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    タグ:宮城県

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    宮城県女川町の離島・出島(いずしま)。 巨大津波に襲われ、島民らが一時
    孤立する事態に陥った。 外部との連絡が途絶え、不安の中で一夜を過ごした
    島民は、翌日午後には陸上自衛隊のヘリコプターで全員が宮城県石巻市に無事
    搬送された。 震災直後の混乱の中での『スピード救出』。 それを可能に
    したのは、1台の衛星電話だった。

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    その時 何が 島を救った衛星電話(宮城・女川町の出島)
    出典:河北新報

    養殖業が盛んで、釣り客にも人気の出島は人口約450人。 地震発生時は350人
    前後が島にいたと推定される。

    2011年3月11日の津波は『高さ20メートル近かった』と島民たちは証言する。
    養殖施設や漁港に係留していた船はあっという間に流され、付近の家々も壊滅。
    町災害対策本部は後日、出島で13人が死亡、11人が行方不明だと確認した。

    津波を逃れた住民たちは島の中央部の山を駆け登り、多くは山頂付近の女川四小・
    二中の校庭に避難した。 下校時間を迎えていた27人の児童・生徒も身を寄せ
    合っていた。

    気温が下がり、雪が吹き付けた。 島民は体育館や教室に入り、近くの民宿など
    から運んだ毛布にくるまった。 次第に、自分たちの置かれた深刻な状況が
    分かってきた。 情報源はラジオだけ。 電気・水道が止まり、携帯電話や
    インターネットも使えない。 飲料水は残りわずか。 夜が更けるにつれて
    不安と焦りが募った。

    3月12日早朝、外部と連絡を取ろうと教職員らは校庭の雪を払い、石灰で大きく
    『SOS 水 むせん』と書いた。 数機のヘリが上空を横切ったが、気付か
    ないのか、そのまま通り過ぎて行く。

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    『連絡方法は一つ』。 出島地区の赤坂宏介区長(70)は必死にがれきの中を
    走った。 島には町から配備された2台の可搬型衛星電話がある。 出島、寺間の
    両区長の家に1台ずつ置かれていた。 漁港に近い自宅の1台は水没してしまった。

    もう1台は寺間地区の高台に立つ植木千万夫区長(68)宅にある。 寺間地区に
    着いた時、植木さんは沖に出した漁船で一晩過ごし、家に帰る途中だった。
    『出島区長が来てる。 早く戻って』。 遠くから自分を呼ぶ住民の声を聞いて、
    植木さんは『衛星電話を取りに来たとすぐに察しがついた』。 走って戻り、
    家に無事残っていた衛星電話を手渡した。

    衛星電話は学校に運ばれ、当時女川四小校長だった今野孝一さん(51)が通信を
    試みた。 訓練以外に触れることのない衛星電話は、バッテリーが切れていた。
    近くの道路工事現場の発電機から電源を取った。 慎重にアンテナの向きを調整
    すると、受話器から発信音が聞こえる。

    今野さんは女川町や県の防災関係機関に次々と電話を掛けた。 だが、一向に
    つながらない。 少し考えて、ここは海の上だと気付いた。 掛けたのは海上
    保安庁の『118』。 『救助要請ですか』。 頼もしい声が耳に響いた。

    電話から約2時間後の午後1時ごろ、陸上自衛隊のヘリが島に降り立った。 30人
    乗りの大型ヘリ2機が、島と石巻市総合運動公園との間を何度も往復した。
    全員を搬送し終えた時は午後5時を回っていた。 島民たちは『われわれは運が
    良かった』と振り返る。 万が一に備えて数年前に配備された衛星電話。

    1台は偶然高台にあった。 学校の近くが道路工事中で、発電機が使えたことも
    幸いした。 いずれが欠けても“細い糸”はつながらなかった。

    出島は今も電気、水道が止まり、島民は昼間、がれきの撤去などで島に渡りながら、
    夜は本土で避難生活を送っている。 NTTドコモ東北支社によると、応急処置に
    よって出島で同社の携帯電話がほぼ使えるようになったのは、震災1カ月後の
    4月10日だった。

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    宮城県南三陸町志津川の特別養護老人ホーム『慈恵園』は、志津川の中心部を
    一望できる高台にある。 棟続きの町社会福祉協議会の施設は、津波など災害時の
    指定避難場所でもあった。

    南隣のさらに高い場所にある志津川高に高齢者を避難させようとしているさなか、
    大津波は車いすを押す職員と、まだ入所者らが残っていたホームに襲い掛かった。
    入所者とショートステイ利用者計67人のうち46人が死亡、2人が行方不明になり、
    職員も1人が亡くなった。

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    その時 何が 高齢者46人が犠牲(宮城・南三陸町)出典:河北新報

    2011年3月11日午後3時半、特養ホーム『慈恵園』の駐車場。 津波がJR志津川駅
    そばのスーパーの大看板をゆっくりとなぎ倒すのが見えた。 ホームまでの距離は
    約500メートル。

