2018年で150周年を迎える戊辰戦争では、鶴ヶ城こと若松城下での戦いが有名だ。
戦火は会津藩領全域に及んでいた。

ひときわ山深い奥会津は、一時占領されたものの、その地形を生かしてゲリラ戦を
展開。 新政府軍を追い散らし、戦いは会津軍優勢となって行った。 若松城下で
敗戦間近だった時、奥会津では負けていなかったのである。

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奥会津は山深い。 只見川、伊南川の流域は、この2川とそこに注ぐおびただしい
数の支流が山ひだを縦横に縫って、深い谷をつくっている。 そして、それらの
川筋に町や集落が散在する。

奥会津は福島県会津地方の南西部。 柳津町、三島町、金山町、昭和村、只見町、
桧枝岐村、南会津町の7町村を指す。 この町村に、会津若松市の一部、会津美里町
高田地区の大部分、下郷町、更に栃木県日光市の一部を加えた地域が、かつては
天領だった。 南山御蔵入領という。

天領は直轄地だが、南山は長い間、会津藩が幕府に代わって統治する預かり地と
なっていた。 山間で農地が少ないため、米は余り採れなかったが、下野(栃木)と
並ぶ麻の一大産地であり、交易の盛んな土地だった。 その豊かな山河が幕末、
戦火に蹂躙された。 慶応4年(1868年)、会津戦争の時である。

大政奉還の翌年の1月、鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争は、江戸、関東、
上越へと拡大して行き、会津に及ぶ。 戊辰の会津戦争と言うと、若松城の
落城や、白虎隊の悲劇が良く知られている。 しかし、この南山でも、熾烈な
戦いが領内の至るところで繰り広げられた。

それは、幹線道である下野街道、越後街道をはじめ、八十里超、沼田街道など、
若松城下へ向かう道が何本も南山を通っていたからだ。 この交通の要衝、
各街道の入り口を防御することが、会津藩の死活に関わったのである。

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同年閏4月、会津と旧幕府方の連合舞台(東軍)が下野街道を南下し、宇都宮領内で
新政府軍(西軍)と衝突。 西軍が南山に侵攻する。 更に7月29日に越後長岡城が
落城すると、南山が騒がしくなる。

戦況は当初、西軍優位で進んだ。 南山統治の本拠、田島陣屋を奪い、一時は
奥会津をほぼ制圧する。 だが、その直後に東軍は巻き返しをはかり、西軍を
追い立てた。 占拠された田島陣屋を奪還。 更に各所に兵力を展開し、優位を
取り戻すのである。

意外にも、この時の東軍の主力となったのは、屈強で知られる会津藩正規軍では
ない。 領内から集められた農兵を中心とする臨時編成の部隊だった。 しかも、
奥会津での戦いは、9月22日に若松城が落城し、会津藩が降伏した後も、数日間に
渡って続いた。

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