東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

世界80言語対応の多言語翻訳『東京通詞』を運営しています。 お見積もりはお気軽に『お問い合わせ』からお願い致します (^-^)b 『我孫子ゲストハウス』の運営も行っております。



    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    I’m participating in blog ranking, please click the following buttons!
    Je participe au classement des blogs, veuillez cliquer sur les boutons suivants !
    Ich nehme am Blog-Ranking teil. Bitte klicken Sie die folgenden Schaltflächen!
    Я участвую в рейтинге блогов, пожалуйста, нажмите на следующие кнопки!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:宮城県連続地震

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    ブログネタ
    被災地通信 に参加中!

    宮城県美里町は、12年前の「宮城県連続地震」の最大の被災地。 この付近を
    流れる鳴瀬川は、白鳥の越冬地としても有名で、冬になると、白鳥が大量に
    飛来する。

    03668417

    2003年7月26日、1週間も降り続いた長雨の直後に震度6強連続3回という地震が
    発生したため、この周辺は、液状化現象を起こして、概ね地盤沈下した。
    その際に、堤防も決壊し掛けたのだが、元々、この付近には、この堤防以外に
    高い場所が一切ないため、堤防が切れてしまうと、一巻の終わり。 先日の
    集中豪雨で堤防が決壊した大崎市の渋井川は、実は、この川の15キロ上流にある。



    但し、この堤防は、12年前の連続地震が起きた後に、丸2年間もの歳月を掛けて
    (一部の家屋は、別の場所へ移転)、堤防の厚さを3倍強に補強し、更に、昨年
    再度堤防を補強したため、このような頑丈な厚さの堤防となった。 砂利道の
    部分が、被災後に付け足した部分で、それ以前は、このサイクリングロード
    として舗装されている部分の厚さしかなかった。

    【3倍強の厚さに補強された堤防】
    IMG_0712
    IMG_0715
    IMG_0716
    IMG_0718
    IMG_0720
    IMG_0721
     
    宮城県連続地震」が発生した際に、最も被害が酷かったのは、墓地付近で、
    概ね50センチ~1メートルほど、墓石が沈下した。 お寺と神社も完全に倒壊した
    ため、その後、5年間に渡り、それぞれ、年間で5万円づつ檀家料を徴収された。

    この付近だけは、人口が少ないという安易な理由により、被災地指定からも
    外されたため、瓦礫の処理は自腹だった。 町が瓦礫の処理の費用を半分負担
    したため、若干ましにはなったものの、それでも、東北の家屋は、全て大きいため、
    それぞれの家庭で、60万円~200万円程度の費用が掛かった。 その際に、税金を
    一部免除されたのだが、その金額は、何と1,000円。

    家を失い、住む場所すらなくなった人達に対する免除額が1,000円とは何とも
    情けない話し。

    美里町は、2016年1月で合併10周年なのだが、10年経過した今でも、ハッキリ
    言って小牛田と仲が悪いのは、その当時、小牛田が被災しなかったため。
    当時は、震度4強程度の揺れだったらしい。 よって、小牛田の人達は、この
    事実を覚えてはいない。

    この付近は、家屋がもれなく倒壊したため、田舎町なのに、新しい家屋だらけ
    なのだが、家を建てられなかった人達は、町から出て行ったため、その後、
    人口が劇減りした。 すぐ近所の小学校にあった仮設住宅は、2年キッカリで
    撤廃された。 東日本大震災では、東松島市の仮設住宅がその小学校のすぐ裏に
    建設されたのだが、そちらは、2015年の3月まで、丸3年間あった。 連続地震の
    すぐ後に、市町村合併の話が持ち上がったため、予算を使い果たした町には、
    既に合併を拒否出来るだけの力は残ってはいなかった。
     
    【復旧が完了した墓地と石巻から移転して来た工場】
    IMG_0724
    IMG_0725
    IMG_1060
    IMG_1051
    IMG_1055
    IMG_1057
      
    この周辺は、市町村合併前までは、町の中心部だったのだが、合併後は、
    何もかも小牛田に持って行かれてしまったため、何もなくなった。 この
    付近の住民は、元々、小牛田方面へは行かないため、2015年の4月からは、
    バスすらなくなった。 バスの終点は、元々は、小牛田などではなく、涌谷
    だったのだが、市町村合併後に、強引にルートを変えられたもの。 

