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    タグ:宗教

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    ポルトガル帝国が拡大するに連れ、南米ブラジルから中国大陸の沿岸マカオまでに
    広がった植民地との行き来に、船乗そのものをますます多く必要とするように
    なった。 船の難破、疫病、あるいは、ポルトガルの権益そ認めようとしない
    地元民との戦い等で多くのポルトガル人男性が死んで行った。 1500年代末まで
    には、遠隔の領土がポルトガルの財政と国民にとって重荷になって来たのである。

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    加えて、ポルトガルはローマ・カトリックの信仰を広めようとしたため、ポルトガル
    新領土や本国の非キリスト信仰者を動揺させることになった。 キリスト教会は、
    イベリア半島の人々、特に、イスラム人とユダヤ人をキリスト教徒に改宗させようと
    した。 キリスト教会は、更に、異教を禁じてしまおうと考えた。

    ローマ・カトリック教会は、異教、ないし、非キリスト教的信仰の疑いのある者は
    全て罰しようとし、異端審理のための宗教裁判所を作った。 冷酷な措置と厳しい
    裁判のため、一部のポルトガル人キリスト教徒さえも含む多くの非キリスト教徒達が
    異端のそしりを受け、投獄、あるいは、処刑の憂き目にあった。

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    15世紀になって、『ルネッサンス』と呼ばれる古代の芸術や哲学の復興運動が
    イタリアから伝えられると、ドイツには大きな変化が起こった。 ドイツの新しい
    大学では、ルネッサンス学者たちが強力なローマ・カトリック教会に改革を迫り、
    改革者のひとりであるドイツの聖職者マルティン・ルターは教会の悪習を非難して、
    1521年には破門される。 しかし、北ドイツには改革の呼び掛けに賛同する人々が
    多く、プロテスタント(新教徒)として知られているこれらルターの支持者たちは、
    1520年代にルター派の教会を創設した。 こうして間もなく北ヨーロッパは、
    宗教改革の嵐に包まれることになる。

    1555年には、貴族から農民まで階層を問わず、ドイツの大部分の人々が
    プロテスタントに改宗した。 また、北ドイツの諸侯の中には、宗教改革を理由に、
    カトリック教会の持っている土地を没収する者も居た。 ハプスブルグ家の皇帝
    カール5世は、カトリック教徒であったので、激しい造反に直面、アウグスブルグの
    宗教和議で、ついに諸侯の領地における宗教の選択権を認めた。

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    その後、数十年の間にドイツ、オランダ、スイスでプロテスタントの新宗教派が
    創設された。 これらの宗教はルター派、カトリック派いずれの宗教の儀式も
    拒否した。 また、ローマ・カトリック教会は南ドイツの大半、オーストリア、
    ボヘミア(オーストリア北部に位置する王国)に勢力を盛り返して行った。
    ハプスブルグ家はカトリックだったので、ローマ教会と密接な関わりを持ち
    続っており、1618年、カトリックの王をボヘミアの王位に就けようと企てた。

    ところが、激しい反対が起き、暴動に繋がり、30年戦争の間、ドイツの諸侯は
    互いを攻撃、周辺の諸国はドイツの領地を略奪しようと中央ヨーロッパに進軍、
    プロテスタントと同盟を結んだスウェーデン王国は、ドイツのバルト海沿岸を
    攻撃、フランスはハプスブルグ家と戦うため、ライン川を越えて進撃に出た。

    戦争は1648年、ドイツにおけるカトリックとプロテスタントの領土を正式に
    承認するヴェストファーレン条約にようやく解決をみる。 こうして
    プロテスタント国家におけるハプスブルグ家の支配は終わったが、神聖ローマ
    皇帝の称号はなおもハプスブルグ家が継いで行った。

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    ポーランド人が10世紀にキリスト教を信仰するようになって以来、カトリック
    教会は、大きな影響力を持つようになった。 教会への忠誠心によって、
    ポーランド人は19世紀の分裂と外国支配の時期にも、民族としての自覚を保つ
    ことが出来た。 その後、共産主義政府が宗教活動を制限するようになっても、
    一部の教会や神学校は、人々の間で存続した。 教会の指導者たちは反体制
    運動に参加した。 1878年、ポーランド教皇、ヨハネ・パウロ2世となると、
    自分の影響力と人気を活用して、改革を推進させた。

