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    タグ:台湾

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    1684年、清朝は台湾を福建省の管轄下に置き、統治を開始した。 しかし、
    その統治は軍事的に重要な澎湖諸島の安全保障と、台湾が将来、海賊や反乱者の
    拠点とならないようにするため、という消極的なものであった。 そして、
    その統治区域は、台湾全土には及んではいなかった。

    taiwanjyuumin


    オランダと鄭経が労働力と課税人口を増やそうと努力し、何十万人にも達して
    いた漢人の移住民を清朝は減らそうとさえした。 妻子のない移住民は、
    強制的に故郷へと戻し、新たな移民には厳しい制限を設けた。 しかし、
    中国大陸から次々に移民が渡って来た。

    殆どは中国南部の農村地帯からの人々であった。 そこは人口が過剰ぎみで、
    自分の農地を求めて密航の危険を犯して、台湾へ渡って来たのである。 彼ら
    農民たちは、島に渡るとすぐに土地を耕し始め、未開地は耕作地へと変わって
    行った。 1684年から1735年の間、農民たちは北西沿岸沿いの広い地域と
    南部の広大な土地を開墾して作物を植えた。

    しかし、この新田によって先住民たちは土地を奪われ、沿岸地域から内陸部へと
    押しやられた。 その反面、移住民と通婚するなどして一族諸共漢人化して行く
    先住民もあった。 一方、清朝の役人たちは、島の開発には興味がなかった。
    3年間の任期中、不法な手口を使ってでも自分の財産を増やすことに精を出し
    たのだ。 官僚の汚職がはびこり、台湾は無法地帯となって強盗や社会不安が
    日常化した。



    農業生産高の向上やサトウキビ、茶の輸出などで経済は次第に発展したが、
    利益は役人と商人に吸い取られ、一般の住民はますます不満感を高めた。
    1700年代から1800年代半ばまでに15回もの大きな反乱が起こり、小さな暴動は
    もっと頻繁に発生した。

    発展と混乱の続く1800年代中頃、貿易の拠点など台湾の商業的価値に目を
    付けたイギリスとアメリカは、台湾の占領を狙ったが、実現はしなかった。

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    16世紀になると、多くのヨーロッパ人達がアジアへ来るようになった。
    16世紀半ば、台湾の沿岸を航海していたポルトガル人は、『イラ・フォルモサ!』
    と叫んだと言う。 『麗しの島』という意味である。 そして、その後の
    数世紀の間、ヨーロッパ人達は台湾をフォルモサと呼んだ。

    17世紀になると、東インド会社を設立したオランダも、中国や日本との貿易の
    ために拠点づくりに乗り出した。 1624年に台湾南西部の安平(今の台南付近)に
    上陸。 その地に数年掛りでゼーランジャ城を完成させたのである。



    安平を拠点としたオランダは、台湾での貿易を独占しようと、まず日本の商人を
    締め出した。 これに対して、1626年、武装した日本の商人がゼーランジャ城に
    攻め入る等、激しく対立した。 しかし、やがて日本は鎖国し、海外貿易の多くを
    オランダに委ねて行く。

    一方、スペインも台湾北東部に拠点を置くことを目指し、1626年に上陸、ふたつの
    要塞を築いた。 だが、15年ほどすると、彼らはアジアに持っていた他の植民地の
    混乱平定に力を振り向けざるをえなくなった。 この機に乗じたオランダは、
    ライバル、スペインをこの島から追い出した。 1642年には、台湾に居る
    ヨーロッパ人は、オランダ人だけとなった。

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    【オランダ統治時代】

    オランダは、台湾が植民地としても有望だと考えていた。 サトウキビの栽培を
    奨励し、島に多いクスノキから、アルコール等の原料となる樟脳を採取する方法を
    先住民や移民達に伝えた。 そしてオランダは、ヨーロッパや日本等アジア地域の
    国々を相手にして中国製品を取引する一大貿易地として、台湾を成長させた
    のである。

