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    タグ:宮城県

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    東日本大震災から5年を迎えるにあたり、宮城県内の5つの津波訴訟の原告の遺族や
    家族が、企業や組織の防災のあり方について議論する公開討論会を3月5日に仙台
    市内で開く。 企業や学校、保育現場など、異なる施設管理下での津波犠牲者の
    原告たちが一堂に会して議論する会合は初めてとなる。

    討論会を企画しているのは、七十七銀行女川支店で働く従業員を亡くした遺族と行方
    不明者家族でつくる家族会と、その訴訟弁護団。他に、石巻市立大川小学校、私立
    日和幼稚園(石巻市)、山元町立東保育所、常磐山元自動車学校(山元町)の管理下で
    津波の犠牲になった遺族らに呼びかけて、開催が決まった。

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    第1部では、七十七銀行女川支店の家族会がこれまでの5年間の歩みを振り返り、また、
    岩手県内の企業が震災時の対応について報告をする。 第2部では、企業や組織は
    従業員等の関係者の命をどのように守るべきなのかを、各原告の遺族同士が登壇し、
    議論する予定だ。

    討論会の呼びかけ人のひとりである田村弘美さんは、女川支店で勤務中だった長男
    健太さん(当時25歳)を亡くした。 同支店の行員は、発災後に支店長の指示で支店
    ビルの屋上に避難したが、巨大津波に襲われて4人が死亡、支店長を含む8名が行方
    不明となった。

    企業防災のあり方問い続ける七十七銀行の従業員遺族
    田村さんら3遺族・家族が原告となり、銀行側に安全配慮義務違反があったとして計約
    2億3千万円の損害賠償を求めた裁判は、現在最高裁で争われている。

    遺族側は、津波の浸水予測域にありながら実効性のある避難訓練を行っていなかった
    同支店の防災体制や、支店から徒歩で約3分の場所にある町の指定避難場所の高台
    ではなく、より低く津波避難ビルでない支店屋上に避難させた対応などを問題視した。
    一方銀行側は、「ビルを飲み込むほどの巨大津波は予見できなかった」と主張した。

    仙台地裁(斉木教朗裁判長)は2014年2月の判決で支店ビルの適格性を認めたうえ、
    屋上への避難を「経済合理性があった」と認めて、遺族側の訴えを退けた。 仙台高裁
    (中山顕裕裁判長)も、2015年4月の判決で一審を支持。遺族側は翌5月に上告した。

    銀行側の不十分な防災体制を問題としない判決が出されたことに、遺族は危機感を
    募らせている。 田村さんらは討論会で、経済合理性や事業継続性が優先され、防災
    計画が軽視される傾向にある企業防災のあり方について、議論を深めたいとしている。

    遺族からの接触拒む日和幼稚園
    送迎中の園バスが、高台から海辺に降りて津波と火災に巻き込まれ、5人の園児と
    職員1人が犠牲になった石巻市の私立日和幼稚園(休園中)の事故。 園側が安全
    配慮を怠っていたために事故が起きたとして、4人の園児の遺族が2011年8月、計約
    2億6700万円の損害賠償を求めて運営母体と当時の園長を相手に提訴した。

    裁判では、保育士らが防災マニュアルが置いてある場所や内容を知らないなど、
    ずさんな管理体制も明らかになった。裁判は2014年12月に、園側が和解金計6000
    万円を支払うことで、仙台高裁(中西茂裁判長)での和解が成立している。

    和解条項には、「(園側が)一審判決で認められた法的責任を認めるともに、被災園児ら
    と家族に対し、心から謝罪する」などの文言も盛り込まれた。 しかし、遺族によれば、
    和解成立から1年以上が経つ今も園側からの直接的な謝罪はなく、園側は遺族が
    送った手紙を受け取り拒否で返送するなど、接触すら拒み続けている。

    事故で長女愛梨ちゃん(当時6歳)を亡くした佐藤美香さんは、「裁判が終わっても、
    遺族がこうして二重三重に苦しめられ続ける状態はなんとかならないかと思っている」と、
    苦悩を打ち明ける。討論会では、和解の枠組みの課題のほか、事故後の園側の対応の
    問題、保育現場の防災や安全管理の体制についても共有したいという。

    1遺族が上告中の東保育所
    保育管理下での津波被災は、県南でも2件起きている。 そのうちのひとつ、山元町に
    ある町立東保育所では、3人の園児が犠牲になった。

    地震発生直後、園は町役場の指示で、1時間ほど園庭に園児らを待機させた。 津波を
    目撃した保育士の言葉をきっかけに、園長の指示で居合わせた保護者の複数台の車に
    乗り込み逃げたが、最後尾の車が津波にのまれた。

    2人の園児の遺族が2011年11月、「町は防災無線やラジオで適切な情報収集をせず、
    園庭に待機し続けるという誤った指示をした」として、町に計8800万円の損害賠償を
    求めて提訴。 仙台地裁(山田真紀裁判長)は2014年3月の判決で、情報収集の適切性
    については「疑問が残る」としつつも、保育所まで到達する津波は「予見できなかった」と、
    請求を棄却した。 仙台高裁(中西茂裁判長)では、町が和解金300万円を支払うことで
    1遺族が和解に応じたものの、一審判決を支持した判決を不服として、1遺族が上告した。

    公開討論会には、裁判を続ける遺族が参加する。

    役員の責任認定求めて控訴した教習所遺族
    同じく山元町の常磐山元自動車学校では、亡くなった教習生25人の全遺族とアルバイト
    従業員1人の遺族が、適切な避難指示が行われなかったとしてそれぞれ学校側を相手
    取り裁判を続けている。

    仙台地裁(高宮健二裁判長)は2014年3月、遺族側の訴えを認めて請求のほぼ満額と
    なる計約19億1千万円の損害賠償を命じる判決を出した。 しかし、被告の自動車学校側
    だけでなく、教習生側の一部の遺族と従業員側の遺族は、役員個人の責任が認められ
    なかったことを不服として控訴。 仙台高裁(中西茂裁判長)での審理はほぼ終了し、
    現在和解の可能性を検討する段階となっている。