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    クリスマスとイースターは、主要な宗教的祭日である。 8月15日の聖母
    被昇天の祝日には、多くのカトリック教徒がチェンストホヴォにあるヤスナ・
    グラ修道院に行き、『黒の聖マリア』の霊廟に礼拝する。 信仰の厚い人たちは、
    この聖母マリ像が17世紀のスウェーデンの侵略を阻止したと信じ、以来
    『黒の聖母マリア』は、ポーランド民族の象徴となった。

    ポーランド人の95%以上がカトリック教徒である。 残りの大部分はギリシャ
    正教徒、プロテスタント、または、ユダヤ教徒となっている。

    何世紀もの間、ポーランドはユダヤ人たちの信仰と知識と文化の重要な中心
    だった。 しかし、第二次世界大戦中、ユダヤ系住民たちは、ナチスの迫害に
    よって、蹂躙され、この戦争で生き残ったユダヤ人たちの大部分は、ポーランド
    国外に移住して行った。

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    イングランドでは、イギリス国教会が国教となっており、19世紀半ばまでは、
    イギリス国教会信者でない者は、国会議員にはなれず、オックスフォード大学
    には入学出来ず、ケンブリッジ大学では、学位を取る事が出来なかった。 しかし、
    今はこのような差別はない。 イングランドの人々の多くはイギリス国教徒だが、
    今では欠かさず教会に通う程敬虔な人は少ない。

    イギリス国教徒以外の人は、イギリスでは非国教徒と言われる。 中でも、新教に
    属する宗派は、イギリス国教会から分かれたという意味で、分離派と呼ばれ、
    メソディスト派、バプティスト派などがある。 どの派も厳しい迫害の中で発展
    して来た。 ローマ・カトリック教会も、16~19世紀まで受けて来た差別は
    現在はなく、学校や教会を設立する程の力を持っている。

    イングランドには、ヨーロッパでも有数のユダヤ人社会があり、その人口は
    40万人にも昇る。 ユダヤ人の多くは、20世紀前半ドイツ、ソ連、東欧での迫害を
    逃れてやって来た。 ユダヤ人の地域社会では、独自の学校や、高齢者や障害者の
    ための福祉事業が運営されている。

    近年、多くの国から移住して来る人が多いため、イングランドの都市にはシーク
    教徒、ヒンドゥー教徒が主にインド出身であるのに対して、イスラム教徒は
    パキスタン、バングラディッシュ、中東などから来ており、両者共に、宗教的
    伝統を保つため、独自の学校を運営している事が多い。

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    【英語の発展】
    移民には母国語を話している者が多いが、イングランドの公用語は英語である。
    英語はアングロ・サクソン人の言語であったゲルマン語から発展したもので、
    発達の段階によって、時代順に古英語、中英語、近代英語の3つに分けられる。
    アングロ・サクソン年代記など、最も初期の文献に見られる古英語は、およそ
    1100年まで使われた。 ノルマン語の影響を受けている中英語は、1100年から
    1400年後半に掛けて使われた。

    その後は、近代英語の時代だが、この英語は17世紀の『欽定英訳聖書』で使われた。
    この聖書は、後の英語に大きな影響を与えた。 イングランドの人々の話す
    英語には、地方によって方言も多い。 例えば、リヴァプール出身の人は、
    スカウスと呼ばれる方言、ニューカッスル・アポン・タインでは、ジョーディー
    という方言を話す。 ロンドンっ子の中には、コックニーと言われるロンドン
    訛りを使う人もいる。

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    方言は、その土地の人でなければ分かりづらい。 何十年に渡ってラジオや
    テレビで標準とされる英語が流されてはいるが、未だに言葉の違いが階級の
    差を強めている事もある。

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    台湾の主な宗教は、儒教、道教、そして、仏教である。 これら3つの宗教は、
    数世紀前に漢族系移民と共にもたらされた。 大半の台湾人は、ひとつの
    宗教だけを純粋に実践する訳ではなく、これら宗教から、それぞれ一部を
    取り入れている。

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    儒教は、正確には、宗教的儀式というよいも、倫理規範というべき孔子の教えが
    発展したものである。 目上に対する尊敬、厳しい道理的修養、先祖を大切に
    する思想を説いた。 こうした考えの多くが台湾人の暮らしの中に生きている。

