多言語翻訳GoWest ~多言語のススメ~

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    タグ:大英帝国

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    ジブラルタル海峡を越えて
    船でアフリカ大陸側のセウタからヨーロッパ側のアンヘシーラスへと渡ります。
    どちらもスペイン領のため、国内移動の扱いとなるものの、出国手続きがあるため、
    パスポートの提示が必須です。 ジブラルタル海峡を渡る時間は1時間程度と
    短いため、対岸が完全に見えており、アフリカからヨーロッパへ渡ると言う
    感覚は余りありません。 船内では、甲板に出ることが出来ますが、意外と
    揺れるのと、波が荒いため、気を付けないとかなり濡れます。

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    【ジブラルタル海峡】
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    ジブラルタル
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    ハワイのダイヤモンドヘッドのような山がある場所がイギリス領のジブラルタル。
    ジブラルタルの住民は、主にスペイン語で話していますが、イギリス領のため、
    英語も非常に堪能です。 実際にスペイン語だけで話しているのであれば、
    別にスペイン領にしても良いと思いますが、そこは大英帝国のプライドが
    許さないのでしょう。

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    【ステュアート朝の断絶】
    清教徒革命、名誉革命という2つの市民革命を経て、イギリスの政治体制は
    大きく変わった。 ウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかった
    ため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹のアン女王が即位します。

    アン女王の時代、1707年にイングランドは、スコットランドを併合した。
    また、スペイン継承戦争の戦闘の一つで、北アメリカでイギリスとフランスが
    戦った戦争は、『アン女王戦争』と呼ばれている。 アン女王にも最終的に
    跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、ステュアート朝が断絶した。  

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    【ハノーバー朝の始まり】
    1701年、議会はイングランドの宗教的な対立を終わらせるための法律を可決した。
    法律は、プロテスタントだけが王、あるいは、王女になれることを定めていた。
    1714年に王位は、ドイツの貴族に引き継がれ、ジョージ1世が即位した。 しかし、
    ジョージ1世は、英語が話せなかった。 前の王に近い親戚は、他にも41人も
    いたが、プロテスタントで一番近い血縁者がジョージ1世だったのだ。 これ以降の
    イギリスの君主は皆、ジョージ1世の血を引いている。

    王が外国人ということで、議会は増々大きな権力を有するようになった。 ジョージ
    1世は、自分に代わって政治を行う首相を任命した。 始めての政党が誕生した。
    議員に立候補したり、選挙で投票したり出来るのは、裕福な地主だけだった。
    殆どのイギリス人は、国の運営について意見を言う権利がなかった。

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    【貿易、産業と大英帝国】

    1800年代には、イギリスは、世界最強の国のひとつになっていた。 1837年
    から1901年のビクトリア女王の治世(イギリス最長の在位年数)に、
    イギリスは貿易によって、莫大な富を得た。 アメリカ独立戦争後の1783年に、
    北アメリカの植民地の一部を失ったものの、今やイギリスは、世界に広がる
    巨大な帝国を築いていた。 大英帝国は、カナダ全土、インド、アフリカ、
    カリブ海の大部分と、太平洋のオーストラリア、ニュージーランドを統治した。

    ビクトリア女王の時代、イギリスでは、当時世界で最先端の工業が発達していた。
    それを可能にしたのは、技術の進歩と十分な原料、安価な労働力だった。
    工場での仕事を求めて、人々が移り住み始め、都市部が急激に発展した。
    19世紀には、法律によって、新興の都市も議会に代表を送ることが出来る
    ようになった。 女性に選挙権が与えられたのは、1919年のことである。

    【困難に満ちた世紀】
    20世紀の前半は、イギリスにとって、挫折の時代だった。 何十万もの兵士が
    第一次世界大戦(1914年~1918年)と第二次世界大戦(1939年~1945年)で
    命を落とした。 第二次世界大戦中に、ドイツ軍の爆撃機がイギリスの都市を
    空爆した時には、多くの市民も死亡した。 イギリスには、もはや、世界に
    広がった大英帝国を支えて行く力がなかった。 殆どの植民地が独立した。