    討論会には、従業員側の原告が参加し、企業の従業員も含めた安全管理のあり方を
    訴える予定だ。

    大川小裁判は4月に証人尋問
    約50分間の校庭待機後に津波に襲われて74人の児童と10人の教職員が亡くなった、
    石巻市の市立大川小学校。 児童19家族が、学校の安全配慮義務違反を訴え市を相手
    取った裁判は、仙台地裁(高宮健二裁判長)で佳境を迎えている。 校庭の目撃者や
    関係者の証人尋問が4月に決まったところだ。

    遺族側が、事故後に学校や教育委員会側から適切な対応が受けられなかったことを
    問題としているのもこの裁判の特徴だ。 文部科学省も大川小の事故をきっかけに、
    学校事故後の調査や遺族への対応に問題が多いことを認め、調査と対応の指針作りに
    乗り出している。

    組織防災の現場に生の声をどう伝えていくか
    田村弘美さんは、「東日本大震災では組織管理下で大切な命が失われた 。裁判をして
    何がわかったのか。 次にどうすれば防げるのか。 教訓として引き継ぐには組織は
    どうあるべきか。家族として思うことをそれぞれに話す場にしたい」と話す。

    津波犠牲者の遺族が起こした裁判で、原告たちに共通するのは、「適切な対応をすれば
    助かる命だった」という思いだ。 裁判やこれまでの活動を通じて得られた知識や情報を、
    企業や学校などの安全管理の現場に当事者の生の声としてどう伝えるのか。 遺族
    たちが、自ら探り出す活動が始まる。

    フォーラム「東日本大震災から学ぶべきもの≪大切な命を守る企業防災・組織防災を
    一緒に考えましょう

    日時:3月5日(土)13時から17時まで 

    場所:仙台弁護士会館4階大会議室 

    申し込み不要。無料。 

    詳細は、同家族会のFacebookページにてに掲載される。 

    主催:七十七銀行女川支店被災者家族会 

    問い合わせ:電話 022-262-1901(一番町法律事務所 北見弁護士)

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    宮城県気仙沼市の気仙沼向洋高(生徒344人)は、東日本大震災の津波で校舎が
    大きな被害を受けた。 現在、産業経済科は気仙沼西高(気仙沼市)、情報海洋科は
    本吉響高(同)、機械技術科は米谷工高(宮城県登米市)に分かれて授業を受ける。
    校舎分散によって通学に長時間かかったり、部活動のために学校を移動したり、生徒は
    不自由な学校生活を余儀なくされている。

    学校で何が 生徒3カ所に分散(宮城・気仙沼向洋高)
    出典:河北新報

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    まだ人影もまばらな午前6時過ぎ。 気仙沼市唐桑町の福祉施設前の停留場で、梶原
    初城君(15)は眠そうな表情でスクールバスに乗り込んだ。

    気仙沼向洋高の機械技術科1年。 毎朝午前5時に起床し、自宅から50キロ以上離れた
    米谷工高に、スクールバスで通っている。

    父母と祖母、妹の5人暮らし。 『早く手に職を付けたい』と、実業高の向洋高を志望した。
    将来は自動車関係の工場で働くのが夢だ。

    しかし、希望に包まれるはずの高校生活は、入学式前につまずいた。 学校は震災で
    津波をかぶり、校舎は全壊。 授業開始は2011年5月上旬まで遅れた。

    さらに、向洋高が科ごとに分散したため、通学先は同校から20キロ以上離れた米谷
    工高に代わった。 向洋高であれば1時間程度だった通学時間は、倍の2時間になった。

    午前8時、スクールバスは米谷工高に到着した。 梶原君は『バスに2時間も揺られると
    正直疲れる。 少しずつ慣れてきたとはいえ、やはり学校は近くにある方がいい』と
    つぶやいた。

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    学校分散は、部活動にも影を落としている。
    午後5時の気仙沼西高グラウンド。 向洋高ラグビー部の生徒ら約30人がパスの練習を
    始めた。 米谷工高や本吉響高で授業を受けた後、部活動のために、バスで駆け付ける
    部員を待ってスタートする。 震災前より1時間半も遅い始動だ。

    昨年の県大会で4強に勝ち進んだ強豪だが、ことしの練習量は少なめ。 西高の生徒も
    練習しているため、グラウンドを広々と使うわけにもいかない。

    週5日実施していた平日の全体練習は、週3日に減らした。 練習後に車で迎えに来る
    保護者の負担を減らすための措置だ。 残る2日は、各自が筋力トレーニングを行う
    ように指導している。

    顧問の舩引裕介教諭は言う。 『保護者に毎日車で迎えに来てもらうわけにはいかない。
    こちらは間借りしている立場なので、限られた時間とスペースで効果的な練習を心掛けて
    いる』

    学校は3つに分かれても、生徒たちの思いは1つだ。 生徒会執行部が6月、今年の
    体育祭について、各校で参加するか、向洋だけで実施するかをアンケートしたところ、
    後者が89%に達した。

    生徒からは『一つの高校なので、向洋だけで思い出をつくりたい』『今はバラバラに
    なっているけれど、みんなそろってやりたい』などの声が相次いで寄せられた。

    武田元彦教頭は『各校に分かれても、向洋を思う生徒の思いはひしひしと感じる。 文化祭を
    含め、一つにまとまるイベントを何とかして成功させたい』と語る。

    11月、向洋高は気仙沼高(気仙沼市)の第2グラウンドに2階建ての仮設校舎を建設し、
    再出発する。 分散した三つの科は1カ所に集まり、再び元の形に戻る。

    学校分散に区切りがつくことが、梶原君の当面の夢だ。

    『産業経済科にも情報海洋科にも友だちはたくさんいる。 いつでも自由に会えるように
    なるよう、早く校舎が完成して欲しい』

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    東日本大震災の被災地では、校庭に仮設住宅が立ち並ぶ学校がある。
    震災の発生から4カ月が過ぎた今も、体育館で被災者が避難生活を送る
    学校もある。 子どもたちが思う存分、体を動かせない状況だ。

    津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町の小中学校では、限られた
    スペースと時間の中で、やりくりを強いられている。

    467bb855.jpg

    学校で何が 半分の校庭(宮城・南三陸町)
    出展:河北新報 2011年7月13日

    市街地が津波の被害を受ける中、高台にあって難を逃れた歌津中(生徒136人)。

    午後4時すぎ、校庭で部活動が始まった。 校庭の約半分は37戸の
    仮設住宅で占められている。 残った縦60メートル、横80メートルほどで
    野球部とサッカー部の計30人ほどが練習する。 キャッチボールやノックを
    する野球部員のすぐ隣で、サッカー部員がドリブルを繰り返す。 「ノックも
    加減しなければならない」。 野球部監督の長野孝志教諭(25)は漏らす。

