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    タグ:南三陸

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    東日本大震災の被災地では、校庭に仮設住宅が立ち並ぶ学校がある。
    震災の発生から4カ月が過ぎた今も、体育館で被災者が避難生活を送る
    学校もある。 子どもたちが思う存分、体を動かせない状況だ。

    津波で大きな被害を受けた宮城県南三陸町の小中学校では、限られた
    スペースと時間の中で、やりくりを強いられている。

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    学校で何が 半分の校庭(宮城・南三陸町)
    出展:河北新報 2011年7月13日

    市街地が津波の被害を受ける中、高台にあって難を逃れた歌津中(生徒136人)。

    午後4時すぎ、校庭で部活動が始まった。 校庭の約半分は37戸の
    仮設住宅で占められている。 残った縦60メートル、横80メートルほどで
    野球部とサッカー部の計30人ほどが練習する。 キャッチボールやノックを
    する野球部員のすぐ隣で、サッカー部員がドリブルを繰り返す。 「ノックも
    加減しなければならない」。 野球部監督の長野孝志教諭(25)は漏らす。

    仮設住宅と校庭の境目には防護ネットが張られたが、打撃練習はミート中心
    になる。 3年の後藤寛飛君(14)は「思い切ってスイングしたい」と言う。
    歌津中は校庭の半分だけでなく、体育館も使用できない状態だ。 避難所として
    使われ、24人が身を寄せる。

    屋内競技のバレーボール部や剣道部などは、隣接する伊里前小(児童139人)の
    体育館や多目的ホールを借りて練習する。 「コートがあるので、試合形式の
    練習ができる」。 バスケットボール部監督の小野寺孝夫教諭(50)は
    感謝する。

    校舎と校庭の間の舗装路も貴重な練習スペースだ。 小学校のリングが
    ミニバスケット仕様で低いため、ボランティア有志が資金を募って提供して
    くれたリング2基が設置されている。

    ランニングの場所でもあるが、練習が時折、中断される。 「はい、後ろから
    車が来たよ」。 仮設住宅や避難所の住民の車が舗装路を通行する。 伊里前小
    では、被災で校舎が使えなくなった名足小の児童74人が、間借りして授業を
    受けている。校庭は、やはり仮設住宅が建ち、従来の約半分の広さになった。

    時間も制約されている。 「鉄棒とか、みんなともっと一緒に遊んでいたいな」。
    午後3時すぎ、帰りの会を終えた伊里前小4年の及川萌さん(10)はバスに
    乗り込むと、物足りなさげに、見送りの先生に手を振った。

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    本来、夏場の最終下校時刻は午後4時半。 今は安全面を考慮し、スクール
    バスで午後3時半には一斉下校する。 伊里前小、名足小とも、児童が校庭で
    遊ぶ時間は少なくなった。

    伊里前小の兵藤文隆校長(57)は「帰宅してもがれきで広場は使えない。
    子どもの運動量は間違いなく減っている」と懸念する。

    歌津中の生徒も状況は同じだ。 「はい、じゃあ今からシュート練習」。
    バスケットボール部の部員が舗装路で走り込みを終え、ボールを持ち出して
    間もなくの午後6時前。 下校のスクールバスが滑り込んで来た。
    「えっ早いよ」「シュート練習、もうちょっとしたい」

    部活は終了。 生徒たちはジャージー姿のまま、慌ただしくバスに乗り込んだ。
    仮設住宅の建設が進めば、体育館は避難所の役割を終え、使用が可能になる。
    一方で仮設住宅の入居期間は原則2年。 子どもたちの不自由な学校生活は続く。

    伊里前小の兵藤校長は「体を動かすことで、つらい現実をひとときでも忘れ
    られる。 ストレスも発散できる。 工夫をして運動の機会を増やしていきたい」
    と語る。

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    志津川湾から約300メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の総合結婚式場
    『高野会館』。 震災時、利用客や従業員ら約330人は会館に留まった。
    『帰したら、津波で危険だ』。 避難誘導に当たった従業員らのとっさの判断が、
    全員の命を救った。

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    高野会館の屋上まで水が押し寄せ、建物最上部に移動する避難者ら
    2011年3月11日午後3時40分ごろ(従業員提供)