    一方、アイルランドでは、イギリスの支配に対する抗議から、今にも内戦が
    起こりそうだった。 1920年にアイルランドは、2つに分裂した。 南部には、
    1922年にアイルランドとして独立し、北アイルランドは、イギリスに残った。

    1960年代に、北アイルランドは、プロテスタント(イギリスとの統合を主張)と
    カトリック教徒(アイルランドとの統合を主張)との対立で、テロ行為が多発した。
    これは、北アイルランド紛争と呼ばれており、ようやく平和が戻ったのは、
    1990年代になってからだった。

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    イギリスは、世界の主要国として、3つの領域で重要な役割を担っている。
    まず、1993年以来、ずっとヨーロッパ連合(EU)のメンバーである。 ふたつ目に、
    その殆どが、大英帝国時代の植民地であった53カ国からなるイギリス連邦を
    率いている。 そして、最も親密な同盟国のひとつであるアメリカと特別な
    関係を持っている。

    こうした役割は、この国の発展の歴史に根ざすものだ。 1500年代から1600年代、
    イギリスは、大西洋の海洋貿易で主導的な立場にあった。 1700年代後半には、
    工業の近代化によって、世界をリードする工業大国となり、1900年代末まで
    その勢いは続いた。 そして、大英帝国を築き、最盛期には、世界の3分の1を
    領土とした。

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    しかし、19世紀に農業が衰退し始めた。 それに続いて、20世紀には、工業も
    力を失い始めた。 現在は、サービス産業が経済の中心となり、イギリスは、
    主要経済大国としての地位を保っている。 福祉国家であるイギリスでは、
    全ての国民が無料の医療と教育、社会保障を受けられる。 しかし、かつてに
    比べて貧富の差が遥かに広がっている。

    イギリスは、政治的には、イングランド、ウェールズ、スコットランド、
    北アイルランドという4つの国からなる連合王国である。 スコットランド、
    ウェールズ、北アイルランドは、それぞれ独自の議会を設立して、自治権を
    拡大して来た。 イングランドでも各地域で議会が設立されているが、
    そのうち、大ロンドンの議会だけが選挙によって選ばれる。

    地理的に見ると、複雑な地質が変化に富んだ地形を生み出し、様々な動物や
    植物が生息している。 雨が多く、風の強いこの島々には、1万年に渡って
    人が住み、その中で現在のイギリスの景観が作られてきた。 森が切り開かれ、
    沼地や湿原は干拓され、畑や道が作られた。 村が出来、そして、廃れ、
    都市や郊外の住宅地が開発された。

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    イギリス人とは、この地にやって来た支配者と移民によって作られた国民である。
    初期に住み着いたのは、ケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、バイキング、
    ノルマン人だった。 産業革命の時代には、アイルランド人がやって来た。
    1950年代から60年代に掛けては、かつての植民地であったカリブ海、アフリカ、
    アジアの国々から移民が、労働力の不足を補った。 その後、難民や亡命を
    求める人達、他のヨーロッパ諸国からの人々もやって来てイギリスの社会は、
    多種多様な文化を持つものとなった。

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    イギリスにとって、最大の遺産は、英語と観光であると言われている。
    英語は、世界の共通語になりつつあるし、 2010年にロンドンを訪れた
    観光客は1,460万人にも及び、1兆円以上の金をロンドンに落とした
    ことになる。 ロンドンを訪れる観光客の最大の目玉は、華やかな衛兵の
    交代式で知られるバッキンガム宮殿である。

    ロンドンを訪れた観光客は、まず始めにこの宮殿の歴史と衛兵の交代に
    見られる伝統の重さを噛みしめてから、繁華街へと繰り出すこととなる。
    その中心地であるピカカデリー・サーカスに立つと、リージェンス
    ストリートの景観が先ず人々の度肝を抜くこととなる。 この周辺の整然
    とした街並みは、古都ロンドンの威厳を示すと同時に、ロンドン子の誇りの
    象徴でもある。