    仮設住宅と校庭の境目には防護ネットが張られたが、打撃練習はミート中心
    になる。 3年の後藤寛飛君(14)は「思い切ってスイングしたい」と言う。
    歌津中は校庭の半分だけでなく、体育館も使用できない状態だ。 避難所として
    使われ、24人が身を寄せる。

    屋内競技のバレーボール部や剣道部などは、隣接する伊里前小(児童139人)の
    体育館や多目的ホールを借りて練習する。 「コートがあるので、試合形式の
    練習ができる」。 バスケットボール部監督の小野寺孝夫教諭(50)は
    感謝する。

    校舎と校庭の間の舗装路も貴重な練習スペースだ。 小学校のリングが
    ミニバスケット仕様で低いため、ボランティア有志が資金を募って提供して
    くれたリング2基が設置されている。

    ランニングの場所でもあるが、練習が時折、中断される。 「はい、後ろから
    車が来たよ」。 仮設住宅や避難所の住民の車が舗装路を通行する。 伊里前小
    では、被災で校舎が使えなくなった名足小の児童74人が、間借りして授業を
    受けている。校庭は、やはり仮設住宅が建ち、従来の約半分の広さになった。

    時間も制約されている。 「鉄棒とか、みんなともっと一緒に遊んでいたいな」。
    午後3時すぎ、帰りの会を終えた伊里前小4年の及川萌さん(10)はバスに
    乗り込むと、物足りなさげに、見送りの先生に手を振った。

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    本来、夏場の最終下校時刻は午後4時半。 今は安全面を考慮し、スクール
    バスで午後3時半には一斉下校する。 伊里前小、名足小とも、児童が校庭で
    遊ぶ時間は少なくなった。

    伊里前小の兵藤文隆校長(57)は「帰宅してもがれきで広場は使えない。
    子どもの運動量は間違いなく減っている」と懸念する。

    歌津中の生徒も状況は同じだ。 「はい、じゃあ今からシュート練習」。
    バスケットボール部の部員が舗装路で走り込みを終え、ボールを持ち出して
    間もなくの午後6時前。 下校のスクールバスが滑り込んで来た。
    「えっ早いよ」「シュート練習、もうちょっとしたい」

    部活は終了。 生徒たちはジャージー姿のまま、慌ただしくバスに乗り込んだ。
    仮設住宅の建設が進めば、体育館は避難所の役割を終え、使用が可能になる。
    一方で仮設住宅の入居期間は原則2年。 子どもたちの不自由な学校生活は続く。

    伊里前小の兵藤校長は「体を動かすことで、つらい現実をひとときでも忘れ
    られる。 ストレスも発散できる。 工夫をして運動の機会を増やしていきたい」
    と語る。

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    不安、恐怖、怒り、喪失感―。 東日本大震災は、被災した多くの子どもの心に傷を
    残した。 日常を取り戻しつつある学校現場で、子どもの心のケアは重要性を増して
    いる。 東松島市はスクールカウンセラーの巡回など、多方面からのサポートに力を
    入れている。

    学校で何が スクールカウンセリング(東松島)不安・恐怖、耐える幼心
    出典:河北新報

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    東松島市の川下公民館で避難生活を送る野蒜小5年の京野瑞樹君(10)は活発な
    野球少年。 お気に入りの野球帽をかぶり、練習に打ち込む。

    3月11日は、学校からの帰り道で巨大地震に襲われ、恐怖で動けなくなった。
    通行人に助けられ、父親の文彦さん(37)らと一緒に野蒜小の屋上に避難し助かった。
    津波は学校の校舎を破壊し、仲良しのクラスメート2人の命を奪った。

    『友達が亡くなってさみしい。 地震が来ると、あの時みたいに胸がどきどきする』と
    瑞樹君。 文彦さんは『普段は口に出さなくても、心の中には(恐怖が)あるかも
    知れない』と思いやる。

    大曲地区センターに避難する主婦千葉理恵さん(30)は、大曲小3年の次女(8)が
    余震の時に示す反応が気掛かり。 『顔色が変わり、パニックのような感じ。 いざと
    いう時、冷静に逃げられるかどうか心配』と話す。

    1,000人を超える犠牲者を出した同市で、小中学校の児童、生徒の死者、行方
    不明者は計32人、両親の一方か両方を亡くした子どもは36人を数える(5月6日現在)。
    避難所生活が長引く中、学区外からのスクールバス通学者は約500人に上る。

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    地震で受けたショックや慢性化する震災ストレスとどう向き合うか。 東松島市は、
    宮城県教委を通じ、岐阜、徳島両県のスクールカウンセラーの派遣を受けている。

    岐阜県の心理士神谷文子さん(36)は、鳴瀬一中に間借りする鳴瀬二中に派遣
    された。 隣接する小野小に入る浜市小も巡回する。 両校とも津波で校舎が使え
    なくなった。

    5月中旬、初めて学校を訪れた神谷さんは子どもの異変に気付いた。 『おなかが痛い』
    『頭痛がする』という訴えを耳にする中で、首や肩を触ってみると、パンパンに張って
    いた。 ささいな事でいら立つ様子も気になった。 リラックスするための呼吸や
    体操の時間をつくった。

    『環境が変わり、日ごろ感じないストレスで神経が過敏になっている。 心身の緊張を
    緩める時間の確保が必要だ』と神谷さんは強調する。

    子どもの心のケアは、震災前から子どもと親しい人々が、日常生活の中で話に耳を
    傾けたり、リラックスさせたりするのが最も効果的とされる。

    徳島県から矢本一中に派遣されている心理士の森世歩さん(29)は『子どもは事情を
    抱えながら精いっぱい頑張っている状態。 周囲の大人たちの安定が欠かせない』と
    保護者と教員の役割の重要性を指摘する。

    市は4月下旬、東大医学部の専門チームと連携し、小中学校全ての児童、生徒
    約3,600人に対し、震災後の心理状況について調査を実施した。 心的外傷後
    ストレス障害(PTSD)が疑われる児童・生徒らの心のケアを行う。