    オランダ東インド会社は、北西部にある桃園に交易場を設け、現地で取れた鹿皮、
    砂糖、籐を中国や日本から来た商人に売った。 ヨーロッパ人はここで中国製
    陶磁器を仕入れ、中国はヨーロッパやその植民地からの胡椒、亜麻布、錫、
    習慣性のある麻薬、アヘンを買った。



    より多くの労働力を手に入れるために、オランダは中国大陸から台湾への移民を
    奨励した。 新しい農産物や家畜を用いて、農業のやり方を改善させた。
    オランダから来た宣教師は、先住民の一部をキリスト教に改宗させ、新しい
    信仰を先住民に教えるために学校を建てた。

    オランダは、先住民の伝統的な風習をヨーロッパ式に変えさせ、労働者に過酷な
    税を課して働かせた。 そして、先住民と漢人の移民を鎮圧するため、時に暴力や
    武力を用いた。 これには漢人らが強く抵抗し、その最大のものが1652年の
    反乱である。 約1万5,000人の台湾に住む漢人がオランダ人の住居等を襲撃
    したのだ。 しかし、棒切れ程度の武器しかない反乱者達は、2週間足らずで
    敗北する。 戦死とその後の虐殺で、反乱者の3分の1程度が死亡した。

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    宋王朝は最終的に、モンゴル帝国を築いたフビライ・ハーンによって滅ぼされた。
    1279年フビライ・ハーンは、元王朝を建て、1292年と1297年に、台湾の住民を
    従えようと遠征軍を送ったが、成功しなかった。 これ以後、澎湖諸島に住み着く
    漢人も増え、やがて漢人の官僚が統治することになった。 澎湖諸島は、元王朝の
    辺境の地となったが、先住民と交易するだけで、島には定住しなかった。

    16世紀ともなると、福建の漁民や貿易商人は、漁場や交易の地としての台湾の
    価値に目を向けるようになっていた。 しかし、1368年、元に代わって中国
    大陸を支配した明王朝は、台湾島を中国の一部とはみなしていなかった。

    SpanishTaiwan

    【倭寇と移民】
    15世紀、澎湖諸島の他の台湾島に拠点を置く貿易商人も居た。 次第に海賊と
    化した武装商人団もあって、16世紀になると、海賊事件が増えた。 商船の
    船荷を奪ったり、中国大陸の沿岸や朝鮮半島南端を襲撃したのである。 漢人が
    中心だが、日本人や朝鮮人も居た。 14世紀半ばから15世紀に掛けての日本人を
    中心とした海賊が倭寇と呼ばれたのにならって、やはり、倭寇と呼ばれた。
    漢人の海賊の中では、林道乾と林鳳が最も有名である。 彼らは、16世紀中頃に
    暴れ回った海賊で、いずれも台湾に拠点を作った。

    海賊が出没する一方で、貿易も盛んで、商人は陶磁器、布、塩等の積荷を、
    台湾で鹿皮や魚等と交換した。 鹿皮は、日本へも運ばれた。 日本の戦国
    武将が身に付けた鹿皮の陣羽織は、台湾の皮で作ったものである。 また、
    貿易での利益を当て込んで、福建省から台湾への移民も増えた。 当時、日本も
    台湾との貿易には関心を持っており、日本の商船が出たり、豊臣秀吉が1593年には
    台湾の『高山国』に宛てて書簡を出したりしている。

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    台湾の人口の3分の2は都市部に住んでおり、その中でも人口が多いのが台北市で
    ある(人口約270万人)。 台湾北部の都市、台北は、新店渓、淡水河の合流地点に
    位置した行政と産業の中心地である。 1949年以来、台北は中華民国の首都にも
    なっている。

