話題となった。 それまでの
    ソ連の店では、客が店を後にする際に『ありがとう』と言い、店員の言葉と言えば、
    『どういたしまして』が普通だった。
     
    当時、和食レストランは、モスクワでは『サクラ』という一店しか存在していな
    かったのだが、今では、モスクワ市内だけでも、700店を超えるのだとか。 今や、
    ユニクロや丸亀製麺までもが進出を果たしており、この25年間のロシアの変貌振り
    には驚きを隠せない。 恐らく、この25年間でここまで変貌を遂げた国は、ロシア
    以外にはないであろう。 中国も大変貌を遂げてはいるものの、社会主義から資本
    主義への転換はしていない。 ロシアが最も変わったところは、やはり、社会主義
    から資本主義へと転換し、地獄の底を這いながらも、ここまで経済発展したところに
    尽きる。 現在のモスクワ・シティーは、新宿と何ら遜色がないばかりか、むしろ、
    発展している。 これが、経済危機で何年も完成が遅れた建物群かと見まごうばかり
    である。

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    ソ連当時、バスのチケットは、運転手から買うものだった。 よって、車内で隣の
    人にお金を渡せば、めぐりめぐって、自分のところへチケットとおつりが返って
    来るという、非常にのどかなものだった。 その後、ソ連が崩壊してしまったため、
    このような風習はすっかりと消え去った。 ソ連時代の最大の特徴は、民族友好で、
    ソ連国内に約180も居る多民族は、皆平等なソ連人だった。 基本的に国民全員が
    公用語であるロシア語を操り、社会主義の時代は、国をあげて教育にも熱心に力を
    入れたため、あれだけ広大な国であるのにも関わらず、ロシア語には方言という
    ものがほぼない。

    社会主義とは、アメリカ的なイデオロギーから見ると、悪らしいが、国家が計画的に
    経済を建設する社会であったため、国民全てに、マンションと別荘も与えられる
    という、強欲資本主義では到底あり得ない特典もあった。 よって、贅沢さえしな
    ければ、皆が幸福で居られる社会でもあった。 それゆえに、逆に発展性がなく
    なり、働いても働かなくとも、給与は同じという生温い社会が70年間も続いたため、
    ソ連は崩壊したとも言える。


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    世界の2大超大国であったソビエト社会主義共和国連邦(CCCP)は、1991年12月
    25日に崩壊した。 1991年の夏にモスクワで軍事クーデーターが起こり、当時
    ソ連大統領であったゴルバチョフ氏が軟禁され、それを助け出した元ロシア大統領の
    エリツィン氏への権力の移行が鮮明となった。 この時点では、まだソ連は崩壊
    などしないだろうと思われていたものの、その後、バルト3国で始まった独立運動に
    より、バルト3国はソ連からの独立を勝ち取った。

    そこから遅れて、今度は、エリツィン氏が率いるロシアが独立を主張し始め、同じ
    スラブ民族の国である、ウクライナとベロロシア(独立後にベラルーシへと改名)
    を誘い、スラブ3国はソ連から独立すると明言し、その後、その他のソ連加盟国が
    次々と独立を宣言したため、ソ連は崩壊した。

    ソ連消滅s

    そもそも、ソ連とはどういう国だったのか? ソ連は、世界で初めて、社会主義
    革命によって誕生した社会主義の国であった。 社会主義とは、一言で分かり
    やすく言うと、国民全員が国家公務員ということ。 貧富の差もなく、福祉が
    充実し、理論上は楽園だったが、スターリンの時代から、恐怖支配が横行し、
    個人の自由を許さない全体主義へと変貌した。 極端な例では、ドイツ語の辞書を
    所持していただけで、スパイ容疑を掛けられて、シベリアへ追放された例もある。
     
    社会主義では、資本主義とは異なり、国が一括して生産管理を行うため、物不足が
    頻繁に起きた。 私がソ連時代のモスクワに留学をしていたのは、89年~90年に
    掛けてだったため、正にソ連時代の末期であった。 当時は、深刻な物不足であった
    ため、お金だけでは物資を購入することが出来ず、お金の他にクーポン券が必要
    だった。