    逃げる その時 帰さず(宮城・南三陸町、高野会館)
    出典:河北新報 2011年6月23日

    会館を出ようと、ロビーに殺到した人だかりが歩みを止めた。 階段の前で、
    従業員らが大きく手を広げ、仁王立ちになって行く手を遮っていた。
    『生きたかったら、ここに残れ』。 男性の怒鳴り声が響いた。

    『頑丈なこの会館が崩壊するなら町は全滅する』。 同会館営業部長の佐藤由成さん
    (64)は、1988年の開館当初から勤務。 設計段階から知り尽くした建物の強度に
    自信を持っていた。

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    330人を救った高野会館の屋上。 中央奥に見えるのが公立志津川病院
    2011年6月19日 宮城県南三陸町志津川


    『お年寄りの足では途中で津波に遭遇してしまう』と判断したのは町社会福祉
    協議会総務課長の猪又隆弘さん(52)。 経験と利用客の状況を踏まえ、4階
    建ての会館に留めるのが最善と考えた。 地震発生時、3階の宴会場は、老人
    クラブによる『高齢者芸能発表会』の閉会式の最中。 強烈な横揺れに大勢の
    客はパニック状態になった。

    1階にいたマネジャーの高野志つ子さん(67)が階段を駆け上がると、従業員
    らが来館者を上階に誘導するのが見えた。 最高齢90代後半、平均80歳前後。
    来館者の避難は困難を極めた。 『早ぐ上がって、早ぐ上がって』。 営業課長の
    西條正喜さん(44)は列の最後尾で追い立てた。 階段は人でびっしり。
    『このままでは津波に飲まれる』。 体力のある人がお年寄りを背負った。

    町社協老人クラブ担当の佐々木真さん(39)は4階への階段を上りながら、
    背後に津波を感じた。 ガチャン、バキバキ。 1階の窓ガラスが割れ、2階にも
    がれきが流れ込んだのが音で分かった。 3階を振り返ると、ロビーの窓ガラスを
    大量の水が突き破った。 足元もぬれていた。

    屋上には既に水が押し寄せていた。 水位は膝まである。 『ここもだめか』。
    西條さんと佐々木さんらは、普段人が入らないエレベーター室や高架水槽などが
    ある会館最上部へ避難誘導を急いだ。

    四方を水で囲まれた会館はまるで孤島のようだった。 佐藤さんの手帳には
    津波の記録が残る。

    <午後3時26分、第1波。 40分、引き始め>
    <4時13分、第2波。 28分、引き方開始>
    <5時、第3波。 10分、引き波開始>

    そう書いたところで手が止まった。 2キロ弱先の荒島までの海底が姿を
    現している。 『次の波が来たらみんな死んでしまう』。 スーツの内ポケットに
    手帳を仕舞い、ボタンを掛けた。 自分が流されても記録は残るように―。

    佐藤さんの記録によると、第4波は午後5時32分に襲来。 屋上までには到達
    しなかった。 会館に孤立したのは約330人。 4階にある約25平方メートルと
    約30平方メートルの会議室二つは人であふれ、廊下や更衣室まで埋め尽くされた。

    室内は人いきれで息苦しいほどだった。 深夜、80代の女性が意識もうろうと
    なった。 『脳梗塞の疑いがある』と町社協の看護師。 佐藤さんは最上部に
    上がり、公立志津川病院へ向かって大声で呼び掛けた。

    『先生、倒れている女性がいます。 波が引いたら、そちらで診ていただけ
    ませんか』 医師とみられる男性の声が返ってきた。 『こちらは薬も電気もない。
    7人が亡くなりました』

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    風通しの良い場所で寝かせるよう助言された佐藤さんは、全員に屋上に出るよう
    促した。 『外の空気吸ってきてけさい』。 10分ほどの短時間だったが、
    室内に外気が入ると女性は持ち直した。

    職員らの判断と機転。 会館で命拾いしたお年寄りは口をそろえて言う。
    『よく生きていられた。 従業員らの指示に従い会館に残ってよかった』

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    がれきの町に赤い鉄骨だけを残す3階の建物。 宮城県南三陸町の防災対策
    庁舎は、津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道
    されてきた。

    屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の
    現場。 その屋上で男性職員は、庁舎が大津波にのまれる瞬間をカメラに
    収めていた。

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    その時 何が 悲劇の防災庁舎でシャッター(宮城・南三陸町)
    出典:河北新報