    台北で有名な施設のひとつに国立故宮博物院がある。 ここには1940年に中国
    大陸から運び込まれた数十万点にもおよぶ中国の文物が所蔵されている。 市立
    美術館も数多くの芸術作品を所蔵していることで知られており、油彩、彫刻等の
    作品が展示されている。

    taipeiyakei

    台北の淡水河沿いの大稲埕は、元は平地先住民(平埔族)の村だったが、18世紀
    はじめに漢人も移り住み、やがて物流と貿易の町として発展した。 1875年には、
    台北北部の主要都市として発展した。 1875年には台湾全土の政治の中心地
    となった。 更に、日本の統治下(1895~1945年)で台湾は大きく発展する。

    現在、台北と周辺の工場では、コンピューターおよびその関連製品をはじめ
    として、様々な工業製品が作られるようになった。 また、台北は、西部沿岸を
    走る鉄道(縦貫鉄道)のターミナル駅であり、国内線の空港があり、国際線の
    空港や、主要都市へ繋がる高速道路の起点ともなっている。



    台湾第二の都市高雄(人口約278万人)は、2010年12月に高雄県を合併したため、
    台北を抜いて、人口では台湾第一の都市となった。 その東にある鳳山に漢人が
    住み着いたことに始まる。 オランダの当地を経て、17世紀に鳳山の外港として
    港が開かれてから、街として発展した。 もとは打狗(ターカオ)という地名で
    あったが、日本の統治時代に音を合わせた高雄となった。

    やがて高雄は台湾を代表する港湾都市となり、また、台湾最大の海産物市場がある。
    国内線、国外線の空港があり、鉄道と高速鉄道のターミナルにあたる高雄は、
    鉄工所、製鉄所、造船所、製油所等がある重要な産業の中心地でもある。

    中西部にある台湾第三の都市、台中市(人口約275万人)は、もとは平埔族の地で、
    18世紀から漢人が住み着き、やがて発展して19世紀には一時台湾府が置かれた。
    1967年には、台中港が建設され、工業都市としても重要な都市として位置づけを
    されるようになった。



    台湾南部の都市、台南市(人口約189万人)は、最も古い歴史を持つ街である。
    15世紀には、中国大陸や日本の海の商人らの出入りする港町、安平であり、
    1624年にオランダ人が上陸して以降、200年余り、台湾統治の拠点であった。
    日本統治時代の公共建築物や孔子を祀った廟等、多くの歴史的、宗教的な建造物が
    残っており、今でも台湾の文化の中心地となっている。

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    いくつかの点で、台湾の歴史は中国の歴史と切り離すことが出来ない。
    台湾が経験して来た多くの変化は、中国で起こった出来事が原因である。
    とは言え、強い海流、予想のつかない天候変化、台風と言った航海上の危険を
    伴う台湾海峡によって、ふたつの地域の間では、何世紀もの間、大きな人口
    移動が妨げられて来た。

    石器や土器等の考古学的発見によれば、2万年前、台湾には旧石器時代の
    現代人に繋がる人類が住んでいた。 一部の学者は、こうしたヒトは、中国が
    起源だと言う。 また、別の学者は、東南アジアのマレー半島辺りから渡って
    来た最初の移民だと考えられている。 起源は、いずれにせよ、この頃の人々は
    低地一帯だけではなく、深い山林にも住んでいたのは確かである。

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    【初期の歴史】
    台湾に関する中国・唐時代の記録によれば、漢人とは、この島を流求と呼んだ
    と言う。 後に、琉球と字が変わった時には、沖縄の事を表し、台湾は、小琉球と
    呼ばれた。 また、6世紀はじめに隋の皇帝が兵を送っている。 その頃住民は、
    木を切り倒し、それを焼き払って農地を開墾し、イネ、アワ、マメ等の穀物を
    植えていた。 島には階級支配制度があり、1人の指導者と、何人かの副指導者が
    治めていた。 敵の頭を切り落とし、勇気の証拠として飾る首狩りの風習もあった。
    隋の兵は、彼等を数千人も捕虜にして連れ帰り、以後は関係が絶えたと言う。