    外国人の場合、当時は外貨ショップがあったため、多少値段が高くとも、そこである
    程度の品物は購入出来たが、当時、一般市民が外貨を所持することは、不法投棄と
    みなされ、逮捕の対象となった。 売春はソ連には存在しないことになっていた
    ため、それを取り締まる法律がなく、野放しであった。
     
    ソ連末期の時代は、厳格な言語統制を敷いていたため、ソ連の政治批判はタブーで、
    壁にマイクが仕掛けてあるので、ロシア語でソ連の批判はしないようにと常々
    言われた。 それを改革したのが、当時の大統領であった、ゴルバチョフ氏だった
    のだが、余りにも急激に色々な改革を進めてしまったために、一気に箍が外れ、
    歯止めが掛からなくなった。 それまでは、モスクワでも女性が夜に1人で歩いて
    いても大丈夫だったのだが、ゴルバチョフ以降は、一気に治安が悪化し、殺人、
    犯罪が一気に明るみに出るようになった。

    ソ連末期は、至るところで行列が出来、生活物資を確保するのも大変であった。
    当時、ようやくスーパーマーケット方式の店が登場したばかりだったが、
    それまでは、店員に一々何が欲しいのかを伝え、それを伝票に書いて貰い、更に
    それをレジで清算してから、再度その店員のところへ戻って、品物を受け取る
    という方式であったため、ロシア語が喋れないことは、ほぼ死を意味した。
    店員様が神様の国であったため、店員に気に入られない場合は、当然、物は
    売っては貰えなった。 品物が売れようが売れまいが、店員の給与は一切変わら
    ないため、閉店時間の30分前には客を店内に入れないようにして、掃除を始め、
    定時キッカリには、全員が帰宅するというシステムだった。 これは、今でも
    さほど変わってはいない。
     
    店が繁盛しようがしまいが、一切何も変わらないため、むしろ、客が来ると面倒な
    仕事が増えるという理由から、食堂などでは、わざと髪の毛を入れたり、ハエを
    入れたり、ゴキブリを入れたり、挙句の果てには、国から配給された筈の肉を勝手に
    持ち帰ってしまうために、勝手にネズミの肉を客に出したりと、労働生産性が一切
    報われない社会の悪い面ばかりが目立つようになった。 市民の間では、外の食堂や
    レストランでは絶対に食事をしないようにという噂が広まり、外食をしているのは、
    外国人だけという時期もあった。

    ソ連崩壊とは何だったのか? その②
    ソ連崩壊とは何だったのか? その③
    ソ連崩壊とは何だったのか? その④
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑤
    ソ連崩壊とは何だったのか? その⑥
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    1916年までに、軍事的敗北と食料の欠乏のため、オーストリアの市民と兵士達の
    間には、不満が広がっていた。 この年、フランツ・ヨーゼフが死んで、カール
    1世が皇帝となった。 翌年、オーストリアの労働者達は、経済状態の悪化に
    抗議した。 中央政府の弱体化につれて、ハンガリー人、チェコ人、スロバキア人、
    ポーランド人、スロベニア人、クロアチア人が次々とオーストリアからの独立を
    宣言した。

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    1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は、ドイツと共に、ついに連合国側に
    降伏した。 降伏後、カール1世は退位し、600年以上にも渡るハプスブルク家
    支配は終わった。 社会民主党の指導で臨時国会 が開かれ、オーストリア共和国の
    成立が宣言された。 1919年、サンジェルマン条約が結ばれ、共和国の現在の
    国境が確定した。 この条約はまた、ハンガリ-、チェコスロバキア、
    ユーゴスラビアを独立国として承認した。

