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    タグ:宣教師

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    1497年にレタイントンが死ぬと、後の皇帝は力が弱くて治世も皆短く、良く組織
    されていた政治制度を無視したので無政府状態を招いた。 16世紀になると、
    政府高官たちが互いに争い、1527年にそのひとり、マツクダンズン将軍が9代
    100年続いたレ王朝を倒し、遂に長年に渡る内乱が始まる。

    16世紀も後半になると、2大氏族が権力を分割して統治した。 北部ではティン氏が
    実権を握ったが、名目的な君主としてレ王朝を再興した。 南部で支配権を確立した
    グエン氏も、表向きはレ王朝を唯一の正統な君主とみなした。

    グエン氏は同時に、クメール帝国(カンボジア)に軍隊を進め、勢力を広めて
    行った。 クメール族は肥沃なメコンデルタをはじめ、広くインドシナ半島を
    支配していた。 グエン氏は、農民をクメール領に送り込んだ。 1690年までに
    ベトナム人は、メコンデルタのクメール族入植地、サイゴンに入り込んでいた。

    グエン氏はまた、絹や貴金属を中国、日本、および、ヨーロッパの商人たちに
    売って、対外貿易を伸ばした。 グエン氏の農園では、農民は国際市場を対象に
    して砂糖等を栽培した。 一方、ローマカトリック教会の宣教師に同行して来た
    ヨーロッパの商人たちは、懸命になって貿易を軌道に乗せ、またベトナム人を
    キリスト教徒に改宗させて行った。

    グエン氏の勢力は拡大して行ったが、メコンデルタに入植したベトナム人たちは、
    圧制に悩んだ。 1771年、ベトナム中部の山村、西山に反乱が起き、同村の
    グエン3兄弟が民衆を率いた。 1780年代に数年間の戦いの後、西山軍が
    メコンデルタからグエン氏の勢力を追い払い、次いで北部のティン氏の軍隊も
    破った。

    3兄弟はベトナムの北部、中部、南部を陥れると、統一政府の西山朝を設立した。
    だが、西山朝は、戦争のために農地が荒れ、収穫が衰えて飢餓になるという
    問題を解決出来なかった。

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    隣国のタイに亡命していたグエン氏一族の若い後継者、グエン・ツアクアインは、
    ベトナムを再び征服しようとした。 アジアに通商の拠点を作り始めていた
    フランス等外国の援助を得て、軍隊をメコンデルタから北へと進め、1802年に
    西山軍を破り、今日のベトナム領の殆んど全部を征服した。 そこでグエン・
    フツクアインはグエン王朝を建てて、自らゼーロン皇帝と称した。

    ゼーロン皇帝はベトナム中部のフエを首都とし、中国風の官僚制を強め、反政府
    勢力を全て潰した。 フランス人のカトリック宣教師が、多くのベトナム人を
    キリスト教徒に変えただけではなく、宮廷政治に干渉したために、ゼーロン皇帝は
    宣教師を弾圧し、フランス人の活動を制限し、国民のキリスト教信仰を禁じた。

    1830年代には、ゼーロン皇帝を継いだ息子のミンマン帝も父帝と同じように
    フランス人の影響に反発した。 皇帝はフランス人宣教師を大勢処刑したが、
    なお布教を続けながら、ベトナムをフランスが取得してしまうことを呼び掛ける
    宣教師も居た。

    【お勧めの一冊】


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    毛皮貿易が段々と盛んになると、フランス人は新世界の領土を拠点とし、フランス
    帝国を築き上げることを目指した。 しかし、フランスはその領土の支配権を
    完全に握っていた訳ではない。 フランス王アンリ4世は、アカディア地方
    (今日のノバスコシアとニューブラウンズウィッグの一部で、北アメリカでの
    最初のフランス領植民地)の所有権を強化するために、新世界の土地を裕福な
    フランス人に譲渡し、本格的な植民地経営に取り組ませた。

    1605年、サミュエル・ド・シャンプランは、ポールロワイヤル(今日の
    ノバスコシア州アナポリスロイヤル)に植民地を築いた。 1608年に
    シャンブランは、ケベック市を建設し、セントローレンスバレーにおける毛皮
    交易の主導権を握るための拠点とした。 また、毛皮交易を盛んにする手段として、
    イロコイ族を支援した。

    1609年にシャンブランの率いるフランス軍が銃で、イロコイ族の酋長を2人殺した
    (銃は当時北アメリカにはじめて持ち込まれた新兵器だった)。 それ以来、
    イロコイ族とフランスは長年敵同士となった。

    シャンブランは、ケベックの毛皮貿易を発展させ、『ヌーベルフランス』と呼ばれ
    ていた地域にフランス人を入植させた。 また、大規模な探検を何度か行い、
    1615年にはヒューロン族の領土まで赴いた。

    1615年、フランスからカトリックの宣教師がやって来て、インディアンの間で
    布教活動をはじめた。 10年後には、イエズス会の宣教師たちがカナダに上陸した。
    1642年には、フランスの他の派の宣教師たちが、モントリオールにカトリック
    教徒の植民地を築いた。

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    ヨーロッパ人の到来は、インディアンの文化に深刻な打撃を与えた。 天然痘など
    海外から持ち込まれた病気によって、多くのインディアンたちは、自由に食料を
    採ったり、これまでの習慣に従った生活をしたりすることが出来なくなった。

    毛皮交易をめぐる競争によって、インディアンの部族間の対立が激しくなった。
    キリスト教の宣教師は、先住民の文化や信仰を認めず、ヨーロッパの社会組織と
    宗教制度を押し付けた。 こういう変化のお陰で、インディアンの部族間の連帯は
    ますます弱まった。

    【お勧めの一冊】


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