    960年から1279年まで続いた宋の時代、近くの膨湖諸島へ渡る者もあった。
    宋代の貨幣や陶器のかけらが膨湖諸島で発見されたことから、島へ渡るように
    なったのは、11世紀頃から考えられる。 島の近海で獲れる豊富な魚にひかれて
    漁師が渡ったのかも知れない。 台湾まで探検する者も居たことであろう。

    13世紀、台湾と膨湖諸島への探検は更に盛んに行われるようになった。 この頃、
    中国北部の勇敢な民族であるモンゴル人が南下し、宋王朝を現在の浙江省にある
    杭州にまで追いつめていた。 南シナ海に面する江南に移った宋の政府は、造船
    技術の向上を支援し、南海貿易を奨励した。 また、船乗り達は、磁気針を水に
    浮かべて、方位を測定する方法を用いて、中国大陸と台湾の間の海域をより正確に
    航海出来るようになった。 水針は、後の明の時代に羅針盤に発展する。 こうした
    航海術の向上が海上交通を盛んにしたのである。

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    中国大陸東南沿岸部の沖に浮かぶ島である台湾は、今大きな経済力を持つまでに
    発展し、世界中の市場に加工品を輸出している。 20世紀中頃までは、台湾の主な
    産業は農業であった。 島とは言え、台湾には豊かな歴史と文化がある。 17世紀、
    ポルトガル人から『フォルモサ(美しの島)』と呼ばれたこの島は、一部が
    オランダ、次いで清朝の統治を受けた。 やがて、日本と清朝との間に戦争が
    起こり、1895年には 大日本帝国の領土となる。 そして、1945年には、
    中華民国政府が台湾を統治するようになった。

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    その後、中国大陸で起きた大事件が、台湾に大きな影響を与える。 中華民国の
    国民党軍と中国共産党軍との衝突が、中華民国政府の安全を脅かしたのである。
    1949年、蒋介石を首脳とする中華民国指導部は、中国全土を支配した共産党軍から
    逃れ、蒋介石は台湾に渡り、亡命政府を置いた。 そして、1949年には、
    共産党が、中国大陸に中華人民共和国を樹立する。

    国民党が来てから台湾住民は、新たな混成となった。 最大グループは、台湾人で、
    過去数世紀の間に島に移り住んだ漢族の子孫だけが、多くは先住民との混血が
    見られる。 1949年前後に大陸から来た人々も漢族だが、別のグループとなって
    いる。 そして、最も少数派は、台湾原住民と呼ばれる、この島の先住民の
    子孫である。



    台湾と中国大陸との両政権は共に、台湾は中国の一省であり、中国は統一すべきで
    あるという考えを掲げて来た。 だが、統一実現後の政治体制についての考えには
    大きな隔たりがある。 また、独自の道を歩むべきとの考えも台湾では根強く、
    両者は台湾海峡を挟んで対峙が続いている。

    国際連合は長年、中華民国を中国を代表する政府として支持していたが、1970年代
    には、国連加盟国の多くが、中華人民共和国を承認するようになった。 中華民国は
    国連から脱退し、外交関係を持つ国は30カ国足らずである。

    この挫折にも関わらず、台湾の経済成長は1950年代以来、高水準で続き、1970年代
    後半には、アジア最高水準の人々の生活を実現するのである。 更に、その経済力を
    背景に、台湾の政府は、国際関係で積極的な活動を続けた。 台湾は外交的に
    不遇とは言え、日本等多くの国と経済的、文化的な交流を維持している。

    asiamap

    1988年1月、父親蒋介石の後を継いだ蒋経国が死去し、副総統だった李登輝が
    台湾出身初の指導者になった。 李登輝は民主化を進め、1996年国民による
    初めての直接選挙で総統に選ばれた。 それに継ぐ2000年の総統選挙では、
    野党の民主進歩党から出馬した陳水扁が総統に選出され、国民党は野党になって、
    平和的な政権交代が実現した。