    道教は、宗教というよりも、むしろ哲学的である。 これは、道徳教と呼ばれる
    書物から発展したもので、紀元前3世紀中頃かに体系化されたものと考えられている。
    道教の思想には、大乗仏教の要素が多く取り入れられており、また、儒教の厳格な
    教えに対して、儒教信者が感じている不満の中から発展したものである。

    道教は、簡素な生活、社会的義務からの解放、食欲と欲望の否定を説いている。
    更に、道教は、台湾に伝わる多くの民間習俗と融合している。 道教寺院で
    線香を炊いて、神台に祀られた紙を信仰するのも道教のひとつである。

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    仏教は、ゴーダマ・ブッダによる教えが発展したものである。 彼は、紀元前
    6世紀のインドでこの宗教の基礎をつくった。 ブッダの説く思想は、急速に
    広まった。 この宗教が中国に伝わると、大乗仏教に発展した。 大乗とは、
    大きな乗り物という意味で、この宗派は、誰でも幸せになる機会があると
    教えている。 この宗教では思いやり、心の平安、他者へのいたわりが最も徳の
    高い行いであるとされ、悟りの境地に達する方法として、瞑想を教えている。

    台湾の伝統的な宗教行事では、先祖の供養も良く行われる。 親族が紙で出来た車、
    家を燃やし、これkらの品が象徴する財産が、他界した親族の元に届くように祈る。

    また、台湾の各地に見られる廟も地元の民間信仰の現れである。 三国志の関羽を
    祀る関帝廟、海の女神である媽祖廟が多いが、秒には、様々な宗族の神や、地元の
    神が祀られている。

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    チェチェン共和国は、ロシア連邦国内にある小国であり、カスピ海と黒海に
    挟まれたロシア南部のコーカサス地方にある国。 大きさは、日本の四国ほどで、
    住民の多くは、アジア系のチェチェン人で、主にイスラム教を信仰しているため、
    主に東方正教を信仰しているロシア人とは、民族的にも宗教的にも異なる。

    ロシア連邦からの独立を望むチェチェン共和国との戦いは、テロという姿に形を
    変えて今でも水面下で続いている。 1991年にソ連が崩壊する間際には、ソ連
    各地で独立運動や暴動等が起き、大混乱に陥ったが、チェチェン共和国でも
    この頃から独立に向けた動きが活発になった。

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    1991年10月にチェチェン共和国の大統領に選ばれたドゥダエフは、すぐさま
    独立を宣言。 当時は、ソ連の中にロシア連邦共和国があり、ロシア連邦の中に
    チェチェン共和国があるという状況になっていたため、チェチェンは、ロシアに
    対して、独立を求めた。 しかし、当時のロシアの大統領であった、エリツィンは、
    チェチェンの独立を認めず、治安部隊を派遣して、これを鎮圧しようとした。

    1991年12月にソ連が崩壊し、15の共和国がそれぞれ独立したが、ロシアは、
    この際にもチェチェンの独立を認めず、チェチェンの独立運動は、その後も続く
    事となった。

    第一次チェチェン紛争(1994年~96年)
    ソ連崩壊から、3年後の1994年、ロシア国内の混乱をおさめ、政治体制を固めつつ
    あったエリツィン大統領は、本格的に、チェチェン問題に乗り出した。 12月に
    大規模な軍隊を投入し、チェチェンへ介入を始めた。 こうして第一次チェチェン
    紛争が始まった。 ロシア軍は、激しい空爆を行い、チェチェンの首都である
    グロズヌィを攻めたが、激しい抵抗にあい、首都制圧は出来なかった。 この
    戦いは、1996年まで続き、ロシア側とチェチェン側を合わせて、数万人の死者が
    出たと言われている。 チェチェンでは、ロシアの空爆により、一般市民にも
    多くの死者が出た。 1996年には、5年間にも渡って独立闘争を指揮して来た
    ドゥダエフ大統領までもが、ロシア軍の攻撃により死亡した。

    こうしたなかで、ロシアの国家保安保障会議のレベジ書記と、チェチェンの
    マスハドフ参謀総長らの努力により、1996年8月に和平交渉が行われ、両者は、
    チェチェンの独立問題を2001年まで先送りする事を定めたハサブユルト和平
    合意を結び、全面的な停戦が成立した。 これに伴い、1997年、ロシア軍は
    チェチェンから撤退した。