    心理士でつくるケア・宮城と公益財団法人『プラン・ジャパン』(東京都)が6月28日、
    大曲小で教員を対象に心のケア研修会を開いた。 『子どもに希望を持たせたいが、
    簡単に『乗り越えよう』などと言っていいのだろうか』。 教師らにとってスキルを学ぶと
    ともに、互いに抱える悩みを吐露する場になった。

    講師を務めた東北大教育ネットワークセンター長の本郷一夫教授(教育学)は
    『災害直後の心身のストレスは、誰にでも起こる正常な反応。 子どもの拙い言葉を
    受け止め安心感を与えてほしい』と強調。 『長い時間がかかる。先生が心と体の
    健康を保つことも大切だ』と助言した。




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    震災による津波で大きな被害を受けた宮城県女川町では町外に身を寄せ、
    遠距離通学する子どもが数多くいる。 余震の頻発や地盤沈下による道路の
    冠水など、当初は登下校に多くの困難を抱えた。 町教委は町内外にスクール
    バスを運行させ、教員や保護者も子どもたちをサポートした。

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    学校で何が 15Km車とバス乗り継ぐ(宮城・女川町)
    出典:河北新報 2011年7月5日

    平日の午前7時前、宮城県石巻市中心部のアパートを出た庄子宙(そら)君
    (10 )が父和行さん(41)と車に乗り込んだ。

    宙君は女川一小(宮城県女川町)の5年生。 アパートから約15キロ離れた
    学校に通う。 町との境に近い市東部にあるスクールバスの停留所まで、
    和行さんが車で送る。 『お父さんや友達と一緒に学校に行けるから楽しい』。
    登校に約1時間を費やす毎日にも、宙君は屈託がない。

    庄子さん一家は和行さん、妻由美恵さん(37)と宙君、長女礼ちゃん(4)の
    4人暮らし。 和行さんと由美恵さんは石巻市内の会社に勤めている。 2011年
    3月11日まで暮らしていた女川町内の自宅は津波で全壊し、震災後は町内の
    避難所や仙台市内の親類宅などを転々とした。

    『女川には賃貸住宅がないし、小さい子どもがいると避難所では周囲に迷惑を
    掛ける』(和行さん)と、4月初旬に石巻市のアパートに移った。 『女川の
    学校に行きたい』という宙君の思いを尊重し、石巻から女川に通わせること
    にした。

    スクールバスは町内の5小中学校に通う児童、生徒が利用する。運行は4月21日に
    始まった。

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    当初、由美恵さんは心配だった。 『いつ大きな余震が起きるか分からない。
    通学途中に津波が来たり、周りの建物が倒れたりしたらどうしよう』。 万が一に
    備え、宙君に携帯電話を持たせた。

    女川一小は避難所となったため、授業は約2キロ東に離れた女川一中で行っている。
    同中は津波被害を受けた女川港近くの高台にあり、通学には津波で浸水した区域を
    通らなければならない。

    女川一小では児童約2000人の大半がバス通学することになった。 『学校に
    とって、登下校時の児童の安全確保が重要な課題になった』と星圭校長は
    振り返る。

    学校側は町教委やバス会社と打ち合わせを重ねた。 バスの運行ルートは高台の
    道を優先し、地震発生時にはバスを停車させ、運転手が児童を避難誘導するなどの
    対応策を決めた。 『当初はがれきで埋まった道路があり、運行ルートを選ぶのは
    大変だった』と4年生を担任する中沢健一さん(35)は言う。

    安全対策の一環として、学校は5月末まで、15人の教員を交代で登下校時のバスに
    同乗させた。 発着状況は随時、電子メールで保護者に伝えた。 『子どもの
    ことを親身になって考えてくれた』と由美恵さんは感謝する。

    町教委によると、小中学校の全児童・生徒の8割に当たる476人がスクール
    バスで通学(2011年6月20日現在)。 うち町外居住者は計40人に上る。 バスの
    運行が軌道に乗った後も、庄子さん夫婦には別の心配事があった。 石巻市渡波
    地区など、アパートからスクールバスの停留所までの道のりの一部は震災で地盤
    沈下し、冠水しやすい。 登校時間と満潮が重なり、停留所に向かう道路が冠水
    してバス停にたどり着けないこともあった。

    仮堤防の設置や幹線道路のかさ上げなど対策が施され、最近は送迎途中に道路が
    冠水することもほとんどなくなった。 『今は安心して学校に通わせることが
    出来ている。 ただ、女川の復興の兆しが見えないので、先の見通しは立て
    られない』。 庄子さん夫婦は口をそろえた。

    【お勧めの一冊】


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    東日本大震災は、教育の現場にも大きな影響を与えている。 校舎の損壊、
    間借りの教室、不自由な通学、仮設住宅が並ぶ校庭。 学校は幾つもの困難を
    抱えながら、教育の場としての機能を懸命に維持し、被災した子どもたちの
    心と向き合う。

    『ドキュメント 大震災』のシリーズ第3弾では、被災地の学校で何が起きて
    いるのかを追う。

    学校で何が 高校生避難所(気仙沼高)
    出典:河北新報 2011年7月4日

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    宮城県気仙沼市の気仙沼高(生徒810人)では授業を再開した5月から、東日本
    大震災で自宅通学が困難になった生徒37人が柔道場で共同生活を送る。
    『通学の足』だったJR気仙沼線が不通となっている影響が大きい。 過酷な体験は
    まだ消化しきれないものの、親元を離れて学業や部活動に励みながら、ともに
    未来を切り開こうとしている。

    今も体育館などに100人以上の住民が身を寄せる気仙沼高校。 自宅通学が難しい
    生徒たちは校舎隣の柔道場で暮らす。 2011年6月10日午後7時、サッカー部の
    練習を終えた2年二階堂広也君(17)が戻った。 宮城県南三陸町歌津の自宅は
    津波で全壊。 家族とともに町内の親類宅に身を寄せたが、5月9日の授業再開に
    合わせて学校に移った。

    『通学の足』だったJR気仙沼線は津波被害で不通となり、代行バスでは片道2時間
    近くかかってしまうからだ。『副キャプテンだし、部活に打ち込みたい』との
    思いも強かった。 気仙沼線の利用者は全校生徒の約4分の1。 復旧のめどは
    立たず、代行バスの本数も少ない。 今春の入学予定者13人を含め既に22人が
    転校した。