    この場所は、東北最大の海岸である野蒜からは、15キロ地点にあるのだが、
    東日本大震災が発生した際に、この川を伝って、津波が遡上して来たため、
    堤防内にあった木が殆どなくなった。 東日本大震災の際には、家屋の倒壊は
    1軒もなかった。 その理由は、倒れそうな家屋は、12年前に全て倒壊したため。
    美里町は、石巻からも至近距離にあるため、被災後は、石巻港から2つの工場が
    移転して来た。



    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    ブログネタ
    被災地通信 に参加中!

    おのくんは、宮城県東松島市の『小野駅前応急仮設住宅』の主婦らがひとつ
    ずつ手縫いで作っている、サルがモチーフのキャラクターのぬいぐるみ
    (ソックモンキー)。 東日本大震災からの復興への願いが込められている。
    『めんどくしぇ』が合い言葉となっている。



    来年は、さる年という事で、最近、にわかに注目を集めている大人気商品と
    なっており、通信販売で『おのくん』を手に入れようとした場合、1年半待ち
    となっているが、陸前小野駅前にある『空の駅』 、あるいは、
    『小野駅前応急仮設住宅』まで行けば、その場で手に入れる事が出来る。
    元々、この仮設住宅まで足を運んで欲しいという願いが込められているため、
    通信販売には、余り力を入れてはいない。 『おのくん』の制作には、その
    大きさにもよるが、概ね、1時間半程度掛かるとのこと。

    【空の駅】
    IMG_0875
    IMG_0877
    IMG_0881
    IMG_0883
    IMG_0879
    IMG_0889

    小野地区は、12年前の「宮城県連続地震」の際にもかなりの被害を受けており、
    この周辺一体は、震度6強連続3回という激震に見舞われたため、多くの家屋が
    倒壊したり、屋根にブルーシートを掛けたりして、何とか復興への道を歩み
    だしたのだが、その6年後には、「東日本大震災」が発生し、地震被害こそ
    受けなかったものの、その後に発生した津波が、この陸前小野駅周辺まで到達し、
    再び被災地となったもの。 よって、住宅に関しては、二重、三重ローンを抱えた
    まま仮設住宅で暮らしている人達も居るのが、この地域の特徴。 家を二回連続で
    失った人達の場合は、再度住居を建設しようとしても、かなり難しいのと、
    この周辺一帯が、津波で浸水したため、再度家屋を建築しても、また津波が
    やって来るのではという不安が捨てきれない。

    東松島市の場合は、市域の六割以上が津波により浸水してしまったため、
    陸前小野駅から見て、海側に家があった人達は、陸前小野駅よりも内陸側に
    家を建てた人達が多い。 新しく家を建てた場所も津波によって浸水した場所
    なのだが、この周辺には高台が少ないため、この周辺に住みたい場合は、
    どうしてもこうなってしまうのが実情。

    【小野駅前応急仮設住宅】
    IMG_0894
    IMG_0895
    IMG_0897
    IMG_0898
    IMG_0910
    IMG_0906

    「空の駅」とは、東松島市内にある「航空自衛隊松島基地」の事を指しており、
    日本で唯一のアクロバット飛行が出来るブルーインパルスの本拠地らしい名前と
    なっている。 『空の駅』は、1年半後の本格運営を目指して、現在募金を募って
    おり、より正確に言うと、1年半後には、この周辺の仮設住宅が全てなくなるため、
    それまでにこの『空の駅』を何とかしないと、この先、どうにもならなくなる
    という意味でもある。


     
    『おのくん』以外にも、ブルーインパルスグッズが多数あるため、
    ブルーインパルス好きのお方にもオススメの場所かも知れません♪

    >>トップページに戻る





    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    現状、石巻地区の復興状況は、女川もそうですが、東松島がかなり酷いです。
    東北最大の海水浴場である、野蒜海岸では、そこだけで、約500名が死亡し、
    現在、仙石線が不通となっています。 東松島市内だけでも、約1,100名が
    死亡しました。 人口約4万5千に対しての1,100人なので、被災度合いは、
    石巻よりも酷いです。

