多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

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    タグ:占領

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    ドイツに統合されたオーストリアは、ドイツ、イタリア、日本と共に、枢軸国として
    第二次世界大戦に加わった。 相手はイギリス、フランス、ソビエト等の連合国で、
    1941年にはアメリカ合衆国も連合国側に付いて参戦した。

    枢軸国側は何度か勝利を収めた後、敗北を重ねた。 連合国側の飛行機は
    オーストリアを爆撃し、1945年にはソビエト軍がオーストリアに侵入した。
    1945年に戦争は終結したが、戦闘によってオーストリアの多数の都市と産業が
    打撃を被った。 イギリス、アメリカ、フランス、ソビエトの軍隊が領内に駐留し、
    オーストリアを4つの占領地域に分割した。

    第二次世界大戦直前のヨーロッパ
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    カール・レンナーを首班とする臨時政府は、オーストリア第2共和国を創立した。
    政府は各政党の連立によって運営された。 社会党(元の社会民主党)、人民党
    (元のキリスト教社会党)、共産党の3党である。 この連立政府は1960年代まで
    政権を維持した。 共産党はソビエトとの関係が密接だったが、1940年代以降、
    その勢力を失って行った。

    戦後のヨーロッパは東西の両ブロックでに分裂した。 東側ブロックはソビエト
    連邦の影響下に置かれ、西側ブロックでは、第二次大戦に勝った、イギリス、
    フランス、アメリカの3国が主要な地位を占めていた。 オーストリアは
    ヨーロッパの中央部に位置する上、これら4カ国全部の占領下にあったため、
    対立する東西両ブロックの間に挟まれることになった。

    外国の援助と戦後の経済計画の力で、オーストリアはその都市と産業を再建する
    ことが出来た。 労働組合、雇用者側、政府の3者は賃金と物価に関する協定を
    結び、努力して国の経済の回復を助けた。 しかし、戦後の10年間、オーストリアを
    占領している4カ国は、オーストリアとの講和条約について意見が一致しなかった。

    1955年の春、ソビエト連邦は、この国から撤退するにあたっての経済上と政治上の
    条件を明らかにした。 オーストリアはソビエト政府に戦時賠償を支払うことに
    なった。 オーストリアは、また中立政策を採る事に合意した。 将来の軍事的な
    紛争に、一切関わらない決意の表明である。 1955年5月、オーストリアは国家条約に
    調印し、占領4カ国は軍隊を撤退させた。

    1966年、人民党が国民議会の多数党となった。 1970年の総選挙の結果、社会党が
    ブルーノ・クライスキーの下で政権を獲得した。 社会党は1975年と1979年の
    2回の総選挙にも勝利を収めて政権を維持した。

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    1892年、アンドレス・ボニファシオが『カティプナン』(タガログ語で団結の
    意味)を結成した。 カティプナンは秘密結社で、武力によってスペインの
    植民地支配を転覆させようというものだった。

    1896年、3万人のカティプナンのメンバーがスペイン攻撃に立ち上がった。
    しかし、エミリオ・アギナルドを指導者とする軍だけが、反スペインの戦いに
    成功し、1897年ボニファシオに代わってカティプナンの指導者となった。
    スペイン側は領土の大半を奪い返したが、アギナルド軍の鎮圧には失敗した。

    1897年末、アギナルドはスペインと和平条約を結んだ。 アギナルドの亡命と
    引き換えに、3年以内に自治を約束していた。 同年12月、アギナルドは香港へ
    亡命した。

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    一方、スペインの他の植民地でも反乱が起きていた。 カリブ海の島国キューバが
    スペインから独立を宣言すると、アメリカはこれを支持した。 この結果、
    アメリカとスペインは1898年初め、米西戦争を戦った。

    戦争の報償はフィリピンだった。 1898年4月、ジョージ・デューイ准将は
    アメリカ海軍を率いて香港からマニラ湾に入り、スペイン海軍を破った。
    アギナルドは香港から戻り、カティプナンを率いてスペインと戦った。

    カディプナンの支持のお返しに、アメリカ政府はフィリピンの独立を約束した。
    アメリカとカティプナンの連合軍は、1898年8月、スペインを敗北させた。
    その年の後半、アメリカとスペインは戦争を終結、パリ条約を結んだ。 条約の
    下でアメリカはフィリピン、グアム、プエルト・リコを獲得、スペインには
    2000万ドルを与えた。

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    多くのフィリピン人にとって、アメリカの占領はスペインの植民地支配と
    比べても、状況は改善されなかった。 アギナルドや多くのフィリピン人は
    アメリカに抵抗した。

    いかなる形の植民地支配も拒否し、アギナルドは1899年に独立を宣言した。
    1901年に逮捕されるまで、彼はアメリカに対する武力闘争を指導した。 その後も
    アギナルドの軍隊はしばらく戦い続けた。

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    香港にとって、日本は間違いなく最も親密な関係を持つ、重要な外国のひとつ
    である。 貿易、投資、企業の駐在等、相互の経済交流は、極めて密接である。
    外務省の海外在留邦人数調査統計によれば、香港総領事館の管轄地域(香港と
    マカオ)の2014年の在留邦人の数は、2万7,146人に達しており、韓国全体
    (3万125人)に匹敵する。 こういった現在の経済関係に限らず、日本は香港の
    歴史、文化、社会に大きく影響を与えてきた国のひとつであり、香港を語る上で、
    日本の存在は欠かせない。