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    生徒の避難先は広範囲で、スクールバスではカバーしきれない。 寄宿舎を建て
    たくても、被災地では仮設住宅が優先だ。 気仙沼高が生徒用の『避難所』を
    用意した背景には、そんな事情がある。

    生徒たちは午前6時半に起床、全員で掃除をした後、炊き出しの朝食を取って
    登校する。 昼食は売店のカップめんなどで間に合わせる生徒が多い。 柔道場の
    スペースは男女別にパーテーションなどで仕切られ、夜は身の回りの片付けや
    勉強をして過ごし、畳の上に布団を並べて眠る。

    被災した家族と離れての暮らしに、抱える思いはさまざまだ。 南三陸町志津川の
    3年山内秀斗君(17)は自宅と親の職場が津波で流された。 被災時に携帯電話が
    通じなかった経験から、大学で通信技術を学びたいと考えているが、家族の
    負担を思うと『自分が早く親を養えるようにならないと…』と悩む。

    大学に進学し、国家公務員になろうと考えていた南三陸町歌津の3年三浦竜馬君
    (18)は志望を変え、高校卒業と同時に地元で公務員として働く決心をした。
    震災後、遺体捜索やがれき撤去の作業を通じて地域の人とふれあった経験が
    大きく影響している。

    『1000年後の津波に備えたまちづくりが、自分の世代でできるなんてすごいこと』
    6月28日。 学校の試験の合間の日曜日、生徒数人が柔道場で教科書や参考書を
    めくっていた。 三浦君が目指す地方公務員の試験は9月上旬に始まる。
    『あと70日しかない。 学校の試験と内容が全然違うんですよ』と仲間を
    笑わせた。 生徒たちの『避難生活』について、千田健一教頭(54)は
    『心の中にはつらい思いもあるだろうが、皆で支え合って明るさと前向きさを
    持ち続けている』と語り、こう付け加える。

    『ただ、(37人の中には)進路の選択を迫られている3年生も多い。 人生の
    中でも大切な時期だけに、早く普通の生活に戻してあげたい』

    柔道場で暮らす生徒のうち5人は『被災地高校生からの復興』というブログを
    立ち上げ、心情をつづっている。

    『棺(ひつぎ)の中にドライアイスを入れる仕事をしました。 (中略)大人
    として社会に受け入れられていることを自覚しなければならないと思いました』
    『避難所生活を始めて、どれほど親のおかげで自分が好きなように快適に家で
    過ごしてたかを痛感しました。(中略)避難所生活する高校生は協力しながら
    本当に仲良く過ごしていて感謝でいっぱいです』

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    東日本大震災の津波による七十七銀行女川支店(宮城県女川町)従業員の
    犠牲をめぐる訴訟で、最高裁で敗訴が確定した原告の遺族は2016年2月20日、
    仙台市内で記者会見した。 『企業防災の指針となる判断が示されずに幕を
    閉じた』と強調。 遺族は安全な社会の実現に懸ける思いを一層強めた。

    長男健太さん=当時(25)=を亡くした大崎市の田村孝行さん(55)は決意を
    語った。 『働く者の安全が担保されていない。 原因を究明し、企業防災の
    在り方を追求していく』

    田村さんと妻弘美さん(53)は訴訟と並行して女川町で語り部をし、健太さんらの
    身に降り掛かったことを伝えてきた。

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    早期退職して企業防災の向上を訴える活動に専念するべきかどうか、心が揺らぐ。
    震災から間もなく5年。 田村さんは寝ても覚めても今回の悲劇が頭から離れず、
    心が安らぐ日はなかった。 『銀行は法的責任を免れたが、息子ら12人が犠牲に
    なった責任がある。 真剣に向き合い改善策を示してほしい』と切望する。



    弘美さんは18日、1985年の日航ジャンボ機墜落事故遺族の美谷島邦子さん(69)に
    上告が退けられたことを電話で伝えた。 『声を上げて活動してきたことは大切。
    頑張って続けてほしい』と激励され、勇気が湧いた。

    遺族と企業が向き合い命を守る。 弘美さんが美谷島さんから学び目指す姿だ。
    『家族と銀行が歩み寄り、人命最優先の体制をつくることが息子にとって一番の
    慰めになる』と願う。

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    東日本大震災の津波で従業員が犠牲になった七十七銀行女川支店をめぐる訴訟で、
    2月20日に記者会見した他の遺族も、企業の防災意識の徹底を求めた。

    妻祐子さん=当時(47)=の行方が分からない女川町の高松康雄さん(59)は
    『いい加減な避難行動を裁判所が良しとしたことで、同じ事が繰り返されないか
    心配だ。 残念としか言いようがない』と落胆した。

    姉美智子さん=当時(54)=を失った仙台市太白区の丹野礼子さん(57)は
    『12人の犠牲を無駄にせず、職場の防災意識徹底を社会で広く図って欲しい。
    それが故人の供養になり、今後の命を救うことにつながる』と望んだ。

    弁護団の佐藤靖祥弁護士は『津波訴訟は各地であり、最高裁として安全配慮義務の
    統一的解釈を示して欲しかった』と悔やんだ。

    <2011年>
    3月11日 東日本大震災発生。 女川支店屋上に避難した従業員13人のうち
    12人が死亡・行方不明になる

    <2012年>
    9月11日 従業員3人の遺族が銀行を提訴。 銀行が2009年に防災マニュアルを
    改定して屋上を避難先に追加したことや、震災直後に避難先として高台ではなく
    屋上を選んだことについて『安全配慮義務違反に当たる』と主張

    <2013年>
    1月15日 銀行側が弁論で『支店屋上の高さを超える津波襲来は予見できなかった』
    と反論

    12月17日 仙台地裁で訴訟が結審

    <2014年>
    2月25日 仙台地裁が『高さ約10メートルの屋上に緊急避難することには合理性が
    あった』として訴えを棄却。 遺族側は即日控訴

    <2015年>
    4月22日 仙台高裁が1審判決を支持し、控訴を棄却。 遺族側は上告

    <2016年>
    2月17日 最高裁第2小法廷が上告を退け、遺族側の敗訴が確定

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    2011年3月11日の巨大地震発生時、宮城県石巻市の離島・金華山の港では、
    最終便となる定期船『ホエール』(19トン、72人乗り)が鮎川港への出発を
    待っていた。 突然の大きな揺れと津波の恐怖。 乗客を守るため、乗員は
    瞬時の判断を迫られた。