    その時、南三陸町総務課の加藤信男さん(39)が構えたカメラの設定が正確
    ならば、2011年3月11日午後3時34分だった。 海岸から約500メートル離れた
    町防災対策庁舎を、巨大津波が直撃した。

    『決定的瞬間』とか『決死のシャッター』だとか、ほめられた話じゃない。
    こんな所まで津波は来ないと油断し、逃げ遅れた。 反省、後悔…。つらい
    写真です』

    激しい揺れが襲った時、隣接する木造の町役場1階にいた。 当時は企画課で
    広報を担当して3年目。 『何かあったらすぐ写真を撮る。 それが習慣に
    なっていた』。 揺れが収まると、使い慣れた一眼レフカメラを手に取った。

    書類が散乱した役場内、屋外の様子。 『どうせ津波が来ても1、2メートル。
    その時は防災庁舎に上がればいい』。 そう思いながら撮影を続けた。
    『津波が来るぞ!』との声を聞き、加藤さんも庁舎屋上に上がった。

    レンズ越しに眼前に迫る津波を見ても『恐怖心はなかった』。 波に足を
    すくわれ、われに返った。 『まずい』その日は、町議会の最終日だった。
    役場には佐藤仁町長や職員約40人、町議らがいた。 地震後、佐藤町長や職員、
    町議の何人かが防災庁舎に向かった。

    防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が高台への避難を
    繰り返し呼び掛けていた。

    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~



    津波が迫る。 職員らが屋上に続く階段を続々と駆け上がった。 間もなく、
    巨大津波が屋上をたたく。 何人かは、そびえる無線アンテナにしがみついた。
    加藤さんは首から提げていたカメラを、とっさにジャンパーの内側に入れた。
    屋上を流され、やっとのことで外階段の手すりにつかまった。 階段の手すりに
    背を向け、柵に左足を絡めた。

    津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支点にエビぞりになった。 体を起こそう
    にも水圧に勝てない。 水位がどんどん上がる。 顔が激流にさらされ、沈み、
    水を飲んだ。

    死を覚悟したとき、胸ぐらをつかまれた。 『ほら頑張れ!』。 そばで同じ
    ように津波に耐えていた副町長の遠藤健治さん(63)が、体を起こしてくれた。

    激流の中で遠藤さんの手が離れると、また潜った。 『やっぱり駄目か』。
    諦めそうになると、遠藤さんがまた、胸ぐらをつかんで引き起こす。 その
    繰り返し。 生死の境を何度も行き来し、気付くと津波が引き始めた。

    翌日、骨だけの庁舎に絡んだ漁網などを伝って、がれきが重なる地上に下りた。
    しばらく体調がすぐれず、カメラを確かめたのは10日ほど後。 本体は壊れて
    いたが、データは無事だった。

    残っていた数十こまの写真には、犠牲になった上司や行方が分からない同僚の
    姿も写っていた。

    町は3月末、加藤さんが残した写真のうち6枚を、町のホームページで公開した。
    関係者らの心情に配慮し、人物が写っていないこまに限った。

    『みんなが真剣に津波防災に取り組む参考にしてほしい。 写真は避難が
    遅れた証拠。 見た人には『津波の時はまず避難』と思ってほしい』

    忘れたい出来事さえも伝え残さなければならない。 加藤さんら助かった
    職員らは葛藤しながら、復興の前線に立ち続けている。

    >>【南三陸防災庁舎】 町長不起訴『予見不可能』

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    『南三陸1万人不通』。 人口約1万7,600人の宮城県南三陸町で、
    約1万人と連絡が取れない。 宮城県の発表として、2011年3月13日の
    朝刊はそんな見出しで報じた。

    被害の全容が把握出来ず、一時は町民の半数以上が犠牲となる最悪の
    事態も心配された。 町職員の被災、交通・通信の途絶、避難所に
    押し寄せる住民…。 混乱を極めた現地には、情報を発信するすべも
    なかった。

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    その時 何が 1万人安否不明(宮城・南三陸町)<出典:河北新報

    南三陸町を大津波が襲ったのは、3月11日午後3時半ごろ。 大津波は
    高さ5メートルの防潮堤を越え、町の中心部に迫った。 町職員の佐藤勉さん
    (47)は、同町志津川の町海浜センターで大きな揺れに見舞われた。
    住民を高台の町道へ誘導し、避難所となる町総合体育館へ向かった。

