キリスト教は1世紀はじめに、イスラエルのイエス・キリストの教えに基づいて
成立した宗教である。 代々のローマ皇帝は、この宗教を敵視し、厳しい
禁止令を設けて信者達を迫害したが、伝道師達のたゆみない努力により、
キリスト教は、帝国領土内の人々の間に着実に広まり、4世紀には、帝国の
国教として公認された。

ローマ帝国が滅んで、戦乱や侵入が激しくなる最中で、キリスト教は一層の
広がりを見せ、8世紀には、ローマに住む教皇の下、単一の宗教組織としての
カトリック教会が成立した。

この宗教がこの地域に伝えられたのは、西隣りのバンエルンからで、人々は
両地域の境のザルツブルグに寺院を建立した。 798年、ザルツブルグは独立の
大司教管区と定められた。

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この頃、ゲルマン人の一派であるフランク族の皇帝でフランスに君臨していた
シャルルマーニュ(カール大帝)は、領土を東に広げて、788年、この地域を
征服し、ここを『オスト・マルク』 、つまり、『東の防衛線』と名付けた。
東からフランク帝国を攻撃して来るスラブ人やアヴァール人などへの牽制の
意味を持つ名称となっている。 この名称は、後に『エステルライヒ(東の王国)』
と変えられ、オーストリアの正式な国名となった。

814年にシャルルマーニュが死ぬと、相続者達は、帝国の覇権をめぐって争った。
817年オーストリアは、シャルルマーニュの孫ルートヴィッヒの支配する
バイエルン王国の一部となった。 834年にヴァルダン条約が締結されて
相続争いは終わり、ルートヴィッヒは、東フランク王国を創設した。 これは、
現在のオーストリアとドイツのほとんどを含む広大な領域である。

876年、ルートヴィッヒの死後の後継者達の争いで、東フランク王国は弱体化した。
9世紀末、アジア系の遊牧の民マジャール人は、ドナウ川沿いに、スラブ人と
アヴァール人は東と南東から、それぞれオーストリアに侵入し、数多くの都市や
農場を破壊した。 955年、ドイツ王オットー1世は、レッヒの戦いで
マジャール人を破り、オーストリアを独立の領邦、つまり、小国家と定めた。

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