    1920年、オーストラリア国会は、社会民主党とキリスト教社会党の協力で新憲法を
    採択した。 この憲法に基づいて、国民議会と呼ばれる立法機関が成立した。
    国民議会の多数党の代表が政府の首相に任命されることに決まった。

    オーストリア国内の不安はなおも続き、共和国の経済は、少しづつ悪化して行った。
    2つの主要政党の対立は、しばしば街頭の騒乱にまで発展した。 多くの
    オーストリア人は、元のハプスブルク帝国の断片に過ぎない国家が、生き残る
    ことは出来ないのではないかと感じ始めた。 ドイツとの統合を支持する声が、
    1930年代初期まで高まった。 世界的な経済不況と、ウィーンのある大銀行の
    倒産が原因となって、大量の失業者が生じ、市民の生活は、ますます苦しく
    なった。 このために、統合運動は、ますます力を得た。

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    ドイツでは、アドルフ・ヒトラーと彼の率いる国家社会党ナチの人気が高まり、
    そのために、オーストリア政府には、ドイツとの統合への新しい圧力が加わった。
    オーストリアに出来たナチ党は、ハイムヴェーアと呼ばれる私兵隊の支援を
    受けていた。 ドイツとオーストリアのナチ党で支配的な考え方は、反ユダヤ主義、
    ユダヤ人迫害だった。

    1934年、ハイムヴェーアは、オーストリア政府を転覆しようと企てた。 騒乱の
    中でハイムヴェーアのメンバーの1人が、キリスト教社会党出身のエンゲルベルト・
    ドルフス首相を射殺した。 ドルフスの後継者であるクルト・フォン・
    シュシニックは、何人かのナチ党員を閣僚に任命した。 ヒトラーは、それでも
    満足せず、1939年、ドイツ軍にオーストリアへの侵入を命令し、力によって、
    統一を成し遂げた。 オーストリアとドイツのナチ党は、多数の政治的対立者と
    ユダヤ系住民達を逮捕し、ドイツとポーランドにある強制収容所に送り込んだ。
    1939年、ドイツのポーランド侵入によって、第二次世界大戦が始まった。

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    2005年、アンゲラ・メルケルは、ドイツ首相を選ぶ選挙できわどい勝利を
    おさめた。 初の女性首相であると同時に、メルケルは、旧東ドイツ出身の
    首相でもある。 選挙戦でのメルケルの勝利は象徴的であった。 それは、
    少なくとも、いくつかの点で、東西ドイツの差が消えつつあることを示して
    いた。 1945年、ドイツは、敗戦によって荒れ果て、東西に分断された。
    西側諸国の力を借りて、西ドイツは、ヨーロッパ一豊かな国へと復興した。
    社会主義政権の支配下にあった東ドイツは、遥かに立ち遅れた。

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    ドイツは、常に国家を再統一したいと願って来た。 1989年に社会主義
    体制が崩壊し、その機会がやって来た。 再統一されたドイツは、メルケルの
    首相就任に象徴されるように、数々の進歩を成し遂げて来た。 1930年代に
    ドイツ人は、後に独裁政治を始めるような過激な政治家を選挙で選ぶという
    過ちを犯した。 第二次世界大戦後、彼等は、同じ過ちを二度と繰り返さす
    まいと決心した。 ナチスが再び政権を握るのを防ぐため、西ドイツは、
    1945年に新憲法をつくった。 『基本法』と呼ばれるこの法律では、あらゆる
    人に基本的人権が保障された。 全てのドイツ人に財産の所有と移動の自由、
    労働組合への参加、そして法の下の平等が認められた。 当時、東ドイツ
    国民は、この基本法の恩恵を得ることは出来なかった。 しかし、基本法を
    起草した法律家達は、東ドイツ国民もいつかはこの法の下で、ひとつになれる
    日が来ることを思い描いていた。

