私の実家は、11年前の宮城県連続地震の際に、周辺地域全てが倒壊し、震度6強
連続4回という史上最大の被災地だったのにも関わらず、被災地指定を外され、
ボランティアがやって来たのは、ものの数ヶ月程度。 人口が少ないという安易な
理由により、被災地指定を外されたため、当然、義捐金は一切届きませんでした。
周りの全ての家屋が倒壊しても、結局は、倒壊家屋の件数だけで判断されてしまうため、
団体様でなければ、日本では、被災も出来ません。

すぐ近所の小学校には、2年間だけ、仮設住宅がありましたが、丸2年間で強制的に
撤去されたため、家の再建が出来なかった人たちは、皆町から出て行きました。
私の実家にも『倒壊判定』の赤紙が張られましたが、私の母親は、避難所には一切
行かず、自宅で過ごしました。 避難所に行くと、食事が貰えたのですが、それすら
貰いませんでした。

その後の余震は、半年以上も続いたため、常に家屋が倒壊する危険性がありましたが、
そのまま家に残りました。 災害時に、被災地指定から外されると、どうなるかと言うと、
倒壊家屋の瓦礫処理が、全て自腹となります。 よって、私達の場合は、瓦礫処理代
として、1件につき、60万~200万円程度それぞれ支払いました。

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近所の神社とお寺も倒壊したため、檀家代として、5年間、毎年5万円づつの寄付を
取られました。 小学校と中学校に対しても、寄付を取られましたが、その見返りとして
貰ったものは、タオル1枚だけ。 その時に、すぐ隣の石巻は、全く無事でした。

大規模な地震が連続であった割には、死者は1人も出なかったため、その後は、全て
忘れ去られました。 大量に死者を出して、4年半以上経過しても、未だ忘れられないのと、
家が無くなっても、ものの数ヶ月間だけで忘れ去られるのとでは、どちらがましなのかと、
常々考えていますが、石巻の人たちに、この事を言っても、殆ど覚えてはいないため、
如何に人事としてこちらの災害を捉えていたかが良く分かります。

東松島と松島は、この時にこちらと一緒に被災したため、当時の状況を良く覚えて
いるのですが、こちら側と石巻との関係が完全に溝になっているのを知っているのは、
地元以外の人間では居ないと思います。 石巻の人たちは、自分たちが一番不幸だと
常々言っていますが、それでは、完全に見捨てられた我々はどうなるのかと、
言い返してやると、何も答えられないのは何故。

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