    陳水扁政権は、台湾本位の政策を進める政権としてスタートする。 しかし、
    中華人民共和国は、軍備の拡大や経済面での締め付け等で統一への圧力を
    高めている。

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    香港は、『借りた場所で借りた時間を』過ごしていると言われる。 イギリスが
    1898年に新界を租借した際、その期間は99年間とされた。 すなわち、1997年
    以降、香港の地位がどうなるかについては、長い間議論がなされていなかった。

    1970年代になると、香港の将来問題が本格的に浮上して来た。 1971年着任の
    クロスフォード・マクルホース香港総督が、香港の社会福祉を急速に拡大した
    背景には、1967年の香港暴動に対する反省も言われるが、新界租借期限が迫る
    中で、中国よりもあらゆる面で優れている統治を行い、中国との交渉を有利に
    するためという、イギリスの外交政策の目的のためでもあったという。

    20092

    イギリスは、1997年以降も香港の統治を続けることを希望していたが、中国は、
    香港の回収を目指した。 1971年11月、中華人民共和国は長年の努力の末、台湾の
    中華民国に変わって国連代表権を得た。 すると翌年1972年3月んみ、中国は
    香港について、イギリスに占領された中国の領土であるとの立場を明確化し、
    国連の植民地リストから香港とマカオを削除するよう求めた。 1979年3月、
    マルクホース香港総督は初めての香港総督の公式訪問という形で北京を訪問したが、
    その際、中国の最高指導者であった鄧小平は、イギリスの香港統治の継続を明確に
    受け入れることはせず、香港を回収する可能性をほのめかした。 しかし、
    マルクホースは、香港の動揺を恐れ、香港に戻ると『投資家は安心して良い』
    という鄧小平の伝言のみを発表した。

    g665

    中国はこの頃、台湾問題の解決の手段として、社会主義中国の中で、一部地域に資本
    主義の政治、経済、社会等の体制を残すという『一国二制度』方式の原型を構想し
    初めていた。 1979年元日、中国はアメリカとの国交を正常化した。 これと
    同時に、中国は台湾に対して、『台湾同胞に告げる書』と題する公開書簡を発表し、
    台湾問題の平和解決、現状を重視した現実的な統一政策を提案していた。

    1982年に改正された新憲法では、特別行政区を設置出来るとの条項が追加された。
    台湾の統一問題が進展しない中、中国はまず香港で『一国二制度』を実践し、これを
    モデルケースとして示すことで、台湾を統一に導こうと考えたのである。

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    台湾には、幾つかの怪奇なスポットがあるのだが、今回は、高雄周辺にある
    2つのお勧めスポットをご紹介します。 この両スポットは、偶然にも、
    高鐵左営駅からどちらも行くことが出来ます。 台北から新幹線で到着するのが、
    左営駅なので、ちょっと足を伸ばして、怪奇スポットへの小旅行も良いかも
    知れません。

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    【仏光山仏陀紀念館】

    台湾4大仏教宗派のひとつである仏光山の総本山にある、『仏光山仏陀紀念館』は、
    見るからに怪しい、非常に魅惑的なスポット。 高鐵左営駅から、バスで、
    50分前後掛かるのだが、一度はその目で実際に見る価値があると思う。 広大な
    敷地の中には、八塔、大仏、霊山、祇園があり、本館では、『仏陀の一生』を
    11分で紹介する飛び出す4D映画(全て中国語)や、写経をする場所などがある。
    本館の先には、台座を含めて、総高108メートル、総重量1,780トンもの巨大な
    大仏が鎮座しており、その姿は、正に荘厳。 礼敬大庁内には、台湾唯一の
    ベジタリアン向けセブン-イレブンとスターバックスも入っている。

     

    【左営蓮池潭】
    市街地から北に約10キロの左営区にある面積約7ヘクタールの淡水湖。 バスを
    降りると、すぐに龍虎塔が見えてくる。 トンネルになっている龍と虎の内部には、
    仏教伝説の壁画が描かれている。 湖岸に沿って更に歩くと、中華風な塔や寺廟
    (孔子廟・龍虎塔・春秋閣等)が立ち並んでいる。