    体育館には既に約100人の町民が避難していた。 夕方には避難者は1,000人
    近くに膨れあがった。 無線などの連絡手段がなく、6人ほどの町職員で食料の
    確保などに追われた。

    『残っている職員で町民をいかに守るかで手いっぱいだった』と佐藤さん。
    志津川小から山伝いに避難してきた町民から、『町役場が流失した』と知ら
    されたのは11日深夜。 町役場に隣接する防災対策庁舎も津波で被災し、屋上で
    数人が生存しているとも伝えられた。 役場機能は、ほぼ完全に失われた。

    eff3ff3f.jpg

    『1万人安否不明』の数字は12日、宮城県庁の災害対策本部でのやりとりで出た。
    町から報告された7,500人の避難者数を受け、報道各社から質問が相次いだ。
    記者『7,500人が避難したとなると、残り1万人は?』

    県『町も正確な数字を把握していない。 単純に引き算すると1万人が安否不明に
    なるが、断定的な数字を出せる状況でない』 1万人安否不明という数字は、
    『犠牲者』という意味を帯びて独り歩きを始めた。 14日には、南三陸町で
    約1,000人の遺体が見つかったと報じられた。 町は一貫して否定し、情報は錯綜
    していた。

    防災対策庁舎で津波に襲われた佐藤仁町長(59)。 壊滅した町を庁舎屋上から
    見て祈った。 『みんな、逃げていてくれ』 町は1960年のチリ地震津波で、
    41人の犠牲者を出している。 それを契機に、町は毎年避難訓練を行ってきた。
    佐藤町長は『各地で避難所が孤立し大混乱だったが、町民の防災意識は高かった。
    1万人の安否不明者が全て犠牲となったとは考えていなかった』と振り返る。
    安否確認は難航を極めた。

    町は震災後、町総合体育館に災害対策本部を設置。 しかし、通信手段がなく、
    対策本部と各避難所との連絡が取れない。 道路もがれきに埋もれている。
    町職員、車、ガソリン。 全てが不足していた。

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    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~

    安否確認のよりどころは、避難所にある手書きの避難者名簿だけ。 家族や親類、
    友人の安否情報を求める住民は徒歩で何時間もかけ、数十カ所の避難所を回って
    いた。

    町が10年2月に発生したチリ大地震津波で行ったアンケート。 最も多く避難した
    のは山間部の親類宅(40.1%)で、指定避難所は24.2%だった。 避難者名簿に
    載らない1万人の安否不明者が出た背景だった。 町による安否不明者の確認作業が
    始まったのは3月28日。 避難所の町民だけでなく、自宅や親類宅にいる町民ら
    全町民を対象に避難者台帳の提出を呼び掛けた。 町外へ脱出するなどして連絡が
    難しい場合は、電話や行政区長を通じて確認を取った。

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    東日本大震災の津波災害により、宮城県南三陸町の防災庁舎では、職員43名が死亡する
    という未曾有王の大惨事に見舞われたが、職員が避難をする際に、適切な避難指示を
    出さなかったのは、佐藤仁町長の責任であるとして、町職員の遺族らが、業務上過失致死
    容疑で告訴していたが、2015年9月28日、仙台地検は、この件を不起訴処分とした。

    20120625065406

    地検は、町沿岸に高さ十数メートルの津波が到達するという統一的な見解がなかった点に
    着目していた。 町側が事前に津波を予見するのは不可能で、刑事責任を問うのは難しいと
    判断したとみられる。  町の防災計画では、宮城県沖地震(連動型)が発生した場合、
    同町志津川地区の津波の最高水位を6.9メートルと想定。 庁舎は、防災計画に基づき、
    高さ約12メートルで建てられた。 宮城県警は今年3月、捜査結果を地検に書類送付した。
    津波の予測は困難で立件できないとの意見書を付けたとみられ、地検が慎重に調べて
    いた。
     


    防災庁舎は、震災で15.5メートルの津波に襲われた。 震災発生から丸20年の2013年
    3月10日まで県有化され、震災遺構としての保存の是非が検討される。 告訴した遺族の
    男性は、『処分理由が分からず、弁護士と相談して検察審査会への申し立てを検討したい』
    と話した。

