リトアニア大公国によるキエフは、約2世紀続いたが、リトアニアの支配下に
入っても、かつでのキエフ公達のような軍事力の抑えはなかったので、キエフが
安全になった訳ではなかった。 特に、1416年と82年には、クリミア半島に
本拠地を置くタタール人の軍勢がキエフを襲い、大規模な略奪を行った。 記録に
残っているだけでも、1450年から1586年の間に、大小86回もの襲撃、略奪を被った
というから、3年に2回の割合で被害を受けていたことになる。 大平原の真っ只中に
丸腰で立っているような不安定な時期であった。

リトアニア大公国がポーランド東部にあるルブリンの町で条約を結び、ポーランド
王国と同君連合に入ったのは、1569年のことである。 この結果、キエフを含む
ウクライナは、事実上、ポーランドの支配下に入った。 信仰の点で寛容だった
リトアニアの公やその代官達とは異なり、カトリックを固く信じるポーランド人が
政治上の新しい主人として現れたことは、様々な点で大きな影響を及ぼすことと
なる。

PolishLithuanianCommonwealth

それは、まずキエフの住民の上層部がカトリックに改宗するという形で現れた。
ウクライナの中でも、ポーランドに近い西部の住民達の場合には、正教の
信仰を持ち、従来の正教風の儀式を行いながら、ロシア正教会の管轄を離れて、
カトリック教会の傘下に入るという変則的な自体が生じた。 1596年に現在の
ベラルーシのブレストにポーランド支配下にある教会の司祭達が集まり、ギリシャ
伝来のビザンチン式典礼を保持したまま、ローマ教皇の首長権を認めることを
決議した。 これは、教会合同と呼ばれ、これに属する人々が合同派である。
このグループの処遇を巡っては、現在でも尚、ロシア正教会とカトリック教会との
対立が続いている。

モスクワ総主教とローマ教皇の会合が2016年02月13日までなかなか実現しなかった
理由は、これが原因であると言われている。 キエフのソフィア大聖堂すら、16世紀
には一時的に教会合同派に属していたことがあった。 このように、ポーランドは、
宗教上の相剋という複雑な関係を引き起こしたけれども、他方で、それまで正教圏
には知られていなかった西ヨーロッパ世界の進んだ文化をもたらすという役割を
演じたのも事実である。

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