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    タグ:宮城県

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    今回は、仙台が、どうして、宮城県という名前になったかについて、お話しようと
    思います。
     
    時は遡り幕末の京。 仙台藩は、鳥羽伏見の戦いで、理不尽な条件ばかりを飲まされ
    そうになった会津藩をかばい、当初は、薩長に会津藩を許してくれるようにと懇願
    しますが、全く受け入れられず、逆に仙台藩が責任を持って、会津を倒すようにと
    命じられます。 その後、福島で長州の責任者と再度会談を試みるものの、ここで、
    かなり屈辱的な事を言わる事となったため、その大使を殺害してしまいます。
    これが、戊辰戦争の始まりです。
     
    この時に、米沢藩と共に、他の奥州列藩軍を率いたのが、奥州最大の藩であった
    仙台藩。 白河城を奪われたところから、続々と退却を余儀なくされた奥州列藩軍
    ですが、いよいよもって、仙台藩の砦である白石城も落城し、最終的には、
    仙台城は落城しなかったものの、仙台藩は、薩長軍に降伏を余儀なくされます。

    仙台藩は、自分が力尽きる最後の最後まで、会津を裏切りませんでしたが、会津の
    味方をしただけで、特に何も悪い事をしなかったのにも関わらず、その後に
    課せられた罪は、会津藩以上でした。 当時の仙台は、繁栄を極め、ここよりも
    大きい町は、その当時、江戸・京・大阪・名古屋・金沢だけでしたが、その後、
    大逆賊の汚名を着させられて、没落する事となります。

    04 

    伊達家一の家臣である白石の片倉家は、領地が全て没収となったため、伊達家には
    迷惑を掛けられないという理由で、全員で率先して、当時何もなかった札幌の
    開拓へと行きます。 現在の札幌市白石区は、この当時の名残で、北海道弁は、
    仙台弁の南側の方言である仙南弁が完全にベースになって変形したもの。

    仙台伊達家は、わざと開拓しても無駄な白老の開拓に行かされ、亘理伊達家は、
    伊達市の開拓に、岩出山伊達家は当別の開拓に行く事となります。
     
    その後、廃藩置県が進められたのですが、仙台藩の元々の領地は、現在の宮城県
    全てと、岩手県の南3分の1だったのにも関わらず、『今後仙台が二度と発展しない
    ように』との戒めを込めて、北半分を『水沢県(正確には、涌谷県、登米県、
    一関県と目まぐるしく名前が変更)』として分離、南側は、一時期だけ『仙台県』
    として存在しましたが、仙台は戊辰戦争を率いた大逆賊として扱われたため、
    その名称を使う事だけは許されず、他の名前を付ける事となりました。 これは、
    現在の被災地である、岩手、福島も同様の扱いでした。



    水沢県は、その後、南北に分割され、北側は、盛岡へと割譲、岩手県となりました。
    岩手県の南3分の1では、今でも仙台弁が話されていますが、それは、この時の名残。
    岩手県の陸前高田市が、わざわざ仙台の旧国名である『陸前』と付けているのは、
    市の名前を持ってして、盛岡とは違うと言っているため。 その後、水沢県の
    南半分は、元の仙台へと吸収され、仙台市がある『宮城野』の名前を取って、
    宮城県となりました。
     
    仙台人は、基本的に、『宮城』とは余り言いたがりませんが、それは、『仙台』
    という単語が、今の岩手県の南側も含むため。 学区制を敷いていた当時は、
    『仙台』『東北』と付くと、男子校、『宮城』と付くと、女子高という規則が
    ありました。 よって、仙台人は、今でも、『宮城』と聞くと、女を連想します。
     
    戊辰戦争での大敗を期に、結果的に福島は、東電の植民地と化しますが、宮城は、
    軍事基地にされました。 宮城県内の自衛隊が、かなり大規模なのは、帝国陸軍
    第二師団だったため。

    【お勧めの一品】


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    私の実家は、11年前の宮城県連続地震の際に、周辺地域全てが倒壊し、震度6強
    連続4回という史上最大の被災地だったのにも関わらず、被災地指定を外され、
    ボランティアがやって来たのは、ものの数ヶ月程度。 人口が少ないという安易な
    理由により、被災地指定を外されたため、当然、義捐金は一切届きませんでした。
    周りの全ての家屋が倒壊しても、結局は、倒壊家屋の件数だけで判断されてしまうため、
    団体様でなければ、日本では、被災も出来ません。

    すぐ近所の小学校には、2年間だけ、仮設住宅がありましたが、丸2年間で強制的に
    撤去されたため、家の再建が出来なかった人たちは、皆町から出て行きました。
    私の実家にも『倒壊判定』の赤紙が張られましたが、私の母親は、避難所には一切
    行かず、自宅で過ごしました。 避難所に行くと、食事が貰えたのですが、それすら
    貰いませんでした。

    その後の余震は、半年以上も続いたため、常に家屋が倒壊する危険性がありましたが、
    そのまま家に残りました。 災害時に、被災地指定から外されると、どうなるかと言うと、
    倒壊家屋の瓦礫処理が、全て自腹となります。 よって、私達の場合は、瓦礫処理代
    として、1件につき、60万~200万円程度それぞれ支払いました。

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    近所の神社とお寺も倒壊したため、檀家代として、5年間、毎年5万円づつの寄付を
    取られました。 小学校と中学校に対しても、寄付を取られましたが、その見返りとして
    貰ったものは、タオル1枚だけ。 その時に、すぐ隣の石巻は、全く無事でした。

    大規模な地震が連続であった割には、死者は1人も出なかったため、その後は、全て
    忘れ去られました。 大量に死者を出して、4年半以上経過しても、未だ忘れられないのと、
    家が無くなっても、ものの数ヶ月間だけで忘れ去られるのとでは、どちらがましなのかと、
    常々考えていますが、石巻の人たちに、この事を言っても、殆ど覚えてはいないため、
    如何に人事としてこちらの災害を捉えていたかが良く分かります。

    東松島と松島は、この時にこちらと一緒に被災したため、当時の状況を良く覚えて
    いるのですが、こちら側と石巻との関係が完全に溝になっているのを知っているのは、
    地元以外の人間では居ないと思います。 石巻の人たちは、自分たちが一番不幸だと
    常々言っていますが、それでは、完全に見捨てられた我々はどうなるのかと、
    言い返してやると、何も答えられないのは何故。

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