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    タグ:十月革命

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    【16世紀に始まったロシア帝国の侵略】

    ロシア連邦チェチェン共和国は、モスクワの南1500キロの場所にに位置し、
    面積は、日本の四国よりも少し狭い約1万7000平方キロメートルである。
    このあたりの一体は北コーカサス地方と呼ばれ、寒いロシア連邦の中では、
    温暖で豊かな地域である。

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    北コーカサスには、多くの少数民族が住むが、チェチェン人は約6000年前から
    暮らしていたと言われ、チェチェン語はロシア語とは全く異なる言語で、
    現在では住民の殆どがイスラム教徒となっている。

    帝政ロシアは18世紀から、コーカサス地方の征服を始めるが、チェチェン人らは、
    これに抵抗して来た。 エカテリーナ2世の時代に戦争が本格化し、1785年に
    チェチェンで大規模な反乱が起こった。 それ以降戦争が続き、1859年に抵抗の
    指導者シャミーリがロシア帝国に降伏。 その5年後にチェチェンはロシア帝国に
    併合された。

    1917年に起きたロシアの十月革命は、チェチェン人らコーカサスの諸民族が独立を
    勝ち取る希望ととらえられた。 翌1918年には、コーカサス諸民族が集まり
    『山岳共和国』の成立を宣言した。

    しかし、革命政権『ボリシェビキ』、革命に反対する白軍、地元コーカサス
    諸民族が3つ巴の戦争状態となり、1924年には山岳共和国は廃止されて、
    チェチェンやその他の民族は、ソビエト連邦の領土として支配された。 つまり、
    帝政ロシアが革命で倒れた民族独立が達成されるかと期待されたが、新たに
    ソビエト革命政権に組み込まれてしまったのだ。

    第二次世界大戦末期の1944年2月、ソ連政権はチェチェン人がナチスドイツに
    協力をしたとして、チェチェン民族を全員貨車などに押し込めて中央アジアの
    カザフスタンに強制移住させた。 貨車での移動中に大量の人々が死に、
    強制移住先での病気や餓死などで、民族の半分を失った。

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    【独立宣言と2つのチェチェン戦争】

    ソビエト連邦崩壊直前の1991年11月、チェチェン共和国は独立を宣言した。
    ソ連に代わったロシアは、特殊部隊などを派遣して独立運動の弾圧を試みたが
    失敗し、ついに1994年12月にロシア軍が全面侵攻し、第一次チェチェン戦争が
    始まった。

    ロシア軍は非武装の住民をも攻撃し、また、独立派ゲリラを探し出すために大量の
    住民を逮捕して『選別収容所』に送った。 このため、国際的にも非難の声が
    高まった。 1996年8月、8万人以上の犠牲者を出しながら、独立問題は棚上げを
    したまま停戦協定が結ばれて、戦闘は終わった。

    その後、中東などからイスラム急進主義者達がチェチェン領内に流入するように
    なったが、ロシア当局は、それを見逃していた。 1999年8月、チェチェンの
    イスラム武装勢力が隣国のダゲスタン共和国に侵攻する。

    また同月から9月に掛けて、ロシア各地でアパート爆破テロが連続し、合計300人が
    死亡した。 ロシア政府は、チェチェン独立派勢力のテロだと断定し、9月には
    チェチェン攻撃を再開した。 この第二次チェチェン戦争は、2009年4月16日に
    国家対テロ委員会が独立派の掃討が完了したとして、対テロ作戦地域からの除外を
    発表、10年の長きに渡った紛争が終結したものの、連続爆弾テロに関しては、
    多くの謎と疑問が指摘されたままで、未だに解明されていない。

    第二次チェチェン戦争では、前回を上回る激しい攻撃により、2000年春までに
    ロシア軍がチェチェンの主要部分を占領した。 2003年にはチェチェン共和国で
    大統領選挙を行い、ロシアの全面支援を受けたカディーロフ政権が正式に樹立され、
    今もチェチェンを統治している。

    人口100万人の地域で、20万人の犠牲者を出す残虐な戦争だった。 戦闘が終息に
    向かっても、ロシア軍やロシアに援助された傀儡政権による住民連行は後を絶たず、
    人権上大きな問題となっている。 国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチの
    モスクワ支部によると、2000年から2004年までの間だけでも、約1万8000人の
    行方不明者を出しており、未だ解決されていない問題となっている。

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    【第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】
    2002年
    モスクワ劇場占拠事件 - 169人死亡
    首都グロズヌイの政府庁舎爆破 - 72人死亡

    2003年
    共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
    モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡

    2004年
    モスクワ地下鉄爆破 - 41人死亡
    グロズヌイの対独戦勝記念式典を爆破
    親ロシア派のチェチェン共和国大統領アフマド・カディロフなど30人死亡
    イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約90人死亡
    モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
    モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約10人死亡
    北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322人死亡

    2005年
    カバルジノ・バルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件

    2006年
    イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致しチェチェン共和国からの
    ロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
    アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件

    2007年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    【紛争終結宣言以降の第二次チェチェン紛争に係る主要テロリズム】
    2009年
    モスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破事件

    2010年
    モスクワ地下鉄爆破事件

    2011年
    ドモジェドヴォ空港爆破事件

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    1764年、エカテリーナ2世は、ベルリンで225点の絵画を買い付けた。
    オランダ、フランドル地方の画家の絵で、レンブラントの絵が多く含まれて
    いた。 この絵が運び込まれた冬宮の一部がエルミタージュ(隠れ家、草庵)と
    呼ばれるようになった。

    エカテリーナは、1764年から冬宮の隣に収集美術館を建設し始め、1975年に
    完成させた。 これが小エルミタージュと名付けられた。 1774年には、買い
    集めた絵の総枚数は、2080枚に達していたので、すぐに次の建設が始まった。

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    1987年には、河岸側に旧エルミタージュが建設された。 ここには、ルネッサンス
    期のイタリアの絵画が集められた。 レオナルド・ダ・ビンチの『聖母子像』は
    特に有名である。

    更に、エカテリーナは、1787年に旧エルミタージュの隣にエルミタージュ劇場を
    建設した。 設計者は、クヴァレンギである。 400人を収容する堂々たる劇場
    である。

    次のニコライ1世の時代、1839年に旧エルミタージュの内側に文字通り新しい
    美術館の建設が始められ、1952年に完成した。 レオ・フォン・クレンツェの
    設計した新エルミタージュである。 ここには、レンブラント・コレクション、
    ヴァン・ダイクやルーベンス等のオランダ・フランドル絵画もある。

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    新エルミタージュは1852年の完成と共に公開され、1866年には一層自由に見る事が
    出来るようになった。 冬宮は、二月革命後、臨時政府の建物となり、十月革命で
    革命派の兵士水兵に占拠された。 十月革命後、皇室所有の美術品は大貴族の
    宮殿から没収された美術品で更に膨大なものとなった。

    1922年エルミタージュは、冬宮の中にも拡張された。 今やエルミタージュは、
    市民に開放される美術館となったのである。 途中所蔵の絵画が西側に売り飛ば
    される時期もあったが、1946年、ついに冬宮全体がエルミタージュとなったので
    ある。 そして1948年、モスクワの資本家達が集めた現代西欧の絵画が運び
    込まれた。

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    旧冬宮の新しいスペースにモスクワの商人セルゲイ・シチューキンが集めた
    マチスの大作『踊る人』と『音楽』、それに青の時代のピカソの絵が展示された。
    シチューキンはフランスに亡命していたが、自分がソビエト政権に渡して来た
    コレクションについて、次のように語ったと記録されている。

    『私は自分のためではなく、それよりは自分の国のため、自分の国民のために
    収集したのである。 わが国に何があろうと、私のコレクションはあの地に残ら
    なければならない』

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    1918年3月ソヴィエト政権がペトログラードからモスクワに移転した。
    ホテル・ナツィオナーリとメトロポーリが摂取され、それぞれ、第一ソヴィエト
    会館、第二ソヴィエト会館と命名された。 ナツィオナーリの住人第一号は、
    レーニン夫婦であった。 1周間後、レーニンは、クレムリンの中に移った。
    メトロポーリのレストランでは、全ロシア中央執行委員会の会議が開かれ、
    レーニン、トロツキーが演説した。 そこの客室の住人の筆頭は、ブハーリンで
    あった。

    ペテルブルグがモスクワに乗り込んで来て、モスクワがペテルブルグ化されたと
    言える。 一方で、これは、ペテルブルグのモスクワ化であった。 クレムリンの
    中では、セナートのモスクワ支所であった建物が人民委員会着の建物と同会議議長で
    ある、レーニン一家の住居にあてられた。 赤の広場から見て、丸屋根の上に国旗が
    掲げられている建物である。