    『(志津川)高校に行って』『早く逃げて』職員たちは押せるだけの車いすを押して
    走り出した。 ホームは標高約15メートルの高台にあり、南隣の志津川高はさらに
    20メートル以上高い場所にある。

    施設長佐藤喜久子さん(65)も車いすを押して志津川高に急いだが、高校に続く
    階段手前の坂道で車輪が止まった。 押しても押しても進まない。 家が流される
    のが見えた瞬間、車いすとともに津波にのみ込まれた。

    ホームの裏山の方に押し流された後、渦を巻いた波で施設内に引き戻された。
    佐藤さんは必死に木材にしがみついた。 『もう駄目かもしれない』。 そう思った
    瞬間、すっと水が引き、床に足が着いた。

    津波はホームの天井の下30センチまで達した。 気力を振り絞り、施設内で入所者を
    捜し、数人をベッドに戻した。 『すぐ助けに来ますから』。 声を掛け、さらに
    生存者の姿を捜した。 佐藤さんがひざの出血に気付いたのは、その日の夜遅く
    だった。

    『誰かいますかー』 志津川高に利用者1人を避難させた介護士星雅也さん
    (38)は、第1波が引くと同時にホームに駆け戻った。 救出には志津川高の
    生徒たちも加わった。

    星さんは、ホームの周囲に積み上がった高さ1メートル以上のがれきを乗り越え、
    2人を運び出した。 3人目を捜していた時、悲鳴に似た叫び声が聞こえた。
    『また(津波が)来たぞー』『早く戻れー』。 高校に駆け戻らざるを得なかった。
    志津川高まで連れ出せた高齢者は28人。 外は雪。 その夜のうちに、寒さなどで
    8人が息を引き取り、搬送先の病院でも1人が亡くなった。

    高台にあるホームと棟続きの町社協の施設は津波災害の際、避難者の受け入れを
    担う。 敷地内には地震発生直後から、近隣の住民が続々と避難。 ホームの
    スタッフも慌ただしく利用者をホールに集め、毛布や保存食、飲料水の準備を
    始めていた。

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    相談員佐々木博美さん(50)は『一番心配したのは、余震で建物が崩れること
    だった。 まさか、ここまで津波に襲われるとは』と振り返る。 施設長の佐藤
    さんは自問する。 『津波が来ることが分かっていたとしても、全ての高齢者を
    避難させられただろうか』

    移送手段は車しかない。 スタッフは29人。 当時ホームにいた高齢者67人の
    多くは要介護度4以上で寝たきりか、車いすが必要な人たちだ。 車に乗せる
    のは2、3人掛かりの作業になる。

    町社協デイサービスセンターでも、津波で利用者9人が死亡、1人が行方不明に
    なった。 高齢者21人に対し、避難誘導に当たったスタッフは半数に満たない
    10人だった。

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    北上川河口に近い宮城県石巻市北上総合支所の庁舎は、2011年3月11日の
    東日本大震災で津波の直撃を受け、全壊状態となった。 庁舎には少なくとも
    57人の住民や職員らがいたとみられるが、無事が確認されたのは男性職員
    2人と小学4年生の男子児童1人だけだった。 庁舎は指定避難所だったにも
    関わらず、生存率はわずかに5%。 多くの人が犠牲になってしまった。

    その時 何が 生存率5%(石巻市北上総合支所)
    出典:河北新報

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    『支所に避難したから心配ないよ。 子どもたちも遊んでる』午後3時15分ごろ、
    建設会社従業員だった岡一也さん(33)は、宮城県松島町の現場からの帰り道、
    妻裕美さん(32)から電話を受けた。 明るい声で長女の吉浜小1年優心さん
    (7)、次女彩巴ちゃん(1)も一緒だという。

    『大丈夫だな』と思ったが、それが最後の会話となった。 地震直後から、支所には
    近所の人が集まっていた。 近くのデイサービスセンターを利用していた高齢者も
    職員に付き添われて避難していた。

    支所に立ち寄った消防団員の燃料販売業佐々木正人さん(49)は、知り合いの
    裕美さんに『山の方に行かないの?』と声を掛けた。 裕美さんは妹やめいとも
    一緒で、『後で母もこっちに来るはずだから』と答えた。

    佐々木さんは『庁舎の2階まで津波が来るとは想像しなかったが、車で避難出来る
    なら、近くの高台の方がいいのでは、と思った』と振り返る。

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    2006年に新築された庁舎は、鉄骨木造2階で延べ床面積は約2,400平方メートル。
    宮城県沖地震で想定される津波が高さ5.5メートルだったため、建物は1メートル高い
    海抜6.5メートルの場所に建設された。