    西ドイツ政府は、常にドイツの再統一を願っていた。 しかし、東ドイツが
    社会主義の体制化にある限り、それは到底実現出来しそうになかった。
    その頃、西ドイツは、ライン川沿いのボンに暫定首都を置いていた。西ドイツ
    政府は、全力を上げて国家の繁栄を目指し、素晴らしい成果を上げた。
    欧州復興プログラムによって提供される支援を元に、西ドイツは、産業を
    再建した。 1957年、西ドイツは、フランス、ベルギー、オランダ等、
    かつての敵対国と共に、ヨーロッパ経済共同体と呼ばれる経済圏設立した。
    その加盟国は後に、貿易、外交、立法における統合を目指す共同体として、
    ヨーロッパ連合(EU)を形成した。 現在、EUの加盟国は、28ヶ国である。

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    1989年に東ドイツの社会主義体制が崩壊すると、西ドイツは、長年の
    約束を守って東ドイツを受け入れた。 これは、口で言うよりも遥かに
    困難な事業であった。 破綻した東ドイツ経済は、西ドイツの豊かな財政に
    よっても殆ど解決し切れない問題を抱えていた。 工場は、非効率的で、
    老朽化しているために、労働者の安全が保障出来ず、閉鎖せざるを得ない
    ところもあった。 西ドイツは、以前から、東ドイツの通貨、オスト・
    マルクと西ドイツの通貨ドイツ・マルクを1対1で交換する約束をしていた。

    しかし、再統一が行われた1989年10月3日の朝、その約束は果たされ
    なかった。 オスト・マルクは、紙屑同然なのに、ドイツ・マルクは、
    世界で最も強い通貨であったからだ。 再統一後、ドイツ経済の勢いに
    陰りが見え始めた。 政府は、旧東ドイツの近代化に毎年700億ドルを
    支出しなければならなかった。 その支出の殆どは、数百万人にも上る
    旧東ドイツの失業者を解消するために使われている。 現在のドイツは、
    かつての西ドイツ程ではないが、それでも、世界で4番目の経済大国である。

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    1991年8月、共産党強硬派は、ゴルバチョフ大統領の改革路線に反対して
    クーデターを起こした。 新たに選出されたロシア共和国大統領ボリス・
    エリツィンは、クーデターに対抗して、モスクワの最高会議会館に立てこもった。
    モスクワ市民は、エリツィン支持を叫んで集結し、3日のうちにクーデターは
    失敗に終わった。

    1991年末にソ連は崩壊して、エリツィンを指導者とするロシア連邦が生まれた。
    1993年10月、エリツィンは、彼の改革に激しく反対する強硬派の議会を解散した。
    今度は、共産主義者と民主主義者が最高会議会館を占拠し、エリツィンは、これに
    対して、実力を行使し。 約150人の死者が出た結果、強硬派は敗北した。

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    それ以後、ロシアは、市場経済に向かって突き進み、犯罪と汚職が横行するなど、
    様々な問題を抱えながらロシアは変貌を遂げ、人々の生活は良くも悪くも変わり
    つつある。

    1992年、ロシアは、国有経済から自由市場経済への急転換を目指した。 最初は
    混乱と物価の高騰が起こり、通貨のルーブルの価値は急落した。 その後、一旦は
    持ち直したが、2000年代に入るまで、ロシア経済は混乱の真っ只中に居た。

    新しいビジネスが始まり、建物が修復されて、ロシアの都市は、その様相を急速に
    変えた。 ソ連時代に破壊されたクレムリン宮殿の壮大な階段、赤の広場の
    復活の門、救世主キリスト教会などの重要な歴史的な建物も元通りに再建された。

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    【ミハイル・ゴルバチョフ】

    1985年、新しいソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフは、改革
    (ペレストロイカ)、開放(グラスノスチ)の政策を慎重に取り入れた。
    ゴルバチョフは、改革に反対する共産主義者と一層の民主主義を求める急進
    主義者の両方から攻撃を受け、1991年8月のクーデターから4ヶ月後に退任した。
    しかし、新しいロシアを生み出したのは、ペレストロイカであったことに
    間違いはない。