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    第二次チェチェン紛争(1999年~2009年)
    ロシア連邦がチェチェンから撤退した後、OSCE(欧州安全保障機構)等の
    監視の下で、民主的な選挙が行われ、マスハドフが大統領に選ばれ、国際的に
    承認された。 ハスハドフ大統領は、アメリカやアラブ諸国を訪ね、チェチェンの
    ロシアからの独立を訴えると共に、ロシアのエリツィン大統領とも定期的に
    交渉を行い、正式な独立に向けて準備を進めた。 ところが、チェチェン国内の
    武装勢力を上手くおさめる事が出来ず、誘拐等の犯罪が頻繁に起こるようになった。

    1999年8月、独立最強硬派のシャミル・バサエフとアミール・ハッターブに率い
    られた1,500名程のチェチェン人武装勢力が隣国ダゲスタン共和国へと侵攻し、
    一部の村を占領するという事件が発生する。 また、同時期にモスクワでは
    アパートが爆破されるテロ事件が発生し百数十名が死亡した。 これを受けて、
    ロシア政府はチェチェンへのロシア軍派遣を決定し、プーチン首相の強い
    指導の下、9月23日には、ロシア軍がテロリスト掃討のため、再びチェチェンへの
    空爆を開始し、ハサヴユルト協定は完全に無効となった。

    第二次チェチェン紛争以降にテロが過激化して来た事に関しては、イスラム原理
    主義の思想を持つイスラム過激派の勢力が加伸張して来た事があげられている。
    チェチェン領内でのゲリラ戦に加えて、2002年10月のモスクワ劇場占拠事件や
    2004年9月のベスラン学校占拠事件等、チェチェン共和国外での一般市民や政府
    などに対する攻撃や自爆テロも数多く起きている。 自爆テロの中にはチェチェン人
    の女が関わっているケースがあるが、これは殺害された独立派武装勢力兵士の
    妻等が、仇討ちのためにテロに身を投じていると考えられている。

    チェチェン独立派は事件直後には犯行声明を出さない事が多く、むしろ、発生後
    しばらくの間は、自分たちの関与を否定するかのような発言を行い、ある程度
    時間が経った時に初めて声明を出す事が多い。 また、独立派は、捕らえた一般
    市民やロシア兵を殺害する様子をビデオテープに記録し、インターネット上に
    配信した事もある。

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    このような紛争のテロリズム化に対して、ロシアは2003年から2006年に掛けて
    独立派最高指導者のチェチェン共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフ、
    第3代アスラン・マスハドフ、第4代アブドル・ハリムを殺害し、シャミル・
    バサエフ等の最強硬派の過激派指導者も殺害した。 これ以外にも、アフメド・
    ザカエフのような穏健な独立派指導者も大半は国外へ脱出している事から、
    チェチェン共和国の弱体化が指摘される事もあった。

    このような状況の中、チェチェン共和国の第5代大統領であった、ドク・ウマロフは、
    2007年に北コーカサスでのイスラム国家の建設を目指すコーカサス首長国の建国を
    宣言した。 2009年の戦争終結宣言以降も、コーカサス首長国等のイスラム
    過激派達はロシア連邦軍とチェチェン共和国政府に対するゲリラ戦を継続し、
    兵士や市民を殺害する事態が続いている。

    独立派は、この戦争により、6万人の市民が死んだと主張している。 また、
    ロシア国防省はこの紛争で、6,000人以上のロシア兵が死亡したと発表した。
    独立派指導者の一部は、西側諸国に対して仲介を要望し、ロシアの軍事行動等に
    対しては抗議をしている。

    独立派に対するロシアのプーチン政権の強硬策に対する批判も一部から出て
    おり、独立派は、紛争当初こそ各国から支援を得ていたものの、世界的な
    『テロとの戦い』という流れの中でチェチェン紛争もこの一部とされることが
    多く、紛争後期には独立派もアルカイダ等の国際テロ組織との関係を疑惑視され
    孤立無援となった。

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    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧】
     
    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破 - 親ロシア派のチェチェン共和国大統領
    アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第2次チェチェン紛争に係る主要テロリズム一覧】
    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモデドボ空港爆破事件

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