    1、2階それぞれに支所の事務室と公民館部分があり、津波の際は公民館部分の2階
    多目的研修室に住民を避難させる計画になっていた。

    『多目的研修室、住民31人の避難完了』。 午後3時10分ごろ、2階事務室で災害
    対応に当たっていた支所地域振興課の今野照夫さん(50)に同僚から報告が入った。
    約10分後、支所と吉浜小の間の小川を津波がさかのぼった。 水かさがみるみる
    増し、津波は事務室に流入。 今野さんは『窓や壁もろとも外に押し流され、
    もの凄い水の勢いで地面に押しつけられた』という。

    何とか浮かび上がり、がれきにつかまった。 何度も気を失いながら漂流し、寒さで
    もうろうとしつつ民家に流れ着いた。

    北上総合支所によると、職員38人のうち、津波の襲来時に庁舎にいたのは19人。
    他に警察官や消防職員、警備会社員ら7人もいたが、無事だったのは今野さんら
    職員2人。 住民『31人』のはっきりした内訳は分かっていない。 救助されたのは
    4年生の男子児童だけだ。

    会社員千葉守さん(45)の長女で吉浜小6年の美里さん(12)と、千葉さんの母
    ゆり子さん(62)も支所にいたとみられる。 地震前、公民館の図書室にいる
    美里さんを吉浜小の教諭が確認している。 孫を迎えに向かうゆり子さんの姿も
    近所の人が見ていた。

    2人は今も行方不明。 『美里は、毎週のように単身赴任先の仙台に手紙をくれる
    優しい子だった』と千葉さん。 無念さと割り切れなさが募る。

    『津波で壊滅する建物がなぜ避難所なのか。 高台に避難者を誘導すべきだった
    のではないか』 津波は近くの吉浜小校舎の3階天井まで達した。 同校によると、
    卒業式準備のため学校に残っていた4、5年生の計5人と教職員10人は狭い屋上に
    逃げ、かろうじて難を逃れた。 全校児童49人のうち、死亡・行方不明は
    優心さんや美里さんを含め7人。 いずれも支所にいた可能性がある。

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    がれきの町に赤い鉄骨だけを残す3階の建物。 宮城県南三陸町の防災対策
    庁舎は、津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道
    されてきた。

    屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の
    現場。 その屋上で男性職員は、庁舎が大津波にのまれる瞬間をカメラに
    収めていた。

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    その時 何が 悲劇の防災庁舎でシャッター(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    その時、南三陸町総務課の加藤信男さん(39)が構えたカメラの設定が正確
    ならば、2011年3月11日午後3時34分だった。 海岸から約500メートル離れた
    町防災対策庁舎を、巨大津波が直撃した。

    『決定的瞬間』とか『決死のシャッター』だとか、ほめられた話じゃない。
    こんな所まで津波は来ないと油断し、逃げ遅れた。 反省、後悔…。つらい
    写真です』

    激しい揺れが襲った時、隣接する木造の町役場1階にいた。 当時は企画課で
    広報を担当して3年目。 『何かあったらすぐ写真を撮る。 それが習慣に
    なっていた』。 揺れが収まると、使い慣れた一眼レフカメラを手に取った。

    書類が散乱した役場内、屋外の様子。 『どうせ津波が来ても1、2メートル。
    その時は防災庁舎に上がればいい』。 そう思いながら撮影を続けた。
    『津波が来るぞ!』との声を聞き、加藤さんも庁舎屋上に上がった。

    レンズ越しに眼前に迫る津波を見ても『恐怖心はなかった』。 波に足を
    すくわれ、われに返った。 『まずい』その日は、町議会の最終日だった。
    役場には佐藤仁町長や職員約40人、町議らがいた。 地震後、佐藤町長や職員、
    町議の何人かが防災庁舎に向かった。

    防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が高台への避難を
    繰り返し呼び掛けていた。

    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~



    津波が迫る。 職員らが屋上に続く階段を続々と駆け上がった。 間もなく、
    巨大津波が屋上をたたく。 何人かは、そびえる無線アンテナにしがみついた。
    加藤さんは首から提げていたカメラを、とっさにジャンパーの内側に入れた。
    屋上を流され、やっとのことで外階段の手すりにつかまった。 階段の手すりに
    背を向け、柵に左足を絡めた。

    津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支点にエビぞりになった。 体を起こそう
    にも水圧に勝てない。 水位がどんどん上がる。 顔が激流にさらされ、沈み、
    水を飲んだ。

    死を覚悟したとき、胸ぐらをつかまれた。 『ほら頑張れ!』。 そばで同じ
    ように津波に耐えていた副町長の遠藤健治さん(63)が、体を起こしてくれた。

    激流の中で遠藤さんの手が離れると、また潜った。 『やっぱり駄目か』。
    諦めそうになると、遠藤さんがまた、胸ぐらをつかんで引き起こす。 その
    繰り返し。 生死の境を何度も行き来し、気付くと津波が引き始めた。