    しかも、東松島の場合は、11年前の『宮城県連続地震』でも自宅を失った人も
    おり、2回連続で被災しています。 そんな状況なのにも関わらず、よそから
    来た人たちにより、『被災地に花火を上げよう』というプロジェクトが開かれた
    のですが、自宅を2回も失った人たちが、頭上の花火を見て、喜ぶとでも思った
    のかは分かりませんが、私は、そのイベント自体、許せませんでした。



    東松島でも、内陸への集団移転が現在進んでいますが、野蒜海岸周辺は、
    地盤沈下により、約3年4カ月もの間、海に沈んでおり、今年の夏に、ようやく、
    かさ上げ工事が本格化したため、やっと、陸地に戻ったばかりです。 私の
    いとこと叔母は、今でもそこに住んでいます。

    石巻市内の長面地区は、今でも海に沈んだままで、2年半程度、電気という
    ものが通っていませんでした。 大川小学校から、たった2キロしか離れて
    いない場所の話です。 これが、何もかも忘れ去られてしまった被災地と、
    クリスマスに浮かれている関東との差なのだと思いますが、余りにも違い過ぎて、
    既に、同じ国だとすら思えません。

    被災直後に、仙台出身のお笑芸人のサンドウィッチマンが、被災地から帰って
    来た直後に、東京で、『カラオケ如何ですか?』と言われたと言っていましたが、
    地獄絵図最中の石巻から帰って来て、降りた駅で私も完全に同じ事を言われ
    ました。



    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログへ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    東日本大震災における被災地には、今後の復興事業を円滑に行うための国費が
    投入されていますが、その被災地における『恩恵』の多くは、今でも手付かずのまま、
    そのまま眠っています。 被災地には、この『恩恵』以外にも、義捐金がまともには
    届きませんでした。 石巻市内で、運良く義捐金を貰えたのは、沿岸部の極一部の
    人たちだけ。 私の母親の実家は、石巻市中心部(沿岸部)から約10キロ離れた
    石巻市内にありますが、義捐金の支給対象地域からは、外されました。 私の実家が
    ある美里町自体も、石巻市中心部からは、15キロ程度しか離れておりませんが、
    状況は完全に同じです。

    11年前の『宮城県連続地震』の際には、震源地から、わずか3キロしか離れていなかった
    私の実家付近が最大の被災地だったのですが、激しい地震による揺れで、周辺一帯
    全ての家屋が、全半壊し、地面は液状化現象を起こしていたのにも関わらず、人口が
    少ないという安易な理由により、『被災地指定』すら外され、義捐金以前に、一切何の
    補償金すら貰えませんでした。 最大の被災地と言えども、被災地指定を外されたため、
    地震で倒壊した瓦礫の処理は、当然全て自腹でした。 東北の家屋は、比較的大きい
    家屋が多いため、瓦礫の処理には、1軒に付き、最低でも、60~200万円程度掛りました。

    すぐ近所にある小学校の校庭には、2年間だけ、仮設住宅がありましたが、丸2年を
    経過した時点で、全員そこからは出されました。 その後、私の実家付近からは、
    約2,000人の人たちが行くあてもない状態で出て行きました。 今でも皆どこに行った
    のかすら分かりません。 自腹で瓦礫を処理するだけで、預金を使い果たし、家を新築
    するだけの資金的な余裕がなかった人たちは、11年経過した今でも、戻って来ては
    おりません。 それでも、見た目上は、崩れた家屋もなくなり、新築の家が増えましたが、
    空き地だらけで、復興したのかすら分からない状態です。 震度6強前後の地震が
    立て続けに3回も襲ったため、付近には、瓦屋根やブロック塀は、ほぼありません。
    すぐ隣にある石巻でも、約2万人前後の人たちが、東日本大震災での震災後、町から
    出て行ったと言われています。
    safe_image
    東電による原発事故の補償対象となった福島県の場合は、補償金の対象となりましたが、
    福島を除いて、最も福島第一原発から至近距離にある宮城県の場合は、県最南端の
    丸森町だけが、福島県の半額の補償金を貰えただけで、それ以外は、一切何の補償
    すらされておりません。 尚、丸森町の場合は、最南端部分が、原発からは、45キロしか
    離れておらず、約60キロ離れた福島市よりも、至近距離となっています。 私の友人は、
    原発から、約60キロ離れた宮城県側に住んでいますが、特に何の補償も貰ってはおりません。