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    左営蓮池潭は、周囲約1.4キロの湖で、高雄では、有名な観光スポットの一つ。
    湖の北側にあるのが、孔子廟。 タクシーでこの場所へ行く際には、高鐵
    左営駅側から降りると、かなり遠回りをするため、タクシー代がかなり割高
    となる。 高鐵駅側の一階からタクシーに乗ることをお勧めします。 台湾では、
    一番良い動物=龍、一番悪い動物=虎と信じられているため、龍の口から入り、
    虎の口から出てくると、災いがなくなり、福が来るのだとか。





    台湾 高雄の思い出
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    台湾南部最大の都市、高雄から、台湾新幹線で台南へと向かいます。
    台湾新幹線の高鐵高雄駅は、通常の台鐵の名前では、『左営駅』となっており、
    台鐵の『左営駅』のすぐ隣の駅。 台鐵の名前では、『新左営』となるため、
    非常に分かりづらい。 これと同じで、新幹線の高鐵『台南駅』は、台鐵の
    名前では、『沙崙駅』。 どちらも在来線の高雄駅と台南駅とは異なるため、
    両駅とも『新左営駅』と『新台南駅』にすべきなのでは。 台湾新幹線に
    乗車する際には、注意が必要。 尚、高鐵左営駅から高鐵台南駅までは、
    11分程で到着するが、在来線の台南駅までは、そこから、15分程度掛かる。



    台湾南部にある主要都市、台南は、人口188万人を抱える台湾第4の都市。
    かつて、台湾政府が200年以上も置かれため、古くから行政の中心地であった。
    城壁に囲まれており、古都のたたずまいを今に残している。 オランダ軍が
    建設した赤嵌樓、孔子廟、台湾府城隍廟(タイワンフジョウコウビョウ)など、
    歴史ある建物が多く、その多くは台南駅から徒歩で回ることが出来る。



    【赤嵌樓】(セッカンロウ)
    台南市街地域で一番歴史の古い史跡で、1653年に台湾南部を占領した
    オランダ軍によって建てられ、プロビデンシャ城(紅毛城)とも呼ばれた。
    1661年に鄭成功がオランダを駆逐し、この街を承天府と改名、政治の中心地
    とした。 1862の地震で楼閣は全壊し、その後、基台の上に文昌閣と海神廟が
    建てられたが、日本統治時代に一部取り壊されるなど、台湾の波乱の歴史を
    生き抜いてきた。 レンガで出来た城門と基台は、オランダ統治時代のもの。

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    【孔子廟】

    1665年に創建された、台湾最古の孔子廟。 南門路沿いの門に掲げられた
    『全台首学』の文字からも、台湾における儒学の発祥の地であったことが伺える。
    緑に覆われた敷地内は、市民の憩いの場にもなっている。 全部で15ある建造物の
    ひとつ以成書院に、大正12年に皇太子時代の昭和天皇が訪れた際の写真がある。

    IMG_0267

    【祀典武廟】

    大関帝廟とも呼ばれ、台湾の関羽を祀った関帝廟の総本山として知られている。
    かつて、明末鄭氏政権時代は、寧靖王の王府、神明庁であり、廟内に祀られている
    武聖関公(関羽)は、『恩主公』と敬われ、あつく信仰されている。 主殿は
    高くそびえ、台湾で最も保存状態の良い古廟のひとつでもある。

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    【大天后宮】
    台南大媽祖廟とも呼ばれる。 1664年に建てられ、元々は、明朝王族の末裔、
    寧靖王朱術桂の府邸であった。 鄭氏政権の崩壊後、媽祖廟に改造され、
    大天后宮と名を変えた。