    逃げる その時 金華山定期船(石巻)
    出典:河北新報 2011年6月30日

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    大きな揺れが港を襲った瞬間、待合所にいた乗客の男性2人が青ざめた表情で
    船に飛び乗った。 午後3時の出発を待っていた『ホエール』。 待合所には、
    他にも黄金山神社の参拝客とみられる十数人がいたが、一様にどうしていいか、
    分からない様子だった。

    ホエールは地元の金華山観光が運航する小型旅客船。 この日は非番の船長に
    代わり、機関長の鈴木孝さん(63)が、かじを取っていた。 揺れから約5分後に
    突然、潮が上がり始めた。

    『まずい』。 鈴木さんは船をバックさせ、いったん岸壁を離れた。 無線から
    金華山観光社長遠藤得也さん(70)の声が響いた。 『客を乗せて沖に避難
    してくれ』 再び接岸して残りの客を乗せようか。 鈴木さんは迷ったが、
    岸壁は既に水没しかけている。 『だめだ。間に合わない』
    『危ないから神社に逃げて』。 鈴木さんは陸にいる人たちに船のマイクで
    何度も叫ぶと、全速力で沖を目指した。

    左手の金華山沖から、ものすごい高さの黒い波が迫った。『幅500メートルぐらいは
    あったか』。 鈴木さんは必死で逃げた。 鮎川港で地震に遭った遠藤社長は
    同じころ、海上タクシーとして使っている『くろしお』を>守るため、沖に
    向かって出港。 操舵室から全速力で逃げるホエールが見えた。

    金華山にぶつかった波がホエールを追いかけているかのようだった。

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    遠藤社長が振り返る。 『お客さんのことと自分の安全確保のことで、頭は
    パニックだった』 ホエールに乗り込んだ2人は、宮城県大和町の無職甘竹
    三郎さん(67)と仙台市太白区の無職三浦正靖さん(67)。 石巻高OBで
    つくる山歩きサークルの例会で金華山を訪れていた。

    甘竹さんは『白波を立てて津波が迫ってきた。 船にぶつかったら、終わり
    だと思った』と言う。 サークル仲間で仙台市青葉区の山岳写真家東野良さん
    (67)は、待合所から避難する途中、沖に逃げるホエールを手持ちのカメラで
    撮影。 『とにかく無事を祈りながらシャッターを押した』

    2隻は牡鹿半島の先端、黒崎灯台から約5キロ南まで避難。 金華山と牡鹿半島の
    海峡は、引き波で海底が露出するほどだったが、その海域を脱したホエールは
    無事だった。

    2隻は金華山と網地島の中間点で一夜を明かした。 余震は収まらない。
    サーチライトで照らし出された海面には、無数のがれきが漂っていた。
    ホエールには鈴木さんと客2人の他、乗務員2人が乗船。 恐怖で眠れない
    甘竹さんに、乗務員は励ましの言葉をかけた。 『水も食料もある。大丈夫。
    無事に帰れる』

    翌12日、遠藤社長は沖に避難していた数隻の小型船の助けを借り、ホエールの
    乗客と、黄金山神社に避難していた計約30人を鮎川港に搬送した。

    鈴木さんが鮎川港に上陸できたのは、地震発生から3日後の3月14日。
    『あの時、全員の乗船を待っていたら、きっと助からなかった』

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    大震災では、大勢の外国人も被災した。 警察庁によると、2011年6月
    27日現在、死亡した外国人は29人。 うち7割近い20人が宮城県内で亡くなった。
    震災発生直後、外国人が取った行動を調べると、運に加え、『日本語』
    『近所付き合い』『防災意識』の3点が生死を分けた要因として浮かび上がった。

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    逃げる その時 外国人(宮城)出典:河北新報 2011年6月28日

    『高台に避難してください』 津波から多くの日本人の命を救った防災無線や
    ラジオの呼び掛けが、宮城県南三陸町のフィリピン人にはほとんど理解されて
    いなかった。

    35年前に来日した英語講師佐々木アメリアさん(57)は『心配していた通りに
    なった』と表情を曇らせる。 震災後、フィリピン人妻ら十数人に聞いたところ、
    『高台』『避難』の意味が分からなかった人が多かった。 大半は日本人の夫と
    逃げたか、隣近所の日本人に促されて逃げ、一命を取り留めたが、女性(29)が
    津波で亡くなった。

    アメリアさんによると、女性は日常会話は出来たものの、防災無線の日本語は
    聞き取れなかった可能性が高い。 石巻市のスナック勤めで、南三陸町の
    フィリピン人社会や、隣近所との付き合いはほとんどなかった。 『日本人の夫
    以外に、避難するよう教えてくれる隣人はいなかったはず』とアメリアさんは
    見る。

    流ちょうな日本語を話す千葉ジョイさん(44)は『私も『高台』『避難』の
    意味は分からなかった。 『高い所に逃げて』と繰り返し言われれば、助かった
    かもしれない』と同胞の死を悼む。

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    志津川中で避難生活を送る来日20年の小山ジュリエットさん(44)を救ったのは、
    防災無線を聞き取る日本語能力と夫からの電話だった。 地震と停電で通話
    出来ないと思っていた携帯電話が午後3時10分過ぎ、突然鳴った。

    『大津波が来る。 出来るだけ高い所に逃げろ』。 夫の宣広さん(42)だった。
    宣広さんは近海マグロはえ縄船の漁師。 太平洋の沖合数十キロで津波をいち
    早くキャッチし、衛星電話で危機を知らせた。

    地震発生時、海沿いにある水産会社の加工場にいたジュリエットさんは防災
    無線に従い、既に指定避難所の志津川小へ向かっていた。 途中、志津川
    保健センターにほど近い夫の実家に立ち寄った。

    直後、宣広さんから電話があった。 忠告に従い、義父母と一緒に高台に
    逃げた。 振り返ると『真っ黒な濁流が、数分前までいた小高い場所を
    のみ込んでいた』という。

    ジュリエットさんの友人の斎藤ジュリエットさん(44)は同じころ、日本人の
    夫と逃げた高台で、泣きながら上空を見上げていた。 『この世が終わる。
    イエス・キリストが降臨する』と。

