ダイバーシティ(diversity)とは、『多様性』という意味の英語である。 多民族からなる、
巨大移民国家のカナダにおいては、この『ダイバーシティー』と『マルチカルチャー』が、
国家挙げてのスローガンとなっている。 現在、多くの自称国際企業が、この多様性に
対応するための啓蒙活動や、推進に取り組んではいるものの、とある比較文化学者の
話によれば、『日本は同質性を重んじる文化』であるらしい。

そもそも、日本社会においては、『異なる事は悪い事』という価値観によって、既に大方
牛耳られており、日本語の『違なる』という単語は、『different(異なる)』の意味と、
『wrong(正しくない)』の両方の意味があるため、この時点で、かなり排他的な社会を
象徴していると言える。 このような社会的な風潮は、どこから来ているのかと、考えて
見たことろ、その原因は、単一言語しか話せない『モノリンガル』から来ているという
結論に達した。
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「多様性」は、皆の支えで、守られています

元々、同じ1つとされている日本語ですら、それぞれの『お国訛り』が存在している筈なの
だが、長年、テレビやラジオのメディアに『標準語』をゴリ押しされ続けた結果、そんな
些細な違いすら許されない状態と相成りました。 よって、日本では、基本的に、自分の
身の回りには、『異なるもの』というものが、存在しないため、『何もかも同一』が絶対条件。
そうでない場合は、安心しておちおち眠れませんw そもそも、あなたと私は、全く異なる
固体の筈であるべきところなのだが、何が何でも『同一』を維持したいがために、その
排除を目的とした、『イジメ』が頻繁に起きます。 この排他的な風潮は、『孤立』を極端に
恐れ、尚且つ、その場をまとめる側の『責任』をも省いた結果の成れの果て。

軍隊のように、何もかも、全て団体での行動しか許されず、『協調性』などと言う、縛りに
よって、グルグル巻きにされた挙句の果てに、都合の良い使い道が見つからない場合は、
その簀巻きにされた常態で、海へと平気で投げ捨てられますw 『団体行動』、『団体責任』
と声高々に叫んでいるその割には、有事の際には、団体のまま、平気で見殺しにされます。
『横断歩道、皆で渡れば、怖くない』の標語は、今では、『三途の川も、皆で渡れば、怖くない』
という修羅場へと変貌を遂げ、個性のひとつすら認められない『恐怖社会』へと落ちぶれ
果てました。

そもそもが、相手を認めない人間は、自分も認めれない。 相手を受け入れない人間は、
自分も受け入れられない。 相手を褒めない人間は、自分も褒められない。 相手をけなす
人間は、自分もけなされます。 これを、『因果応報』と申します。 種々雑多なものを
受け入れ、理解する『ダイバーシティ』を、日本人が真に理解、賛同し、推進するのは
簡単な事ではない。 その第一歩が、外国語の習得なのではないだろうか。 
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お台場ダイバーシティーw

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