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    日本が最も直接的に香港に関わったのは、第二次世界大戦中の占領であった。
    1941年12月8日、日本は対英米開戦し、真珠湾攻撃と同時に、香港にも攻め
    入った。 12月25日、イギリス香港政庁は日本に降伏し、その後、1945年8月
    15日の敗戦まで、日本は香港を占領した。 降伏の日は『ブラック・クリスマス』
    と呼ばれ、日本の占領期間を指す『3年8ヶ月』は、香港史においては、暗黒
    時代として記録されている。 香港の人口が多過ぎると見た日本軍は、市民の
    香港からの追放や殺害等を行い、人口は占領前の150万人から敗戦時の60万人
    まで減少した。 日本語教育が強制され、経済は著しく混乱して飢える者も
    多かった。

    その中でも、現在まで禍根を残した問題が、軍票問題である。 日本軍は、軍票と
    呼ばれる紙幣を発行し、香港市民に強制的に財産を軍票に換金させたが、日本の
    敗戦によって、軍票は紙くずと化した。 財産を失った被害者達は、戦後賠償を
    求めて日本でも裁判を起こしたが、敗訴している。 彼らは、しばしば香港の
    日本総領事館に対して、抗議活動を行っている。 また、歴史問題に関しても、
    香港の反日感情は弱くなく、しばしば反日デモも発生する。

    また、尖閣諸島の中国による領有を主張する『保釣問題』も存在する。 香港
    での保釣運動は、アメリカが沖縄返還と合わせて尖閣諸島を日本に返還する事を
    決定した事を受けて開始された。 1971年2月28日には、香港では初めての
    日本総領事館へのデモ行進が行われ、その後、大規模な集会等も行われた。
    1996年には、日本の右翼団体が尖閣諸島に灯台を建設した事を切っ掛けに、
    再び保釣問題が盛り上がり、9月26日には、尖閣諸島付近で海上保安庁に阻止
    された『保釣号』に乗っていた活動家が、島への上陸を強行しようとして海に
    飛び込み海上保安庁に阻止され、溺死した。 これを受けて、活動家を追悼する
    集会には、5万人が参加したという。 そして、2012年8月15日には、
    『保釣行動委員会』メンバーが尖閣諸島に上陸し、日本の世論を驚かせた。

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    これらの事柄から、日本でも香港も中国大陸同様に、激しい反日感情を抱いた
    土地であると見る人も多いが、実際には、大陸と香港の反日運動には、相違点も
    多い。 第一に、大陸との『愛国』の温度差である。 保釣行動委員会の
    メンバーは、中央政府と対立する民主派によって構成されており、これらの対日
    抗議運動の他、天安門事件追悼活動等にも深く関与している。 その主要な者の
    多くは、中国政府によって大陸に入ることすら認められず、むしろ、西洋的
    価値観に近い売国奴と非難される側にある。 香港の保釣行動委員会の主張は、
    日本に抗議するという点で大陸と同じでも、毛沢東像を掲げた大陸の反日でもとは
    相容れない。 第二に、反日の質の違いである。 香港でも歴史問題や尖閣諸島に
    関係する反日でもはしばしばあるが、デモは暴力行為を伴わず、日系デパートの
    並ぶ中心街を整然と行進し、日本製品ボイコット運動が盛り上がる事もない。

    暴動化する大陸の反日デモよりも、遥かに冷静なデモが行われる理由としては、
    もちろん大陸と香港の社会の相違という原因も大きいが、同時に重要なのは、
    戦後日本と香港が積み上げて来た、友好的で密接な交流の歴史であろう。
    日本政府観光局の統計では、2014年の香港からの訪日客は、のべ92万5,975人に
    達した。 総人口わずか720万人ながら、台湾、韓国、中国に次いで、訪日客数は、
    世界第4位である。 香港では、ポップカルチャーや食文化、家電や生活用品等を
    中心に、日本文化や製品が大いに支持されており、日系資本のデパートから
    『日本城(ジャパン・ホームセンター)』と称する日用雑貨のチェーン店、地元系の
    小さな日本料理店まで、街頭には日本の影響が至るところに見られる。 日本は
    もはや市民生活の一部になっていると言っても過言ではない。

    【日本占領時代の展示も行われている香港歴史博物館】


    また、多くの香港人が日本訪問や日本人との接触を通じて、現在の安全で繁栄する
    清潔な日本、勤勉で正義正しい日本人に好感を持っている。 香港大学民意研究
    プログラムの2015年5~6月の調査では、54.5%の人が日本の人々に好感を
    持っていると答えた。 これは、中国大陸の人々に好感を持つ割合(28.2%)は
    勿論の事、香港の人々自身への高感度(40.7%)をも大幅に上回り、調査対象の
    16カ国、地域中、台湾、シンガポールに次いで3位の高評価であった。

    一方、同じ16カ国、地域の政府に対する意識を尋ねると、日本政府に好感を持つと
    答えた者は、わずか17.5%と、タイ、ロシアに次いで、同調査では下から3番目で
    あり、反感を持つと答え者は48.4%にも達し、アメリカ(35.7%)を引き離して、
    調査対象中で最も多い。 香港市民の日本政府に対する評価は極めて低い。
    これは編に、歴史問題や領土問題を巡って、日中関係が緊張している事の反映で
    あると言える。

    このように、香港の人々の対日感情は、親日と反日の一言ではとても割り切れない、
    極めて複雑な側面を含んでいる。 現在の日本人が香港の人々との付き合いを
    するにあたり、反日感情を過度に心配する必要はなく、観光客が日本人である
    という理由で理不尽な扱いを受ける事はまずない。 しかし、他方では、両地の
    間に過去不幸な歴史も存在し、被害を被った人や、日本への反感を持っている人が
    かなり居るという事も、決して忘れてはならない事実なのである。

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