    義捐金を取り巻く環境は、殆ど全てが任意で管理されているため、その流通経路の途中で、
    実は、かなりの金額が消え失せています。 とあるNPO法人の話では、義捐金の約1割だけ
    寄付すれば、特にお咎めはないとの話でした。 この義捐金の問題は、阪神淡路大震災の
    時にも問題になりましたが、その後、特に変更される事もなく、現在に至っています。
    一部の都市伝説などでは、被災地には、略奪や犯罪などなかった事になっておりますが、
    それは、ウソで、このように、何をしても何もかも『きれいごと』で済まされる社会を変えない
    限り、今後も被災地を食い物にした、このような状況は、一向に改善せず、『明日は我が身』
    という問題意識を常に持って生きていないと、何もかもなかった事として、闇に葬り去られて
    しまいます。

    被災住民に届かぬ3兆円の恩恵




    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ 通訳・翻訳(英語以外)へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    私の実家がある宮城県美里町は、11年前の『宮城県連続地震』の際に、
    周辺地域全てが倒壊し、震度6強連続4回という史上最大の被災地だった
    のにも関わらず、被災地指定からは外され、周辺からボランティアがやって
    来たのは、ものの数ヶ月程度であった。 人口が少ないという安易な理由
    により、被災地指定を外されたため、当然、義捐金は一切届かなかった。

    >>宮城県北部連続地震と美里町

    周り全ての家屋が倒壊したとしても、結局は、倒壊家屋の件数だけで判断
    されてしまうため、人口が少ない自治体は、、おちおち被災すら出来ない。
    すぐ近所の小学校には、2年間だけ、仮設住宅があったのだが、丸2年間が
    経過した時点で、強制的に撤去されたため、自宅の再建が叶わなかった
    人たちは、皆町からは出て行った。

    当時は、まだ南郷町という名前の自治体であったのだが、この時に地震の
    影響なのか、すぐ隣の小牛田町と合併をして、これまでの地名とは一切縁も
    ゆかりもない美里町という名前になった。

    >>市町村合併

    10710911_951586408192114_7851614862033733726_n
    当時は、私の実家にも『倒壊判定』の赤紙が張られたのだが、私の母親は、
    避難所には一切行かず、自宅で過ごした。 避難所に行くと、食事が貰えた
    のだが、それすら貰わなかった。 その後の余震は、半年以上も続いたため、
    常に家屋が倒壊する危険性があったのだが、そのまま家に留まった。

    被災時に、被災地指定から外されてしまうと、どうなるかと言うと、倒壊家屋の
    瓦礫処理が、全て自腹となりるため、私達の場合は、瓦礫処理代として、家屋
    1軒につき、60万~200万円程度の支払いが必要だった。 隣近所全ての家屋が
    無くなったのだが、それでも被災地指定からは外されたため、特別税制優遇
    として、被災したその年だけ、年間で1,000円が免除された。 すぐ近所にある
    神社とお寺も倒壊したため、檀家代として、5年間もの長きに渡り、毎年5万円
    づつの寄付を取られた。 近所にある小学校と中学校に対しても、寄付を取られ
    たが、その見返りとして貰ったものは、タオル1枚だけ。

    >>被災から4年が経過した石巻の状況

    その際に、すぐ隣の自治体である石巻は、全く無事だった。 より正確に言うと、
    旧河南町の部分だけ被災し、その他、旧来の石巻市内は無事だった。 相当
    大規模な地震が連続で起きた割には、死者が1人も出なかったため、その後は、
    全て忘れ去られた。

    東日本大震災のように、大量に死者を出して、3年半以上経過しても、未だ
    忘れられないのと、家が地震災害で無くなったとしも、ものの数ヶ月間だけで
    忘れ去られるのとでは、どちらがましなのかと、常々考えているのだが、石巻の
    人たちに、この事を言っても、当時の事を殆ど覚えてはいないため、如何に人事
    としてこちらの災害を捉えていたかが良く分かる。