    あの時、中国・大連出身の広岡燕燕さん(37)は宮城県山元町の自宅にいた。
    海岸まで約1.2キロ。 『地震が起きたら津波が来る。 すぐ役場へ逃げて』。
    日本人の夫の口癖が頭に浮かんだ。

    サンダル履きのまま、3キロ以上離れた町役場を目指し、長女歩実さん(7)と
    自宅を飛び出した。 道路はひび割れ、水が噴き出す。 空は暗く、海岸から
    真っ黒い土煙が追い掛けて来る。

    津波の恐怖と闘いながら、十数分走り続けた。 息も絶え絶えになり、道路に
    飛び出して白いワゴン車を止め、叫んだ。 『娘だけでも』。 ワタナベと
    名乗る男性が2人を乗せてくれた。

    津波は町役場の近くまで迫り、自宅1階は水に漬かっていた。 『夫の口癖と、
    親切な日本人のおかげ』。 山元町の仮設住宅で、燕燕さんは歩実さんの
    髪を優しくなでた。

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    東日本大震災が発生した2011年3月11日、最大震度7の激震、大津波警報の
    発令を受けて、人々は避難のため走り出した。 予想を超える巨大津波は、
    必死で逃げた人たちをも飲み込み、多くの犠牲者を生んだ。

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    宮城県気仙沼市魚市場から西に約400メートルの幸町地区では、東日本
    大震災の後、積み重なったがれきの下から100台以上の車が見つかった。
    避難しようとした車が内陸部につながる市道に殺到し、大渋滞が発生。
    身動き出来ない車の列に津波が襲い、多くの人が車内で犠牲になった。

    目の前を何台もの車が流れて行く。 ドンドン、ドンドン。 助けを求め、
    車内から懸命に窓をたたく音が耳に届いた。 『今行くぞ』と叫んではみた
    ものの、どうすることも出来なかった。

    2011年3月11日、気仙沼市幸町2丁目の無職畠山覚四郎さん(79)は夢中で
    よじ登った隣家の物置の屋根に立ちすくんでいた。 自宅で大地震に
    見舞われた畠山さんは、すぐに妻かつ子さん(77)と隣に住む足の不自由な
    伯母を車に乗せて逃げた。 防災無線は大津波警報を伝えていた。

    内陸部につながる気仙沼大橋に向かう市道は、渋滞でほとんど前に進めない。
    目の前の大川から突然水があふれてきた。 『まずい』『徒歩で逃げるしか
    ないか』 自宅に引き返して車を止めた時、今度は海からの津波が押し寄せ、
    車を降りたかつ子さんと伯母が流された。 車内にいた覚四郎さんは偶然、
    車ごと隣家の物置に押し付けられたことで助かった。

    かつ子さんと伯母は数日後、遺体で見つかった。 自宅近くには、高台の
    笹が陣地区がある。 覚四郎さんは『坂が急で歩くのは大変だと思って車を
    使ったが、裏目に出た。 2人を死なせたのがつらい』とうなだれる。
    離島の気仙沼大島で旅館を営む堺健さん(60)も、市魚市場近くの知人宅で
    地震に遭い、軽乗用車で気仙沼大橋へ向かった。

    幸町でやはり大渋滞に巻き込まれた。 バックミラーを見る。 がれきが壁の
    ように折り重なり、3メートル近い高さの塊になって迫る。 塊には後続の車も
    交じっていた。

    とっさに右の脇道に入った。 幸運にも車は大破した建物などのがれきの上に
    乗って、浮いた。 窓から抜け出し、民家の屋根に飛び移った。

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    堺さんは『なぜ助かったか分からない。 車で移動しようとしたのは間違い
    だった』と反省する。 大渋滞が発生した市道は、気仙沼港と大川の間を
    東西に走る。 気仙沼大橋を渡れば、最短距離で内陸部に向かうことが出来る。
    だが、津波は、この道を『挟み撃ち』にした。

    気仙沼署によると、震災後、市道周辺には何層にもがれきが重なり、下層
    からは建物に押し込まれた車100台以上が見つかった。 その多くに、避難
    途中で犠牲になったとみられる遺体があったという。

    佐藤宏樹署長(49)は『渋滞時、署員が車を捨てて逃げるよう呼び掛けたが、
    誰も出てこなかった。『ここまでは波も来ないだろう』『車を置いていけない』
    という思いが悲劇を拡大したのではないか』と指摘する。

    震災前に市が定期的に行って来た防災講座では、市中心部の住民には徒歩で
    逃げるよう呼び掛けて来た。 東北大災害制御研究センターの今村文彦教授
    (津波工学)は『本当に車での避難が必要な高齢者、乳幼児らがいち早く
    安全な場所に避難出来るよう、徒歩で逃げられる人は車の使用を控えるべきだ』
    と話す。

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    志津川湾から約300メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の総合結婚式場
    『高野会館』。 震災時、利用客や従業員ら約330人は会館に留まった。
    『帰したら、津波で危険だ』。 避難誘導に当たった従業員らのとっさの判断が、
    全員の命を救った。

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    高野会館の屋上まで水が押し寄せ、建物最上部に移動する避難者ら
    2011年3月11日午後3時40分ごろ(従業員提供)


    逃げる その時 帰さず(宮城・南三陸町、高野会館)
    出典:河北新報 2011年6月23日

    会館を出ようと、ロビーに殺到した人だかりが歩みを止めた。 階段の前で、
    従業員らが大きく手を広げ、仁王立ちになって行く手を遮っていた。
    『生きたかったら、ここに残れ』。 男性の怒鳴り声が響いた。

    『頑丈なこの会館が崩壊するなら町は全滅する』。 同会館営業部長の佐藤由成さん
    (64)は、1988年の開館当初から勤務。 設計段階から知り尽くした建物の強度に
    自信を持っていた。

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    330人を救った高野会館の屋上。 中央奥に見えるのが公立志津川病院
    2011年6月19日 宮城県南三陸町志津川


    『お年寄りの足では途中で津波に遭遇してしまう』と判断したのは町社会福祉
    協議会総務課長の猪又隆弘さん(52)。 経験と利用客の状況を踏まえ、4階
    建ての会館に留めるのが最善と考えた。 地震発生時、3階の宴会場は、老人
    クラブによる『高齢者芸能発表会』の閉会式の最中。 強烈な横揺れに大勢の
    客はパニック状態になった。