    翌日、骨だけの庁舎に絡んだ漁網などを伝って、がれきが重なる地上に下りた。
    しばらく体調がすぐれず、カメラを確かめたのは10日ほど後。 本体は壊れて
    いたが、データは無事だった。

    残っていた数十こまの写真には、犠牲になった上司や行方が分からない同僚の
    姿も写っていた。

    町は3月末、加藤さんが残した写真のうち6枚を、町のホームページで公開した。
    関係者らの心情に配慮し、人物が写っていないこまに限った。

    『みんなが真剣に津波防災に取り組む参考にしてほしい。 写真は避難が
    遅れた証拠。 見た人には『津波の時はまず避難』と思ってほしい』

    忘れたい出来事さえも伝え残さなければならない。 加藤さんら助かった
    職員らは葛藤しながら、復興の前線に立ち続けている。

    >>【南三陸防災庁舎】 町長不起訴『予見不可能』

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    『南三陸1万人不通』。 人口約1万7,600人の宮城県南三陸町で、
    約1万人と連絡が取れない。 宮城県の発表として、2011年3月13日の
    朝刊はそんな見出しで報じた。

    被害の全容が把握出来ず、一時は町民の半数以上が犠牲となる最悪の
    事態も心配された。 町職員の被災、交通・通信の途絶、避難所に
    押し寄せる住民…。 混乱を極めた現地には、情報を発信するすべも
    なかった。

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    その時 何が 1万人安否不明(宮城・南三陸町)<出典:河北新報

    南三陸町を大津波が襲ったのは、3月11日午後3時半ごろ。 大津波は
    高さ5メートルの防潮堤を越え、町の中心部に迫った。 町職員の佐藤勉さん
    (47)は、同町志津川の町海浜センターで大きな揺れに見舞われた。
    住民を高台の町道へ誘導し、避難所となる町総合体育館へ向かった。

    体育館には既に約100人の町民が避難していた。 夕方には避難者は1,000人
    近くに膨れあがった。 無線などの連絡手段がなく、6人ほどの町職員で食料の
    確保などに追われた。

    『残っている職員で町民をいかに守るかで手いっぱいだった』と佐藤さん。
    志津川小から山伝いに避難してきた町民から、『町役場が流失した』と知ら
    されたのは11日深夜。 町役場に隣接する防災対策庁舎も津波で被災し、屋上で
    数人が生存しているとも伝えられた。 役場機能は、ほぼ完全に失われた。

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    『1万人安否不明』の数字は12日、宮城県庁の災害対策本部でのやりとりで出た。
    町から報告された7,500人の避難者数を受け、報道各社から質問が相次いだ。
    記者『7,500人が避難したとなると、残り1万人は?』

    県『町も正確な数字を把握していない。 単純に引き算すると1万人が安否不明に
    なるが、断定的な数字を出せる状況でない』 1万人安否不明という数字は、
    『犠牲者』という意味を帯びて独り歩きを始めた。 14日には、南三陸町で
    約1,000人の遺体が見つかったと報じられた。 町は一貫して否定し、情報は錯綜
    していた。

    防災対策庁舎で津波に襲われた佐藤仁町長(59)。 壊滅した町を庁舎屋上から
    見て祈った。 『みんな、逃げていてくれ』 町は1960年のチリ地震津波で、
    41人の犠牲者を出している。 それを契機に、町は毎年避難訓練を行ってきた。
    佐藤町長は『各地で避難所が孤立し大混乱だったが、町民の防災意識は高かった。
    1万人の安否不明者が全て犠牲となったとは考えていなかった』と振り返る。
    安否確認は難航を極めた。

    町は震災後、町総合体育館に災害対策本部を設置。 しかし、通信手段がなく、
    対策本部と各避難所との連絡が取れない。 道路もがれきに埋もれている。
    町職員、車、ガソリン。 全てが不足していた。

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    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~

    安否確認のよりどころは、避難所にある手書きの避難者名簿だけ。 家族や親類、
    友人の安否情報を求める住民は徒歩で何時間もかけ、数十カ所の避難所を回って
    いた。

    町が10年2月に発生したチリ大地震津波で行ったアンケート。 最も多く避難した
    のは山間部の親類宅(40.1%)で、指定避難所は24.2%だった。 避難者名簿に
    載らない1万人の安否不明者が出た背景だった。 町による安否不明者の確認作業が
    始まったのは3月28日。 避難所の町民だけでなく、自宅や親類宅にいる町民ら
    全町民を対象に避難者台帳の提出を呼び掛けた。 町外へ脱出するなどして連絡が
    難しい場合は、電話や行政区長を通じて確認を取った。

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    震災の直前、JR仙石線野蒜駅(宮城県東松島市)を同じ時刻に発車した2本の
    列車があった。 ともに4両編成の仙台行き上り普通列車と石巻行き下り快速列車。
    海沿いを走行中に地震に襲われ、2011年3月12日の朝刊は『野蒜駅付近を走行して
    いた列車と連絡が取れないとの情報がある』と伝えた。 乗客の明暗が分かれた。

