10世紀、唐の崩壊後に起きた中国の内部抗争は、ベトナム人に中国の支配を覆す
機会を与えた。 愛国的な武将、誤権が率いる反乱軍は中国軍を破り、939年に
ベトナムの成立を宣言した。

誤権は、中国に占領される前の王国の首都であったコーロアを都と定めたが、
短命だったので、強力な国家を建設出来なかった。 944年に誤権が死ぬと、
財力のある土豪たちが権力争いに走った。

1009年に、土豪のひとり、李太祖は全土を平定して李王朝を打ち立て、翌年、
首都を現在のハノイに移した。 国名は後に大越(ダイヴェト)と改めた。
李王朝は中国の儒学に基づいて、行政制度を組織し直した。 学生は儒学を
勉強して厳格な採用試験(科挙の制度)に合格しなければ、中央政府の官僚には
なれなかった。

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李王朝時代にベトナム人は、新しい水田が欲しくて南へと移動し始めた。 ベトナム
中部には、チャム族がまだ耕していない土地があったので、チャム族のチャンバ
王国を攻め、その領土を奪って行った。 ベトナム人農民は、沿岸の低地で米を
植えはじめ、技師たちは堤防や運河を建設して洪水を防いだ。

李王朝は、宮廷の高官、陳一族が、一族の幼い男子を李王家継承者の幼女と結婚
させて、陳王朝を築いた1225年まで続いた。 陳王朝は、ベトナムの政治を
発展させた。 洪水から水田を守る公共事業によって、農民は穀物の収穫を
増やしたので、経済は豊かになった。 官僚が行政を握り、仏教が盛んになった。

13世紀後半に、モンゴル(元朝)軍がアジア大陸東部を伝って、大越に攻め入った。
この侵略者を追い返したのが、陳興道将軍だった。 14世紀には陳王朝は、ベトナム
中部のチャンバ王国と軍事衝突を繰り返した。 チャンバ国王が中国に助けを
求めたために、大越は中国に攻撃されて1407年までに独立を失い、中国(明)の
直轄地になってしまった。

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中国の皇帝は上流のベトナム人に中国服を着用するように命じ、また、ベトナム語を
教えることを禁じた。 過酷な中国同化政策は、既にベトナムの反抗を引き
起こした。 金持ちの土豪であるレロイは、抵抗運動を組織し、1427年に
中国人を追い払った。 レロイは大越の皇帝に即位し、ハノイを首都に定めて
黎王朝を打ち立てた。

黎王朝が治めた大越は、政治が安定し、儒教文化の黄金時代だった。 黎王朝で
最も偉大な皇帝黎聖宗は、新たな法律体系を確立し、15巻の大越史の編纂を命じて
いる。 1470年代にはチャンバ王国を併合して、ベトナム領土を南方へ広げて
行った。

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