    1階にいたマネジャーの高野志つ子さん(67)が階段を駆け上がると、従業員
    らが来館者を上階に誘導するのが見えた。 最高齢90代後半、平均80歳前後。
    来館者の避難は困難を極めた。 『早ぐ上がって、早ぐ上がって』。 営業課長の
    西條正喜さん(44)は列の最後尾で追い立てた。 階段は人でびっしり。
    『このままでは津波に飲まれる』。 体力のある人がお年寄りを背負った。

    町社協老人クラブ担当の佐々木真さん(39)は4階への階段を上りながら、
    背後に津波を感じた。 ガチャン、バキバキ。 1階の窓ガラスが割れ、2階にも
    がれきが流れ込んだのが音で分かった。 3階を振り返ると、ロビーの窓ガラスを
    大量の水が突き破った。 足元もぬれていた。

    屋上には既に水が押し寄せていた。 水位は膝まである。 『ここもだめか』。
    西條さんと佐々木さんらは、普段人が入らないエレベーター室や高架水槽などが
    ある会館最上部へ避難誘導を急いだ。

    四方を水で囲まれた会館はまるで孤島のようだった。 佐藤さんの手帳には
    津波の記録が残る。

    <午後3時26分、第1波。 40分、引き始め>
    <4時13分、第2波。 28分、引き方開始>
    <5時、第3波。 10分、引き波開始>

    そう書いたところで手が止まった。 2キロ弱先の荒島までの海底が姿を
    現している。 『次の波が来たらみんな死んでしまう』。 スーツの内ポケットに
    手帳を仕舞い、ボタンを掛けた。 自分が流されても記録は残るように―。

    佐藤さんの記録によると、第4波は午後5時32分に襲来。 屋上までには到達
    しなかった。 会館に孤立したのは約330人。 4階にある約25平方メートルと
    約30平方メートルの会議室二つは人であふれ、廊下や更衣室まで埋め尽くされた。

    室内は人いきれで息苦しいほどだった。 深夜、80代の女性が意識もうろうと
    なった。 『脳梗塞の疑いがある』と町社協の看護師。 佐藤さんは最上部に
    上がり、公立志津川病院へ向かって大声で呼び掛けた。

    『先生、倒れている女性がいます。 波が引いたら、そちらで診ていただけ
    ませんか』 医師とみられる男性の声が返ってきた。 『こちらは薬も電気もない。
    7人が亡くなりました』

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    風通しの良い場所で寝かせるよう助言された佐藤さんは、全員に屋上に出るよう
    促した。 『外の空気吸ってきてけさい』。 10分ほどの短時間だったが、
    室内に外気が入ると女性は持ち直した。

    職員らの判断と機転。 会館で命拾いしたお年寄りは口をそろえて言う。
    『よく生きていられた。 従業員らの指示に従い会館に残ってよかった』

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    2011年3月11日夕、東北の震災被災地では広い範囲で雪が降った。 津波で
    ずぶ濡れになった人、建物の屋上で救助を待つ人…。 暖が取れない状況の
    下で、冷たい雪は多くの人の目に『非情の雪』と映った。 天候は夜には
    回復し、満天の星空が広がったが、それもまた『無情の星空』。 放射冷却で
    翌朝にかけて厳しく冷え込み、多くの命を苦境へと追い込んだ。

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    津波の後、雪が降り積もった被災地。寒さに奪われた命も少なくない
    2011年3月11日午後4時ごろ、宮城県南三陸町

    その時 何が 非情の雪、無情の星空(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    皆、寒さでガタガタと震えていた。 唇は紫色で顔面は蒼白。 外は雪。
    低体温症の症状だった。 『震えがひどく、自分で思うように動けない人もいた。
    3人がかりで着替えさせた』 宮城県南三陸町の公立志津川病院の看護師
    佐藤のり子さん(52)は、目の当たりにした低体温症の怖さを思い起こす。

    海岸から距離約400メートルに位置する同病院は津波に襲われ、水は4階まで
    達した。 全身ずぶぬれになったり、横たわったまま水に漬かって半身が
    泥まみれになったりした患者も多かった。

    浸水を免れた西棟5階会議室には、入院患者42人と病院スタッフ約80人、
    駆け込んだ近隣住民約120人の計約240人がいた。 看護師らは5階の限られた
    物資で、患者の体温を保つ工夫を重ねた。 濡れた衣服を脱がせてタオルで
    包み、新聞紙を体に巻いた。 ゴム手袋もはめさせた。 床には段ボールを
    敷き、体を寄せ合うように寝かせた。 毛布代わりに介護用おむつと、外した
    カーテンを掛けた。

    『体を温めてあげたくても電気も火もない。 ありったけの物で、できる
    限りのことはしたんですが…』と佐藤さん。 必死の措置もむなしく、12日
    午後に救出ヘリが来るまでに、患者7人が低体温症等で息を引き取った。

    宮城県石巻市大街道小でも、女性1人が低体温症とみられる症状で亡くなった。
    東松島市野蒜小でも多くの人が濡れた服のまま避難。 割れた窓から吹き込む
    冷気が体温を奪い、お年寄りらが次々と低体温症で死亡した。

    宮城県警が震災から1カ月後にまとめた県内犠牲者8,015人の死因によると、
    低体温症を含む『その他』が58人いた。 あの日の冷え込み、その後の停電や
    燃料難による暖房の欠如…。 過酷な寒さが地震や津波から取り留めた命を死の
    ふちに追いやったのも、この震災の特徴だ。

    仙台管区気象台によると、東北太平洋側各地の気象データは震災後、津波被害や
    停電の影響で入手できなくなった。 宮城県内で唯一切れ目なくデータが残る
    仙台は11日午後、断続的に雪を観測。 第1波襲来後の午後4時半前後は見通しが
    利かないほどの強さになった。

    多くの証言によると、宮城県沿岸の各地は同日夕、雪に見舞われた。 夜は西から
    高気圧が張り出し、東北は広い範囲で晴れた。 気象台は当時の天気図から
    『12日朝は放射冷却で津波被災地は軒並み氷点下2~3度。 被災者には
    厳しい気象条件だった』と推測する。

    志津川病院の看護師畠山啓子さん(53)には二つの『もし』が交錯する。
    『もし、もう少し暖かかったら助かった人もいたかもしれない。 でも、もし
    阪神大震災のような真冬だったら、もっと大変なことになっていた』

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