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    【ボリス・エリツィン】

    建設技術者であったボリス・エリツィンは、1960年代にウラル地方の
    スヴェルドロフスクの党第一書記、1980年代には、ゴルバチョフの元でモスクワの
    共産党書記長となった。 1987年には、ゴルバチョフによって解任されるが、
    その4年後、ソ連最大のロシア共和国の大統領となった。 エリツィンは、ロシア
    史上最初の国民によって選ばれた指導者である。 1996年6月に行われた民主的な
    選挙では、隊長は十分ではなかったにも関わらず、再度大統領に再選された。

    1991年8月のクーデターから、12月31日までの4ヶ月は、ロシア史上でも最も混乱に
    満ちた時期だった。 その間に、共産党は解体され、ソ連邦を構成していた共和国は
    分解して、ゆるい関係の独立国家共同体(CIS)を作り、ソ連邦の最後の指導者
    であるゴルバチョフが辞任した。 ソ連の赤い国旗がクレムリンから降ろされ、
    そこに新しいロシアの国旗が掲げられた。 民主的なロシア連邦誕生の瞬間である。

    それまでのソ連邦を構成していた他の14共和国が分離独立しても、ロシアは、世界
    最大の国であり、潜在的な資源も極めて豊富に存在している。 ソ連邦の15共和国の
    うち、バルト3国を除く12共和国がCISへ加盟し、その後、グルジアとウクライナが
    脱退した。 トゥルクメニスタンは、当初から非公式な加盟国であったため、現在の
    CISの正式な加盟国は、9カ国となっている。

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    最近では、日本のメディアでも度々報道をされるようになったウクライナ。 但し、
    100%欧米寄りの偏った報道ばかりが取り上げられており、実際のウクライナの
    姿は報道されず。 ウクライナは、旧ソ連邦構成諸国の中でも、ロシアに次ぐ国力を
    誇っていましたが、元々は、ソ連から独自に独立を目指した国ではなく、ロシアが
    ソ連から独立を果たすための産物に過ぎませんでした。

    1991年12月に、ソ連邦は崩壊しましたが、その直接の原因は、エストニア・
    ラトビア・リトアニアのバルト3国が独立要求したところから始まり、次いで、
    当時ロシア大統領であった、ボリス・エリツィン氏が、ウクライナとベラルーシを
    道ずれにして、『スラブ同盟』の名の下、ロシアのソ連からの独立を宣言したため、
    ソ連の崩壊が決まりました。



    『ウクライナ』は、ロシア語では、『地方』や『田舎』を意味しますが、
    ウクライナでは、『国』を表します。 ロシア発祥の地は、ウクライナであり、
    元々、ロシアとウクライナとベラルーシは、同じ『ルーシ』という国でした。
    その後、モンゴルに首都のキエフを滅ぼされて、モンゴルの支配下になったのが、
    現在のロシア。 ポーランド、リトアニアの支配下になったのが、現在の
    ウクライナとベラルーシ。

    ウクライナは、歴史的にもロシアよりも遥かに古く、ポーランドから独立を
    果たす際に、先にモンゴル支配から抜け出した、同じ正教の国のモスクワ公国
    (現在のロシア)に助けを求め、その際に、国ごと乗っ取られたという歴史が
    あるため、ウクライナ人には、この意識が強く現れており、似て非なる点が
    争いの元となっています。



    ソ連時代のロシアとウクライナの国境は、実際のところ、日本で言うところの
    県境程度の認識であり、旅券を持たずに自由に行き来出来る単なる線に
    過ぎなかったが、その後、ウクライナは、自分の国の独自の
    『アイデンティティー』を求め過ぎて、過度に『国粋主義』寄りに傾きました。
    ロシア語の禁止、ウクライナ語の強要は、その最たるもの。

    ウクライナをはじめとする、旧東欧圏では、一昔前までは、そこまで外国人に
    対して、差別的な言動はありませんでしたが、今では、明らかにウクライナ人
    ではない人の場合は、差別の対象となってしまいます。 ウクライナ人全員では
    ありませんが、そういう人たちがかなり増えたのは、事実です。