    こちらもすぐお隣の自治体である、東松島市と松島町は、この時に美里町と
    一緒に被災したため、当時の状況を良く覚えているのだが、こちら側と石巻との
    関係が完全に溝になっている事を知っているのは、地元以外の人間では居ないと
    思う。

    >>【4年経過した】東松島市野蒜地区の被災状況

    石巻の人たちは、自分たちが一番不幸だと常々言っているが、それでは、完全に
    見捨てられた我々はどうなるのかと、言い返してやると、何も答えられないのは
    何故なのだろう。

    宮城県連続地震の際の災害が縁となって、現在、美里町と東松島市は、災害協定を
    結んでいるのだが、東日本大震災が発生した際には、美里町も被災地に指定された
    ものの、被災地の中では最も被災度合いがましであったため、真っ先に東松島市の
    救援活動に入ったのだが、災害後に設置されていた美里町内の東松島市の仮設住宅は、
    災害から丸三年を経て、全て撤去された。

    >>東北電力女川原発

    美里町は、東北電力女川原発の30キロ圏内に一部入るのだが、その場所は、私の
    祖父の実家がある場所で、私の実家自体は、原発からは、ギリギリ30キロ圏外の
    32キロの場所にある。 女川原発自体も、福島第一原発同様、地震により、
    非常用電源回路が消失したため、爆発し掛けたのだが、日本の中央メディアは、
    その事を一切報道しなかった。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    私の実家は、11年前の宮城県連続地震の際に、周辺地域全てが倒壊し、震度6強
    連続4回という史上最大の被災地だったのにも関わらず、被災地指定を外され、
    ボランティアがやって来たのは、ものの数ヶ月程度。 人口が少ないという安易な
    理由により、被災地指定を外されたため、当然、義捐金は一切届きませんでした。
    周りの全ての家屋が倒壊しても、結局は、倒壊家屋の件数だけで判断されてしまうため、
    団体様でなければ、日本では、被災も出来ません。

    すぐ近所の小学校には、2年間だけ、仮設住宅がありましたが、丸2年間で強制的に
    撤去されたため、家の再建が出来なかった人たちは、皆町から出て行きました。
    私の実家にも『倒壊判定』の赤紙が張られましたが、私の母親は、避難所には一切
    行かず、自宅で過ごしました。 避難所に行くと、食事が貰えたのですが、それすら
    貰いませんでした。

    その後の余震は、半年以上も続いたため、常に家屋が倒壊する危険性がありましたが、
    そのまま家に残りました。 災害時に、被災地指定から外されると、どうなるかと言うと、
    倒壊家屋の瓦礫処理が、全て自腹となります。 よって、私達の場合は、瓦礫処理代
    として、1件につき、60万~200万円程度それぞれ支払いました。

    10710911_951586408192114_7851614862033733726_n

    近所の神社とお寺も倒壊したため、檀家代として、5年間、毎年5万円づつの寄付を
    取られました。 小学校と中学校に対しても、寄付を取られましたが、その見返りとして
    貰ったものは、タオル1枚だけ。 その時に、すぐ隣の石巻は、全く無事でした。

    大規模な地震が連続であった割には、死者は1人も出なかったため、その後は、全て
    忘れ去られました。 大量に死者を出して、4年半以上経過しても、未だ忘れられないのと、
    家が無くなっても、ものの数ヶ月間だけで忘れ去られるのとでは、どちらがましなのかと、
    常々考えていますが、石巻の人たちに、この事を言っても、殆ど覚えてはいないため、
    如何に人事としてこちらの災害を捉えていたかが良く分かります。

    東松島と松島は、この時にこちらと一緒に被災したため、当時の状況を良く覚えて
    いるのですが、こちら側と石巻との関係が完全に溝になっているのを知っているのは、
    地元以外の人間では居ないと思います。 石巻の人たちは、自分たちが一番不幸だと
    常々言っていますが、それでは、完全に見捨てられた我々はどうなるのかと、
    言い返してやると、何も答えられないのは何故。

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ 通訳・翻訳(英語以外)へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