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    【延平郡王祠】
    延平郡王祠は、1874年に大臣沈葆禎が明朝廷に願い出て創建された。
    鄭成功を祀る廟。 鄭成功の一生についての展示もある。 日本統治時代に、
    日本の神社と寺院建築を模して改築され、『開山神社』という名前も付けられた。
    敷地内にある鄭成功文物館は、鄭成功の生い立ちなどを紹介している資料館。

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    【台南の思い出】
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    高雄から台湾鉄道に乗って、更に南にある屏東を目指します。 屏東は、
    台湾南西部の大部分を占める屏東県の中心都市で、三地門や多納付近には、
    台湾の原住民が多く住んでいる。 屏東観光は、19世紀の城跡である
    『恒春古城』や『観光夜市』が有名なのだが、やはり、台湾原住民の生活を
    学べる『台灣原住民文化園區』は外す事が出来ない。 屏東駅からは、若干
    遠いのだが、それで、そこまで行く価値は十分ある。



    屏東駅前にあるバスターミナルから、約50分程で、三地門にある
    『台灣原住民文化園區』へと到着。 ここに住んでいるのは、主に、
    パイワン族とルカイ族だが、この『台灣原住民文化園區』では、この他の
    14民族の紹介や、ショーも見ることが出来る。 台湾の原住民は、元々は、
    ポリネシア系住民であったのだが、17世紀に入り、スペインやオランダ、
    または、中国大陸からは、鄭氏、清王朝らが次々と入って来て台湾を統治した
    ため、統治者が次々と代わった。 その後、17世紀後半からは、多数の
    漢民族が入って来たため、原住民達は、マイノリティーとなり、その殆どは、
    山間部等の僻地に住むようになった。



    日本統治時代、また、第二次世界大戦後の中国国民党政権の支配により、
    それぞれ同化(日本化、中国化)を強いられたため、原住民達の伝統や
    文化は、大きな影響を受けた。 その後の台湾の目覚ましい経済発展により、
    原住民の若者達は、都会を目指すようになり、原住民の村は過疎化が進んでいる。
    しかし、その一方で、1980年中頃から原住民の間で自らのルーツを忘れては
    ならないという意識が高まり、原住民出身の知識人を中心に権利、自由の回復
    運動が高まった。 自らのアイデンティティーを問うた文学活動も展開され、
    音楽やスポーツ界でも原住民出身のスターが活躍している。 また、台湾独立の
    気運が高まると同時に、台湾人のアイデンティティーの模索が始まり、文化的な
    ルーツの一部を原住民の文化に求める動きも目立って来た。



    【台湾原住民】
    • アミ族(阿実族)
    • パイワン族(排湾族)
    • タイヤル族(泰雅族)
    • ブヌン族(布農族)
    • タロコ族(太櫓閣族)
    • ルカイ族(櫓凱族)
    • プユマ族(卑南族)
    • サキザヤ族(撒葉雅族)
    • セディック族(賽德克族)
    • ツオウ族(鄒族)
    • サンシャット族(賽夏族)
    • ヤミ族(雅美族)
    • グヴァラン族(葛瑪蘭族)
    • サオ族(邵族)
    • サアロア族(拉阿魯哇族)
    • カナカナブ族(卡那卡那富)


    高雄最大の夜市、六合夜市の様子。 夜中の1時まで屋台での販売を行って
    いるため、夜は非常に活気がある。 様々な食材を販売しているものの、
    観光地化しているため、価格も観光客向けだとか。 よって、他の夜市よりは、
    お値段が若干高め。 但し、交通の便が抜群に良いため、プラスマイナスで
    考えると、断然プラス♪ 一部では、日本語も通じるのだが、高雄全体的には、
    日本語は、ほぼ通じない。 英語もほぼ通じない。

    六合夜市は、地下鉄の美麗島駅の10番出口を出たすぐ目の前にあり、昼間は、
    車専用の道路となっている部分が、夜になると、歩行者に開放されるため、
    このような風景となる。 南国らしく、日本ではなかなか見掛けないフルーツや、
    新鮮な魚介類で溢れています。