    >>町民を救った 天使の声 ~遠藤未希さん~

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    建物がほぼ全てなくなった、南三陸町の中心地、志津川地区。 約10メートル強
    嵩上げ工事を行ったため、風景が一変し、更には、道路自体が大幅に変わって
    しまったため、昔の面影は、一切残らず。 唯一残った防災庁舎も、周囲の嵩上げ
    工事により、この建物だけが谷のように残ったため、不自然感が否めず。 海の
    すぐ目の前に20メートル程度の防波堤を建設したため、この周辺では、海が一切
    見えなくなった。

    【南三陸町中心部】
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    震災遺構として、2031年まで宮城県が管理(保存)することとなった、南三陸町
    旧防災対策庁舎。 当初は、6mという津波予想であったため、庁舎に留まり避難
    しなかったのが、犠牲者を大きくする一因となった。 2階に危機管理課があり、
    町災害対策本部が置かれた。 本庁舎では津波来襲の15時25分頃まで、防災無線
    放送で繰り返し住民に避難を62回に渡り呼びかけ続けた。 本庁舎から発信された
    約30分間の防災無線の放送音声は全て録音されている。 危機管理課の女性職員は
    繰り返し避難を呼びかけ続けたが、波の高さについては「最大で6メートル」という
    放送が続き、最後の4回のみ「10メートル」と放送した。 音声は、放送を続け
    ようとする女性職員の声を遮るように「上へ上がって 未希ちゃん 上がって」
    という周囲の制止の声を最後に放送が途切れている。
     
    職員約30人は屋上に避難したが、屋上の床上約2メートルの高さまで津波が
    押し寄せ、度重なる津波によって庁舎は骨組みだけとなった。 アンテナに
    しがみつくなどして波に耐えた佐藤仁町長ら11名は生還したものの、庁舎に
    詰めていた他の職員や住民は津波で流され犠牲になった。 屋上で写真を撮影
    していた職員(この職員は津波に飲まれ気絶したが、副町長が腕を掴み続けて
    いたので、無事生還している)のデジタルカメラの本体は壊れてしまっていたが、
    データは無事で、津波が来る前の様子から、屋上が水没する瞬間までを捉えた
    様子が写っており、写真の一部は南三陸町のホームページに掲載された。

     

    最期まで防災無線で避難を呼びかけ続けて犠牲になった女性職員の行動は、
    『多くの命を救った命懸けのアナウンス』と大きく評価され、埼玉県の公立学校で
    2012年の4月から使われる道徳の教材に掲載された。 また、堅牢な建物であり
    2階の電算室で各種行政システムを管理していたが、サーバ及びバックアップ
    テープも滅失した。

    2012年3月6日には、佐藤仁町長が高台へ避難させず、庁舎に留まらせたのが
    原因で町職員ら43人が犠牲になったとして、町職員の2遺族により業務上過失
    致死容疑にて宮城県警南三陸署に告訴状が提出された。 尚、この付近に
    押し寄せた津波の高さは、最終的には、約15.5mであった。

    >>町民を救った天使の声 

    【岩井崎】
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    津波による甚大な被害を受けた気仙沼市内にある風光明媚な岬で、岩の隙間から
    波が打ち寄せる潮吹岩が有名。 横綱秀ノ山雷五郎像は、津波に流されずに、
    そのまま残ったが、復興のシンボルと言われていた龍の形をした『龍の松』は、
    現在、保存に向けて、撤去されている。 三陸地域の津波被害が甚大だったのは、
    リアス式海岸の間を波が遡って来たためで、山の間を津波が遡上して来たため、
    その分、数倍に波がせり上がったためで、平野部での津波災害とは、被災状況も
    異なる。

    【歌津駅跡(上)と清水浜駅跡(下)】
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    旧JR気仙沼線の歌津駅と清水浜駅付近。 歌津駅の下には、復興商店街があるが、
    付近に民家がないため、かなり閑散としている。 この付近は、鉄道が、残ったり
    撤去されたりしているため、かなり寂しい風景が広がっている。 嵩上げ工事が
    本格化したとは言え、被災から丸4年を経ても、周囲は、瓦礫がなくなっただけで、
    特に何も変わってはいない。

    【神割崎】
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    石巻市と南三陸町の境界線上にある神割崎。 付近には、キャンピング場もあり、
    テントを持ち込めば、900円程度で宿泊可能。 ロッジでの宿泊は、一泊5,000円
    程度。 すぐ目の前には、仮設住宅が今でも残されている。