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    その時何が 消えた列車(東松島)
    3月11日午後2時46分。 2本の列車は、時刻表通り、野蒜駅からそれぞれの目的地へ
    出発した。 窓の外は雪が舞っていた。

    仙台に向かう上り列車の乗客は、会社員や小学生ら約50人。 駅を出てすぐ、携帯
    電話が一斉に鳴りだした。『宮城沖で地震発生』。 緊急地震速報だった。ほぼ
    同時に車両が揺れ始めた。 あちこちで悲鳴が上がった。 石巻専修大3年
    菊谷尚志さん(20)は思わず手すりをつかんだ。 『大人2人に揺さぶられて
    いるようだった』

    車両が緊急停止した場所は駅から約700メートル。 近くには東松島市指定避難所の
    野蒜小があった。

    『乗客を野蒜小に避難させてください』。 仙台のJRの指令担当者から無線指示を
    受けた乗務員の案内で、乗客は約300メートルの道のりを歩いた。 誘導された
    体育館には、既に100人以上が避難していた。

    【5年が経過した野蒜駅前】


    午後3時50分ごろ。『津波が来たー! 2階に上がれー!』。 入り口近くにいた
    菊谷さんは、男性の叫び声を聞いた。 人が殺到した近くの階段を避け、ステージ
    奥の階段へ走った。 そこも行列だった。 順番を待つ間に水は足首まで達した。

    現実感がなかった。 『映画みたいだ』と思った瞬間、近くの窓ガラスが次々に
    割れ、泥水が一気に流れ込んできた。 後ろにいた女の子やお年寄りが声もなく
    流されたが、なすすべはなかった。 必死で2階に上った。

    JR東日本仙台支社によると、少なくとも乗客1人が体育館で亡くなったとみられる。
    混乱の中、安否を確認できた人数は約20人。 2カ月が過ぎた今も、体育館に避難
    した乗客数すら『不明』のままだ。

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    津波は線路上の上り列車も押し流し、車内は1メートル以上浸水した。 菊谷さんは
    『もし車内に残っていたら、死んでいただろう』と振り返る。

    下り列車は野蒜駅から約600メートル走って緊急停車した。 幸運にもそこは十数
    メートルの高台だった。

    『とどまった方が安全だ』。 地元に住む年配の男性客が、乗客を外へ誘導しよう
    とした若い乗務員に助言した。 乗客と乗務員約60人は、最も高い位置にある
    3両目で待機することになった。

    高台は津波の襲来を免れたが、濁流にのまれる建物や車が窓越しに見えた。
    『上り列車は無事だろうか』。 石巻市の和泉徳子さん(51)は、野蒜駅で
    すれ違った列車の安否が気掛かりだった。

    乗客の男性たちが水に入り、流された家の屋根に乗って漂流していた70代ほどの
    男性を救出した。 震えるお年寄りを座席に横たえ、体をさすって温めた。
    『暗くなる前に一口ずつどうぞ』。 ある女性客が自分の弁当を周りに勧めた。
    それを機に和泉さんら他の乗客も手持ちの総菜や菓子、水を取り出した。 自然に
    分かち合いの輪が生まれた。

    1人だけ、心細そうな男の子がいた。 大人がさりげなく見守り、励ました。
    夜、母親が水をかき分けて車両にやって来た。 『みんな自分のことのように
    ホッとした』と和泉さん。 その晩、男の子は母の腕で眠った。 夜は長く、
    寒かった。 乗客は詰めて座り、互いの体温で暖を取った。

    【5年が経過した東松島市】


    12日朝。 乗客ら全員が車両を脱出、線路を歩いた後、トラックの荷台に揺られ、
    指定避難所の公民館へ向かった。

    『一人一人ができることをやった。 みんなの力で乗り越えられた』。
    和泉さんは今、そう思っている。

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    今、こけしが静かなブームとなっている。 東北地方で江戸時代から作り続け
    られきた『こけし』は、球形の頭に円柱の胴を付けただのけのシンプルな人形だが、
    どこか郷愁を呼び起こす。

    現在、こけしが、戦前と高度経済成長期に続く第3次ブームとなっており、
    『こけ女』と呼ばれる女性ファンも多い。 こけしには、ある>ロシア人が箱根を
    訪れた際に、それをモチーフに、ロシアの伝統的な民芸品『マトリョーシカ』が
    生まれたという定説もある。


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    そもそも、こけしとは、江戸時代末期の文化、文政期(1804~1830年)には既に、
    東北各地の温泉で作られていたようだ。 山間部の木々でお椀やお盆といった
    製品を作った余り木を材料にした子供の玩具だったといわれる。 湯治客への
    土産物にぴったりだった。