    台湾 高雄の思い出
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    2015年11月7日~10日まで、台湾南部の町、高雄へと行って来ました。
    高雄の人口は、都市部だけでも277万人と言われており、首都の台北を抜いて、
    台湾最大の街となっています。 台湾旅行は、これで2回目なのですが、
    高雄への旅行は初めてだったので、非常に新鮮でした。

    日本政府は、中国との関係を重視する余り、台湾との国交を結んでは
    おりませんが、世界で最も親日的な国として、日本人観光客を優しく受け入れて
    くれています。 台北の場合は、日本語の方が英語よりも通じるのですが、
    高雄の場合は、日本語も英語も通じないため、旅の指差し会話帳があれば、
    より旅を楽しめるのかも知れません。 格安LCC航空機も近年色々と登場して
    いますが、台湾までのオススメのLCC航空会社は、やはり、バニラエアーです。



    台湾までのLCC航空会社は、バニアエアーの他にも、ジェットスターと、台湾の
    タイガーエアーがありますが、ジェットスターの場合は、空港への到着時間が
    余りにも中途半端であるため、余りオススメ出来ません。 特に、高雄の場合は、
    バニラエアーが一番利用しやすと思います。 航空運賃も、時期を選ばなければ、
    片道1万円以下で行くことが出来ます。



    台湾最大の街である、高雄の公共交通機関は、とても整備されており、空港のすぐ
    真下に地下鉄が通っているため、中心部や観光地に行くのにも非常に便利です。
    切符の買い方が日本とは異なるため、まず、目的地の料金ボタンを押してから、
    料金を入れ、トークンを券売機にかざして、改札の中へ入りましょう。 地下鉄に
    限らず、台湾の公共交通機関の料金は、非常に安く抑えられているため、
    旅行者にとっては、嬉しい限りです。



    高雄で最も有名な観光地のひとつとなっている、旗津半島周辺。
    旗津フェリーターミナルから、25元を支払い、フェリーへと乗り込みます。
    対岸までは、約5分間の短い船旅ですが、非常に安い料金であるため、高雄市民も
    気軽に乗っている船の旅を楽しみます♪

    この周辺の見どころは、白い灯台、旧英国領事館、西子湾の海岸、テレサ・テン
    記念館等がありますが、特に美しいのは、夕暮れ時で、その時間帯になると、
    この周辺は、カップル達で賑わいます。 対岸には、高雄で最も高いビルである、
    高雄85ビルも見る事が出来ます。



    イタリアのアーティストが制作したステンドグラスが、世界で最も美しい駅
    として評価された、美麗島駅。 中国語で『光之穹頂』と名付けられた直径
    30メートルのステンドグラスは、目を奪われるばかり。 高雄には、この他にも
    世界で5番目に美しいと評価された、『中央公園駅』があり、どちらも、観光客の
    注目の的となっている。 日本では、最近、不景気の煽りなのか、このような
    芸術的なデザインは、余り見掛けなくなったが、経済発展著しい台湾経済を
    象徴しているのか、台湾では、まだまだこのような奇抜なデザインが受けています。



    高雄での宿は、格安のゲストハウス『あひる家』に宿泊しました。 ドミトリーと
    個室どちらもありますが、今回は、そのどちらにも宿泊しました。 日本人
    スタッフが運営しているため、日本語も通じ(時間帯に寄っては通じない)、
    掃除が隅々まで行き届いていて、非常に綺麗な設備という印象だった。 高雄の
    中心部である、美麗駅からも、徒歩3分程度、六合夜市からも徒歩至近距離と
    なっているため、高雄滞在時には、こちらを利用する事を是非ともオススメ
    したいと思います。 但し、場所が、非常に分かりづらいため、ゲストハウス
    真下にある、セブンイレブンを目印にする事をオススメします。 すぐ斜め向かい
    には、早朝から営業している食堂もあります。

    台湾 高雄の思い出
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