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    アメリカやカナダ等の北米に長年住んでいるウクライナ系住民たちは、ロシアに
    対して、並々ならぬ恨みを抱いているため、それが、今回の内戦に入って
    来た事で、更に事態が悪化しました。

    西側のように、常に文句や不満を吐き出していれば、何か起きたとしても、
    ある程度の歯止めが利きますが、東側は、『全体主義』であるため、常に我慢を
    強いられる社会となっており、それがひとたび爆発すると、歯止めが掛かりません。
    個人的見解としては、ガスパイプライン問題をはじめ、ウクライナほど、周辺諸国に
    迷惑を掛けている国はまずないのと、今後も新興財閥『オリガルヒ』による支配が
    続くのであれば、ウクライナを救済する意味はないため、一度デフォルトして、
    完全にゼロからやり直すべきだと思います。

    旧ソ連時代と比較して、ウクライナは、物質的には豊かになりましたが、心はかなり
    貧困化したと思います。

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    1989年のベルリンの壁崩壊から、25年が経過した。 統一直後のベルリンは、旧東独に
    入った途端、急に暗い雰囲気になったものだが、ここ数年間の大々的な再開発事業により、
    その見た目も西側とさほど変わりがなくなった。
    img_554
    ベルリンには、元々『中央駅』はなく、東西分裂時には、『動物園駅』が西側の終点駅
    だったが、今では、単なる通過駅になってしまった。 見た目は変わってしまったが、
    東西の統一後も、心情的な壁はまだ残されたままで、分断されていた時間が長かった
    分だけ、真の統一までには、それと同じ長さの時間が必要なのかも知れない。

    ベルリンの壁崩壊から25年


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    現在の日本の生活水準は、30年前とほぼ同じ。 右肩上がりの30年前は、希望が
    見えたが、右肩下がりの今の日本には、絶望しか見えない。 かつては、情報公開度に
    おいても、世界でもトップクラスであった日本は、今では、情報隠蔽のオンパレード。
    アジアでも、既に、台湾と韓国に負けています。

    思考停止の情報弱者は、すぐに騙されてしまうため、こういう時代こそ、正しい情報を
    見極めるための判断力が大事。 本来は、必要なものだけあれば、生活が成り立って
    いたものを、不必要なものばかりが増えた結果、真実が何も見えなくなってしまった。
    資本主義も、既に限界が見えています。
     
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    • 遠くの見知らぬ人を助ける前に、すぐ目の前に居る人を助けて下さい。
    • 原発の再稼動に反対をするのであれば、まずは、節電して下さい。
    • 放射能をむやみに恐れるのであれば、正しい知識を身に付けて下さい。
    • 色々と文句ばかりを言う前に、どうすれば良いのか、自分なりに対策を立てて下さい。
    • 何かの知識を身に付けたいのであれば、自分を忘れるぐらいに勉強して下さい。
    • 誰かをうらやむ前に、自分が努力をして下さい。
    • 人の足を引っ張る前に、他人の努力を認めて下さい。
    • 自分だけが幸せならば、それで良いのではなく、周囲に苦しんでいる人がいないか、もう一度考えてみて下さい。
    • 出来もしない事を安請け合いし、他人に丸投げをして、出来る振りをしないで下さい。
    • 知りもしない知識をひけらかさないで下さい。
    • 同じ考えの人間ばかりで凝り固まらないで下さい。
    • 相手を受け入れない限り、自分も受け入れられない事を知って下さい。
    • きれいごとばかりを言わないで下さい。
    • 自分だけが正しいと思わないで下さい。
    • 両手に物を持っている状態で、新しいものは受け入れられない事を知って下さい。
    • 英語だけが外国語だと思わないで下さい。
    • 自分が興味がある事だけを調べずに、知らない事も調べて下さい。
    • 何もかも知らないで済ませないで下さい。
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