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    タグ:大陸

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    中国大陸の国民党政府は、日本に次いで共産党との戦いに直面することとなった。
    ふたつの党は、第二次世界大戦中は、日本を倒すため停戦協定を結び、大戦が
    終わると内戦が勃発した。

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    当初、蒋介石は、共産党より軍事的に優勢だった。 しかし、国民党の軍隊は、
    農民から土地を奪ったり、政府の役人は外国からの支援を着服して私腹を
    肥やしたりしたため、軍事的な優位性も、蒋介石の人気も崩れて行った。

    毛沢東の指揮する共産党は、蒋介石の人気が凋落する間に北部で軍隊の強化に
    勤め、1949年、国民党軍に対して、強力な巻き返しを始めた。

    蒋介石は、敗戦が近いことを悟り、武器、産業物資、政府の財産をトラックに乗せ、
    台湾に移送するよう命じた。 台湾を拠点に共産党との戦いを続けるつもりだった。

    北京では、1949年10月1日に中華人民共和国が成立。 12月になると蒋介石は、
    台湾に向けて大陸を脱出した。 80万人の兵士と200万人の支持者が彼と共に
    渡った。 この亡命集団は、最初から自分たちこそが中国の正当な政府であると
    自認していた。 彼らは、中国大陸を取り返すという目標を達成するために力を
    注いだ。

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    【蒋介石による台湾統治】
    蒋介石の台湾到着は、台湾の大きな変化の予兆であった。 蒋介石は、政府を
    台湾に移したが、台湾の独立は認めなかった。 中華人民共和国も中華民国も
    台湾が中国の一省であると考えは共通していた。 だが両国は、どちらの政府が
    中国を統治するかという点で対立していた。

    この問題では、世界中の国がふたつに割れた。 アメリカをはじめとする国は、
    中華民国の強い反共政策を支持した。 また、ソビエト連邦をはじめとする国は、
    中華人民共和国の主張を支持した。

    この対立の影に、台湾の主人公であるべき台湾住民がいた。 台湾人(1949年
    以前に大陸から来た漢人系移民とその子孫で、『本省人』とも呼ばれる)と先住民
    である。

    二二八事件以来、台湾人と後で大陸から渡って来た中国人(『外省人』とも
    呼ばれる)との間の摩擦は絶えなかった。 台湾人たちは、中華民国に再統一
    されるのが、自分たちのためになるとは信じていなかった。

    独立運動も起こったが、蒋介石は過酷な弾圧を行った。 台湾独立の思想を広める
    ことは、国家反逆罪とされた。 蒋介石は数人の台湾人を政府の役職に就ける
    ことで、こうした対立をある程度治めた。 しかし、国民党は、台湾に厳重な
    統制を敷き、厳戒例を出し、台湾人を支配するために軍隊に大きな権限を与えた。

    1951年、日本は、旧連合国とサンフランシスコ講和条約を締結、この条約で日本は
    台湾の領有権を放棄、台湾は正式に日本の領有を離れた。 経済面では、蒋介石は
    食料生産の増加などに一定の成果を収めた。 台湾の工業力が発展しはじめるのは、
    アメリカから受けた膨大な経済的援助が背景にあった。 1951年から1965年の間、
    台湾15億ドルの主に軍事財政に向けられた経済援助と25億ドルの軍事資金を
    受けた。

    1954年、アメリカと結んだ米華相互防衛条約によって、近代化を進める上で必要な
    安全保障が確保された。 その目覚しい工業発展によって、台湾は1965年までに、
    自力で経済発展の資金をまかなえるようになった。

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    冷戦下での大陸の共産党政権と台湾の国民党政権の対立を前に、香港では、
    その政治的影響を食い止めるための様々な処置が採られた。 1949年5月には、
    社団条例が制定され、香港で活動する全ての社会団体に登録を義務付け、
    政治活動と香港以外の団体の香港支部の活動を禁止した。 これによって、
    香港では、共産党、国民党共に非合法ということになった。 社団条例に
    基づき、1949年11月には、38の共産党系の合唱団、劇団、学会等が解散を
    命じられた。

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    また、戦前の自由往来から転じて、中英国境は封鎖された。 1949年1月の人民
    入境統制条例は、大陸からの反乱を扇動したり、公共の安寧を乱したりする疑いの
    ある者を入境させることを禁じた。 1950年5月1日以降、香港政庁は、大陸から
    香港に入る中国人に対し、香港政庁発給の『旅行証明書』の取得を義務付けた。
    このように、戦後大陸と香港の相互往来は厳しく制限され、両地の分断状態が
    出現した。

    大陸は社会主義大国の、香港は資本主義の植民地統治の下に置かれ、それぞれ
    全く異なる政治、経済、社会の構造を築き上げて行った。 台湾と同様に、
    香港でも、香港・マカオ以外の共産党政権下の中国全土を『中国大陸』や
    『大陸』と呼称して、自身とは区別するようになった。

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    それでも、分断の有無に関わらず、大陸から香港への人口流入は戦後ずっと
    続いた。 終戦時には、60万人であった人口は、良く1946年には100万人を
    回復し、1950年末には、200万人に迫り、その後も、およそ10万人のペースで
    増加が長く続いた。 香港政庁の難民政策は、比較的寛容で、1980年までは、
    市街地にたどり着いた不法入境者は、強制送還しない政策が採られた。 このため、
    合法的な移民のみならず、戦後すぐには共産党と国民党の内戦、中華人民共和国の
    建国後は、大躍進運動や文化大革命等に代表される大陸の政治的混乱から逃れて、
    多くの中国人が難民となって、密航等の海陸の困難なルートを通って香港にやって
    来た。

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