    【石巻市立大川小学校】
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    宮城県石巻市釜谷地区の北上川河口から約4キロの川沿いに位置する大川小学校は、
    3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明と
    なった。 教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡した。 東日本
    大震災で起きた数々の悲劇の中でも、最も悲劇的な場所とされる所以である。

    地震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。
    教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り、全員の安否を確認した後に、避難先に
    ついて議論を始めた。 学校南側の裏山は有力な避難先であったが、急斜面で
    足場が悪い事から、児童らが登って避難するには問題があるとされていた。
    約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋の三角地帯も
    避難先候補となり、裏山へ逃げるという意見と、老人も含まれている事を
    考慮して三角地帯にするべきという意見が教職員の間で対立し、最終的に
    三角地帯に避難する事になり、移動を開始した。

    その直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方から飲み込んだ。
    列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて、裏山を駆け上がり、一部は
    助かったが、迫り来る津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難
    出来ない児童も居た。

    家族が車で迎えに出向き、独自に避難した児童は助かった。 避難先として
    選定した三角地帯も標高不足で津波に呑み込まれており、避難が完了して
    いたとしても、被害は避けられなかった。 校庭には、スクールバスも停車
    していたが、その運転手も、津波に飲み込まれて、死亡した。

    >>悲劇の大川小学校

    >>【被災地巡り】気仙沼線編

    【お勧めの一品】


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    がんばろう福島!は、関東ではよくありがちな、復興支援のタイトル名。 本日は、
    高尾山にでも登ろうかと思っていたのだが、思ったよりも、雨脚が激しかっために、
    たまたま、横浜の山下公園で開催されていた『東日本大震災 復興支援まつり』に
    行って来た。

    とりあえず、総合受付で、『石巻と東松島のブースはどこですか?』と尋ねたのだが、
    そちらのボランティアらしき方から、『石巻は、福島のブースにあります』との
    通常絶対にあり得ない回答を頂いたため、『石巻は福島ではありません』とこちらから
    言ったところ、更に奥の方から人が出て来て、再度『石巻は、福島のコーナーにあります』と
    言われたため、『石巻は、宮城県なので、福島なんかにはありませんよ』と言ってやった。

    ここに来る前から、関東では、福島の事しか言われないのは、分かっていたのだが、
    流石に、関東の人間のこの地理理解能力の低さには、呆れ果てた。 まともに、
    地理が理解出来ていないくせに、『被災地支援』ですと言われたところで、自分でも、
    どの地域を助けているのかすら、良く分かってはいないのであろう。

    20110820002905848

    一切会話が成立しない、総合受付の人たちは、とりあえず無視して、自分で石巻と
    東松島のブースを探して見たところ、まず、女川のブースがあったので、そこの人たちに
    訊きました。 結局のところ、『被災地復興支援』とは名ばかりで、実際のブースは、
    半分近くが福島のブースばかりしかなく、宮城県からは、東松島、南三陸、女川の
    3団体しか来ていない事が判明。

    東日本大震災の最大の被災地である、石巻からは、1つも来ていなかった。 但し、
    東松島から来ていたおでん屋さんは、石巻港で被災して、内陸側の東松島の山の上に
    工場を移転した企業との事で、私の実家からは、かなりの至近距離。 私の実家がある
    町は、内陸部とも沿岸部の終わりとも言えるのだが、海からは12キロ程度しか離れて
    いない場所にあるため、内陸移転の最前線となっており、被災した石巻沿岸部の内陸
    移転が多い場所。

    尚、仙台人に対して、『仙台は、福島にあります』と言われるのは、横浜の人間に対して、
    『横浜は埼玉にあります』と言われたのと、完全に同じレベルの話し。 何も知らないのを
    理由に、とんでもない粗相を平気でしでかす日本人は、かなり怖いと感じた。

    これまでに、『がんばろう福島!』と何度も言われたが、宮城県出身者に『がんばろう福島』と
    言われたところで、むしろ、ドン引きするばかりなので、何でもやれば良いという意識
    レベルの人間とは、むしろ、係わり合いにすらなりたくない。

    画像は、【宮城県】女川の獅子舞と、東松島のおでん。
    IMG_8321 IMG_8317
    IMG_8316 IMG_8325

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