連合カナダ植民地と大西洋沿岸諸州の代表が集まり、カナダ連邦の構想が討議
された。 1866年、この会議でまとめられた計画がイギリス政府に提出され、
翌年、イギリス領北アメリカ法を制定した。 カナダ自治領は、下院(選出制)と
上院(任命制)より成る議会制度を採った。 元首は依然としてイギリス国王
であり、国王の代理として総督が置かれた。 よって、自治の権限は拡大
されたが、まだ完全な独立国家ではなかった。

カナダ自治領を結成したのは、オンタリオ(旧アッパーカナダ)、ケベック
(旧ローワーカナダ)、ノバスコシア、ニューブラウンズウィックの4州だった。
ニューファウンドランドとプリンスエドワードアイランドの2州は、加盟を拒んだ。
自治領カナダの初代首相には、カナダ保守党の党首ジョン・A・マクドナルドが
就任した。

これらの政治改革に対して、メティス(フランス系とインディアンの混血)と
呼ばれた農民たちは抵抗した。 メティスは自治領が拡大されて、レッドリバー
植民地周辺の自分たちの農地が脅かされることを恐れたのである。 1869年、
ルイ・リエルに率いられたメティスは反乱を起こしたが、政府軍によって静め
られた。

1870年にカナダ政府はハドソン湾会社の広大な土地を買い入れ、マニトバ州と
ノースウェスト準州をつくった。 1871年に大陸横断鉄道の敷設が計画されると
(1885年に完成)ブリテュッシュ・コロンビアがカナダ連邦に加盟、1873年には
プリンスエドワードアイランドも加わった。

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【カナダ自治領初期】
1873年、マクドナルド政権は、政治献金と鉄道建設をめぐる汚職が元で総辞職
した。 次の選挙では、自由党の党首アレグザンダー・マッケンジーが勝利を
おさめ、首相となった。 新政権は、カナダの自治を一層強化する改革を行った。
だが、経済が行き詰まり、不況を抑えることが出来なかったマッケンジーは、
1878年の選挙で敗北し、再びマクドナルドが政権の座に就いた。

マクドナルドは、先の総辞職の原因となった大陸横断鉄道を完成させなければ
ならなかった。 鉄道敷設に反対していたメティスは、歓声が間近になったのを
切っ掛けに、70年代の末から80年代に掛けて、再び反乱を起こした。 前回の
蜂起のうち、サスカチュワン川流域に移住していたメティスは、鉄道の敷設に
より、カナダ中部への殖民者が増えたため、自分たちの新しい農地から追われる
危険を感じたのである。

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1885年にルイ・リエルが呼び戻され、メティスを率いてノースウェスト反乱を
起こした。 だが、反乱を再び、瞬く間に鎮圧され、リエルは反逆罪で処刑された。

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