    この通りを更に進むと、オックスフォード・サーカスを経て広大な
    リージェンツ・パークに至る。 反対側に目を向けると、トラファルガー
    海賊の英雄である、ネルソン提督の記念柱がそびえるトラファルガー広場が
    見える。

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    このロンドン観光の中心をなす部分は、その殆どがひとりの国王の手に
    よって造られた。 その国王とは、ハノーヴァー王朝第4代国王である
    ジョージ4世(在位1820~1830年)で、皇太子時代の名前がリージェント
    王子であるため、その功績を讃えてリージェンツ・パーク、リージェント・
    ストリート、ロワー・リージェント・ストリート等の名前が付けられた。

    国王になってからのジョージ4世はが始めたのは、バッキンガム宮殿の
    大改修であった。 バッキンガム宮殿は、英国王室の代名詞のようになって
    いるが、正式に宮殿になったのは、これより後のヴィクトリア女王が即位
    した1837年のことである。

    英国王のロンドン宮殿は、最初ウェストミンスター宮殿、次いでホワイトホール
    宮殿、セント・ジェイムス宮殿と変遷して来た。 バッキンガム宮殿は、元々
    バッキンガム公であるジョン・シェフィールドが1705年に建てた私邸を王で
    あるジョージ3世が1761年に王妃のために買い取ったもので、15人の子供のうち、
    14人がここで生まれ、クイーンズハウスとも呼ばれていた。

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    ジョージ4世は、建築家であるジョン・ナッシュに命じて、バッキンガム
    ハウスを荘厳な宮殿に建てかえることにした。 バッキンガム宮殿の構想が
    現実に向かって動き出すと、これをバネにして、ロンドン各地で色々な動きが
    始まった。 ジョージ4世は、建築だけではなく、芸術や文化にも理解があり、
    1822年に大英博物館が拡張された時も、その翌年にナショナルギャラリーが
    設立された時にも、そのスポンサーになった。 最後の7年間は、ウィンザー城
    に超一流の飾りや調度品を集め、ヨーロッパで最も素晴らしい宮殿のひとつに
    仕上げた。 トラファルガー広場には、ジョージ4世の騎馬像が建っており、
    ロンドン市民を見守っている。

    このような偉大な功績を残したのにも関わらず、ジョージ4世は国民からは
    かなり嫌われた。 父ジョージ3世の残した借金は桁外れで、1793年当事で
    40万ポンドに達しており、借金を棒引きにするために、従姉妹のキャロライン・
    オブ・ブルンスウィックと結婚した。 2人の間には長女シャーロットが
    誕生したが、その3ヵ月後には一方的に別居を宣言して、昔の愛人とよりを
    戻してしまった。

    その後、キャロラインとの仲はもつれにもつれて、国政を巻き込んでの
    大スキャンダルに発展した。 ジョージ4世が全力を傾けて取り組んだ
    バッキンガム宮殿の大改修だったが、ジョージ4世は、その完成を見る事なく
    1830年にこの世を去った。



    ジョージ4世の跡を継いで国王となったウィリアム4世は、長年海軍に所属
    しており、派手好きであった兄とは逆に、質素な性格で、バッキンガム宮殿
    には関心を持たなかった。 ウィリアム4世の死後、姪であるヴィクトリアが
    即位し、完成したバッキンガム宮殿に住み始めた。 しかし、最愛の夫である
    アルバート公が1861年に死去すると、ヴィクトリア女王は公の場を避け、
    ワイト島のオズボーンハウスや、ウィンザー城に住むようになったため、
    バッキンガム宮殿は、40年間に渡って、半ば閉鎖されたようになった。

    跡を継いだエドワード7世の時にようやく活気を取り戻し、増改築を繰り返して、
    ジョージ5世、ジョージ6世、エリザベス女王へと引き継がれて来た。 とりわけ、
    ジョージ6世が第二次世界大戦中にドイツ軍の空爆を何度か受けながら、この
    宮殿に踏みとどまって決意の程を見せた話は有名である。

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