    『こげす』『きぼっこ』『こげすんぼこ』『おでこさま』『きなきなずんぞこ』、東北の地域
    ごとに様々な呼び名があったが、昭和15年に宮城県鳴子温泉で『全国こけし大会』が
    開かれ、統一名称として『こけし』と呼ぶことに決まったという。

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    その形状は、福島県の土湯温泉を中心に発展した『土湯系』や、宮城県の遠刈田
    温泉周辺で育まれた『遠刈田系』など、東北6県で11系統に分類されている。

    もっとも古いものでは、文化文政(1804〜1830年)に宮城県の遠刈田で作られ
    始めた物らしく、その後天保年間(1830〜1844年)頃から福島県の土湯でも造り
    始めたとされている。

    現在では、伝統的なこけしに加えて、人気キャラクター等、様々なバリエーションが
    楽しめ、実際に日常生活でも使える実用的なこけしも登場している。

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    宮城県の郷土料理で、冬の定番と言えば、仙台セリ鍋。 セリ鍋は文字通りセリが
    主役の鍋で、セリの葉っぱや茎は当然ながら、新鮮さの象徴である真っ白な根っこも
    綺麗に洗って丸ごと頂きます。

    宮城県名取市などがせりの栽培をする名産地として有名で、せりを根っこから葉の先
    まで贅沢にどっさりと、鶏肉(鴨肉なども)一緒に鍋にした、健康かつ絶品な鍋料理です。

    宮城県以外では、なかなか食べる機会のない郷土料理であるため、仙台に行った
    際には是非お試しあれ。

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    【仙台セリ鍋のレシピ】

    材料 (2人分)
    ■ 〈出汁〉
    液体鶏ガラスープ大さじ5
    料理酒大さじ2
    水800cc
    ごま油適量

    ■ 〈鍋の材料〉
    セリ 1束
    白菜 1/4個
    長ネギ1本
    油揚げ1〜2枚
    お豆腐3個パックの1個

    ① 出汁の材料を全て鍋に入れてかき混ぜます。
    ② お好きな具材を入れて、煮込みます(セリはまだ入れません)。
    ③ 食べる直前にセリを投入! 火を止めて蓋をしてセリを蒸らす感じでOK!
    ④ 残ったスープでうどんを煮るのも美味しいです。

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    東日本大震災で当時6歳だった仲の良い姉を亡くした宮城県石巻市の小学2年生の
    佐藤珠莉(じゅり)ちゃん(8)が、2人の人形を『世界旅行させてください』と願う
    手紙をサンタクロース宛てに書いた。 いつか海外に行くことを夢見ていた姉と
    自分の代わりに人形が世界中を旅出来るようにと、サンタクロースにお願いをした。

    『あいり姉ちゃんとたくさんりょこうしたかったので、わたしのゆめをかなえて
    ください。 たびをしたときの人形のしゃしんをいっぱいとってきて、きねんに
    ほしいです』
     
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    珠莉ちゃんの姉の愛梨ちゃんは、石巻市内にある私立『日和幼稚園』に通い、
    震災後に幼稚園の送迎バスで自宅に帰される途中、津波と火災に巻き込まれて
    命を落とした。



    当時3歳の珠莉ちゃんは、いつも一緒に遊んだ姉を突然失い、喪失感を抱えたまま
    成長した。 クリスマスや七夕などの度に帰ってくるよう願ったが、叶わなかった。

    昨年夏、珠莉ちゃんは、あるテレビ番組にくぎ付けになった。 病気の子に似せた
    人形を世界中を旅する人々に持ち歩いてもらい、名所を背景に写真を撮ってもらう
    企画。 番組では後日、その子にたくさんの写真が届いた。

    『愛梨もこうしてもらえないかな』その年のサンタへの手紙で、姉妹の人形を
    お願いした。 母親の美香さんが、復興支援団体を通じて人形を作れる人に製作を
    頼み、クリスマスに姉妹に似た編みぐるみが届いた。 珠莉ちゃんは大喜びで
    お礼の手紙を書き、今年は人形の世界旅行の願いを綴った。
     
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    父親の文貴さんが家族旅行を計画し、美香さんが人形も持って行くことを提案
    したが『サンタさんに連れて行ってもらう』と珠莉ちゃん。 美香さんは
    『姉と自分を人形に投影し、自分の中に2人の世界があるのでしょう』と
    推測する。

    愛梨ちゃんの死後、事態の真相究明に奔走する両親を珠莉ちゃんはおとなしく
    見守った。 美香さんは『甘えたい盛りに我慢ばかりさせた』と悔やみ、
    『姉に対する思いの深さは親も驚くほど。 サンタの存在を信じる純粋な心を
    大切にしてあげたい』と思いやる。

    両親は、海外に行く用事があり『人形を持って行ってもいい』と申し出てくれる
    人がいれば、サンタの代役をお願いしてみようかと考えている。

    愛梨&珠莉人形 世界旅

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    現在Facebook上には、『愛梨&珠莉人形 世界旅』 というページが制作され、
    あいり&じゅり姉妹は、世界中を飛び回っている。 サンタクロースになって、
    2人を海外へ連れて行っても良いという方は、こちらのフォームから問い合わせ
    お願いします。

    【EN】
    A girl who has lost her older sister (at the time she was 6 years old) by
    the tsunami in 2011, she dreams her dolls to travel around the world with
    her lost sister.

