2005年、フランスで起こった移民系の若者を中心とした暴動は、警察に追われた
若者2人が変電所に入り込んで感電死した事件が切っ掛けだった。 暴動は、
フランス全土に広がり、死者が出るに及んで政府は、非常事態宣言を出したが、
暴動が終息する気配はなかった。
長い間、フランスは、移民や外国人を受け入れて来た国だった。 その理由は、
ヨーロッパ中央に位置する地理的条件や、産業革命後の経済成長にある。 最初は、
スペインやイタリアからの移民だったが、20世紀中頃からは、アルジェリア、
モロッコ、チュニジアなど、かつてフランスが植民地としてきた来たアフリカ
諸国を始め、中東、アジアからの移住が本格化した。
背景には、第二次世界大戦で多数の戦死者を出し、人口が大きく減少したことや、
戦後は自動車や建設業など、フランスの高度成長を押し上げた業界の労働力不足
があった。 政府は、経済効率を優先させる政策を採り、移住して来た彼らに
対しては、ほぼ無制限に滞在と労働の許可を与え、不法侵入者の取り締まりも
あまいものだった。
オイルショック後の1974年、当時のジスカール・デスタン政権は突如、就労
目的の移民受け入れ停止を決定する。 その背景には、低賃金など過酷な労働
条件や劣悪な環境の地域の形成、それに移民たちの労働争議が新たな社会、経済、
政治的問題に発展することを恐れたことがあると言われている。
1976年には、『帰国奨励政策』が行われたが、これは、帰国を望む移民たちに
1万フラン(約20万円)を支給することで、本国への帰国を促すものだった。
1981年、ミッテラン大統領の誕生で、既に入国している移民については一層の
権利の確立が保障されたが、その後の議会で、右派が過半数を占めると、権利の
縮小や、1993年には改定移民法、国籍法修正案によって、入国も滞在した場合の
保護も大幅に制限された。 また、1997年の移民法は、滞在許可証の更新を
認めないという、更に厳しいものとなった。
21世紀初頭、世界を襲った経済成長の鈍化や同時不況は、フランスでは、
移民たちとフランス人との間で新たな摩擦を生むことになった。 移民の多くは、
3K(きつい、汚い、危険)と呼ばれる職場で、しかも、低賃金の仕事しか
貰えない。 にも関わらず、移民達が自分達の仕事を奪っていると考える
フランスの若者達は、彼らの排斥に向かう。 こうした風潮の高まりが、大きな
社会問題となって来ている。
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