東日本大震災の津波で行員ら12人が犠牲となった七十七銀行女川支店が
2017年9月4日、JR女川駅前に再建した新店舗で営業を始めた。 2011年
3月の震災発生から約6年半を経た新店舗での再出発だが、慰霊碑などの
モニュメント設置やセレモニーの開催は見送られた。
2017年9月4日、JR女川駅前に再建した新店舗で営業を始めた。 2011年
3月の震災発生から約6年半を経た新店舗での再出発だが、慰霊碑などの
モニュメント設置やセレモニーの開催は見送られた。
慰霊碑について同行は『設置時期や場所を検討中』とし、セレモニーの
見合わせは『取引先企業の多くが再建途上にあることを考慮した』と
説明している。
説明している。
七十七銀行女川支店は、20メートルを超える巨大津波に襲われ、高さ約10
メートルの屋上に避難した行員13名が津波に流され、そのうち、1名が奇跡的に
近くを通り掛った船に助けられた以外を除き、12名が犠牲となり、8名は
懸命な捜索活動にも関わらず、今でも遺体が見つかってはいない。
被災後の銀行側の対応は、あくまでも『死亡退職』であり、その後、死亡した
行員の墓参りに訪れる事も遺族側に寄り添う姿勢も示さなかった。 銀行側の
余りの対応に、遺族らの不信感は高まり、訴訟を起こして、最高裁まで争ったが、
司法は津波を予想することは出来なかったと結論付け、遺族側の敗訴が確定した。
2階建ての旧支店は、震災から1年半も経たないうちに取り壊され、現在は、
かさ上げ工事のため、更地となっている。 裁判官が実際に現地を訪れた際には、
既に旧支店は取り壊された後だった。
新店舗は、被災した旧店舗の跡地から約350メートル北側にあるJR女川駅前の
商業エリアに建てられたが、鉄骨2階建てで屋上はない。 店舗内3カ所には、
町が指定した避難場所として高台にある女川小学校を示す看板が設置されている。
商業エリアに建てられたが、鉄骨2階建てで屋上はない。 店舗内3カ所には、
町が指定した避難場所として高台にある女川小学校を示す看板が設置されている。
七十七銀行女川支店は、2011年12月から女川町内の仮設商店街で営業をしていた。
【現在の七十七銀行女川支店跡】
七十七銀行は、東北最大の地方銀行であり、地域のリーダーとして、今後の明確な
指針を示さなければならない立場なのにも関わらず、このような無責任な態度を
取り続け、未だ遺族らには、何ら謝罪の言葉すら掛けてはいない。
2003年に石巻地区では『宮城県北部連続地震』が発生し、大規模被災したが、
その後、七十七銀行女川支店は、避難マニュアルを高台から屋上へと下方修正した。
その時の事を教訓にしていれば、こうはならなかった筈。 震度5強~6程度の
地震は、石巻周辺ではしょっちゅうあるにも関わらず、その事を全て無かった事に
しています。 『宮城県北部連続地震』の被災地では、地震災害のせいで人口が
5,000人以上も減った。
【現在の七十七銀行女川支店跡】
七十七銀行は、東北最大の地方銀行であり、地域のリーダーとして、今後の明確な
指針を示さなければならない立場なのにも関わらず、このような無責任な態度を
取り続け、未だ遺族らには、何ら謝罪の言葉すら掛けてはいない。
2003年に石巻地区では『宮城県北部連続地震』が発生し、大規模被災したが、
その後、七十七銀行女川支店は、避難マニュアルを高台から屋上へと下方修正した。
その時の事を教訓にしていれば、こうはならなかった筈。 震度5強~6程度の
地震は、石巻周辺ではしょっちゅうあるにも関わらず、その事を全て無かった事に
しています。 『宮城県北部連続地震』の被災地では、地震災害のせいで人口が
5,000人以上も減った。
再度津波が来た際には、企業としてどう対応するつもりなのか、ハッキリと説明を
する義務が七十七銀行側にはあると思います。 それが出来ないのであれば、
七十七銀行が女川に支店など持つ資格などない。
『七十七銀行鎮魂の花壇』は、JR石巻線女川駅から徒歩約10分弱の旧支店を
見下ろす堀切山にある。