    【DE】
    Das Mädchen, das ihre ältere Schwester(zu der Zeit war sie 6 Jahre alt)
    vom Tsunami im Jahr 2011 verloren hat, träumt ihre Puppen, wie sie,
    um die Weltreisen mit ihrer verlorenen Schwester zu machen.

    【FR】
    La jeune fille qui a perdu sa sœur aînée (au moment elle avait 6 ans)
    per le tsunami en 2011, elle rêve des poupées comme ils voyagent à travers
    le monde avec sa sœur perdue.

    【RU】
    Девочка, которая потеряла свою старшую сестру(в то время ей было
    6 лет) в результате цунами в 2011 году, очень мечтает о том, что
    куклы похожие на них путешествуют по всему миру вместе со своей
    потерявшей сестрой.

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    邦楽 に参加中!

    みちのくを活動拠点とし、和太鼓、篠笛、津軽三味線を用いて、伝統民謡などを現代風に
    アレンジした新世代4人組邦楽ユニット。 バンドでの演奏スタイルが特徴となっており、
    これまでに、日本全国のみならず、台湾、韓国、アメリカ等の海外でも公演活動を行って
    きた。

    希望の音 和太鼓とともに

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    現在の4期メンバーは、三浦公規、石田陽祐、千葉響の3名の和太鼓と、津軽三味線
    の高橋勇弥。 結成当初の初代メンバーから残っているのは、和太鼓の3名で、2005年の
    閃雷結成以来、数名のメンバーチェンジを行ってきた。



    東日本大震災以降は、ふるさと宮城を中心に、東北を支援する活動を積極的に行い、
    青いこいのぼりプロジェクト』では、全国から、青いこいのぼりを寄付して貰い、毎年、
    5月5日に東松島市内に青いこいのぼりを掲げ、犠牲になった子供達の鎮魂と、世界中の
    子供達の平和のシンボルとしている。

    瓦礫から再生した楽器を被災地に寄付する活動も行っており、これまでに、大太鼓5基を
    被災地に寄付している。



    2005年の結成以来、10周年を迎えた閃雷が、2015年12月6日(日)、結成の地である
    宮城県美里町文化会館にて、ツアーファイナルを行った。 本拠地なだけに、丸3時間の
    非常に見応えのあるライブでした♪ ライブの後は、恒例のサイン会o(^-^)o ロビーから
    客席に入ろうとしたところ、民謡歌手の庄司さんが突如現れたので、握手と記念撮影して
    頂きました♪ この場所には、云十年ぶりに入りましたが、中にある緞帳が大昔のままで、
    非常に懐かったです。 



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    被災地通信 に参加中!

    宮城県美里町は、12年前の「宮城県連続地震」の最大の被災地。 この付近を
    流れる鳴瀬川は、白鳥の越冬地としても有名で、冬になると、白鳥が大量に
    飛来する。

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    2003年7月26日、1週間も降り続いた長雨の直後に震度6強連続3回という地震が
    発生したため、この周辺は、液状化現象を起こして、概ね地盤沈下した。
    その際に、堤防も決壊し掛けたのだが、元々、この付近には、この堤防以外に
    高い場所が一切ないため、堤防が切れてしまうと、一巻の終わり。 先日の
    集中豪雨で堤防が決壊した大崎市の渋井川は、実は、この川の15キロ上流にある。



    但し、この堤防は、12年前の連続地震が起きた後に、丸2年間もの歳月を掛けて
    (一部の家屋は、別の場所へ移転)、堤防の厚さを3倍強に補強し、更に、昨年
    再度堤防を補強したため、このような頑丈な厚さの堤防となった。 砂利道の
    部分が、被災後に付け足した部分で、それ以前は、このサイクリングロード
    として舗装されている部分の厚さしかなかった。

    【3倍強の厚さに補強された堤防】
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    宮城県連続地震」が発生した際に、最も被害が酷かったのは、墓地付近で、
    概ね50センチ~1メートルほど、墓石が沈下した。 お寺と神社も完全に倒壊した
    ため、その後、5年間に渡り、それぞれ、年間で5万円づつ檀家料を徴収された。

    この付近だけは、人口が少ないという安易な理由により、被災地指定からも
    外されたため、瓦礫の処理は自腹だった。 町が瓦礫の処理の費用を半分負担
    したため、若干ましにはなったものの、それでも、東北の家屋は、全て大きいため、
    それぞれの家庭で、60万円~200万円程度の費用が掛かった。 その際に、税金を
    一部免除されたのだが、その金額は、何と1,000円。

    家を失い、住む場所すらなくなった人達に対する免除額が1,000円とは何とも
    情けない話し。

    美里町は、2016年1月で合併10周年なのだが、10年経過した今でも、ハッキリ
    言って小牛田と仲が悪いのは、その当時、小牛田が被災しなかったため。
    当時は、震度4強程度の揺れだったらしい。 よって、小牛田の人達は、この
    事実を覚えてはいない。

    この付近は、家屋がもれなく倒壊したため、田舎町なのに、新しい家屋だらけ
    なのだが、家を建てられなかった人達は、町から出て行ったため、その後、
    人口が劇減りした。 すぐ近所の小学校にあった仮設住宅は、2年キッカリで
    撤廃された。 東日本大震災では、東松島市の仮設住宅がその小学校のすぐ裏に
    建設されたのだが、そちらは、2015年の3月まで、丸3年間あった。 連続地震の
    すぐ後に、市町村合併の話が持ち上がったため、予算を使い果たした町には、
    既に合併を拒否出来るだけの力は残ってはいなかった。
     
    【復旧が完了した墓地と石巻から移転して来た工場】
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    この周辺は、市町村合併前までは、町の中心部だったのだが、合併後は、
    何もかも小牛田に持って行かれてしまったため、何もなくなった。 この
    付近の住民は、元々、小牛田方面へは行かないため、2015年の4月からは、
    バスすらなくなった。 バスの終点は、元々は、小牛田などではなく、涌谷
    だったのだが、市町村合併後に、強引にルートを変えられたもの。 

    この場所は、東北最大の海岸である野蒜からは、15キロ地点にあるのだが、
    東日本大震災が発生した際に、この川を伝って、津波が遡上して来たため、
    堤防内にあった木が殆どなくなった。 東日本大震災の際には、家屋の倒壊は
    1軒もなかった。 その理由は、倒れそうな家屋は、12年前に全て倒壊したため。
    美里町は、石巻からも至近距離にあるため、被災後は、石巻港から2つの工場が
    移転して来た。



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    東日本大震災で多大な被害を受けた、宮城県名取市閖上地区で、旧閖上中学校の解体
    工事が始まった。 周囲には、高台等はなく、この中学校が唯一の高い建物だったが、
    多くの命を救った中学校の解体は、大津波により、ほぼ更地となった閖上地区の安全面
    にも不安を残す結果となった。

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    閖上地区の大震災前の人口は、5,612人だった。 しかし大津波で壊滅した閖上は、かつて
    活気に満ちた漁港を中心にほとんど更地と化してしまった。 名取市の犠牲者数は1,027人
    (不明者は119人:2011年6月10日現在)にも上っており、そのほとんどが閖上地区に集中
    している。 9月末の人口は2,410人となり、犠牲者だけでなく、多くの住民が閖上から姿を
    消したことを物語っている。

    多くの人が犠牲になった主因は、他地域と同様に、まさかここまで津波は来ないとの
    思い込みによる避難の遅れであるが、ここ閖上にはもう一つの要因、車での避難者が
    大渋滞に巻き込まれて身動きが取れないまま多数の人命が失われたことが挙げられる。



    2階に留まれば助かった公民館から津波が来る直前に強引に中学校に移動を指示した。
    公民館から一斉に避難を始めた車が渋滞に拍車を掛けた。 仙台方面への大動脈である
    閖上大橋上で事故があり通行止めになったため仙台方面への車がどんどん溜まり、
    たちまち身動きがとれなくなった。
     
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    河北新報 <閖上中>悲しさ悔しさ…感謝 校舎と惜別
    宮城県名取市閖上地区で2015年12月24日、旧閖上中校舎の解体工事が
    本格化した。 関係者は複雑な思いで作業を見守り、校舎との別れを惜しんだ。

    校舎は1980年の完成。市は11月に正面の時計を取り外して以降、内装の解体や
    照明・備品の撤去を進めてきた。 この日から建物本体の解体を始めた。

    震災時は津波で1階部分が水没した。 周囲には高い建物がなく、3階や屋上などに
    住民らが800人以上避難して命をつないだ。

    同校に2年まで通った東北学院大1年菊地雄也さん(19)は、母訓子(のりこ)さん(52)と
    作業を見つめた。 「心のよりどころとして校舎を残してほしいという思いがあった。
    悲しさと悔しさが入り交じっている」と揺れる胸中を明かした。

    閖上で語り部の活動を続ける訓子さんは、義理の両親が避難して助かった校舎への
    感謝をにじませた。 「ここに素晴らしい学校があったことをしっかり語り継いでいく」
    と話した。

    市は早ければ本年度中に旧閖上小校舎の解体にも着手する。 同地区には新たに
    小中一貫校を建設する計画で、2018年春の開校を目指す。
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