    ソヴィエト政権がモスクワに移って最初のメーデーの日(1918年5月1日)には、
    赤の広場で最初のパレードが行われ、レーニンが挨拶した。 先頭を進んだ赤軍
    兵士が持つのは、1891年式の銃とマクシム機関銃だけだった。 11月7日には、
    十月革命1周年記念のパレードが行われた。 革命後のロシア歴が西暦に改められた
    ため、革命の起こった10月25日は、11月7日となった。 以後、この広場が共産党と
    政府の公式行事、パレードの場となった。

    広場に面したクレムリンの壁際には、1920年から党と政府の要人、コミンテルンの
    功労者が葬られるようになり、25年には、遺骨をクレムリンの壁に収めることが
    始まった。 ソ連期の終わりまで約150人がここに葬られた。 ブレジネフ、
    アンドロポフら党と政府の要人、将軍、学者、文学者等がこれに含まれている。

    革命によって市民の暮らしは大きく変わった。 新し政治体制が確立すると、
    モスクワに住んでいた貴族やブルジョワ達の大部分は、全ての不動産を捨てて
    外国へと逃亡した。 亡命する資力のない者でも、持ち家や財産を国家に没収
    された。 元々、モスクワの市域内には、一戸建てのマイホームのような建物は
    極稀にしか存在しなかった。 殆どの建物は、数家族が住むアパートだった
    のである。

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    革命政権は、革命を害する存在を抑圧する装置を必要とした。 1917年12月に
    出来た反革命サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会がそれである。
    ジェルジンスキーが初代議長となった。 1918年の夏から始まった赤色テロルの
    実施にこの組織は恐るべき力を発揮した。 1919年、この組織が自らの本部の
    建物に選んだのが、大ブビャンカ通りの元ロシア保険会社の本部ビルであった。
    この組織は、1922年にはゲーペーウー(国家政治保安部)へと変わり、34年
    からは、内務人民委員部となる。 名前は変わっても、果たす役割は変わらず、
    この建物は『ルビャンカ』として人々に恐れられた。

    『ルビャンカ』の中身はその後も変わった。 内務人民委員部は、その後は、
    KGB(国家保安委員会)となり、現在では、連邦保安局(FSB)となっている。

    ソ連国家を動かすのは、ソ連共産党であった。 ソ連共産党中央委員会の建物は、
    ルビャンカ広場から程遠くないスターラヤ・プローシャチ(古い広場)にあった。
    1915年に完成したチトフ商会の建物を接収して、党本部にしたのである。
    この後、スターラヤ・プローシャチと言ったら、共産党本部を指すようになった。
    この建物は、現在はロシア大統領府の建物となっている。

    1924年1月21日、レーニンが郊外のゴルキで死ぬと、翌日遺体は、モスクワに
    運ばれ、組合会館に安置された。 弔問者は切れ目なくここを訪れた。 1週間後の
    1月27日葬儀が行われた。 レーニンの遺体は、ジノヴィエフ、カーメネフ、
    スターリン、ブハーリンらに担がれて、赤の広場の中央に造られた木造の廟に安置
    された。 その後、党指導者の間で議論がなされ、レーニンの遺体を永久保存し、
    人々に参観させると主張したスターリン、カリーニン、ルイコフらの意見が
    トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って採択された。

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    日露戦争のおける敗北で、ロシアの専制権力の時代錯誤と無能ぶりが明らかになり、
    1905年、革命が起こった。 ニコライ2世は、10月詔書を出して、政治的自由を
    認め、国会の開設を約束した。 1906年に憲法が発布され、立憲専制体制とでも
    言うべき体制が始まった。 しかし、この体制は、うまく機能せず、ロシア帝国は
    生まれ変わることが出来なかった。

    1914年に始まった第一次世界大戦は、体制の解体を進め、ついに1917年3月、二月
    革命が起こって帝政は打倒された。 この革命は、ペテルブルグの労働者と兵士の
    革命であったが、別の面から見れば、モスクワのブルジョワジーがペテルブルグの
    皇帝権力を倒した革命であるとも言える。 革命で生まれた臨時政府のバック
    ボーンは、モスクワのブルジョワジーであった。 最初の臨時政府の商工相は、
    モスクワの綿企業主コノヴァーロフであり、彼は最初のケレンスキー内閣でも、
    副首相を務めた。

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    ロシアの民衆は、戦争に反対していたが、臨時政府は戦争を続けなければなら
    なかった。 対立の強まるところ、11月には、レーニン、トローツキーらのボ
    リシェビキが臨時政府を打倒し、ソヴィエト権力を誕生させた。 ペテルブルグで
    この革命が起こると、モスクワがその革命に反対の立場を取ったのは当然であった。
    十月革命反対派の牙城は、赤の広場から目と鼻の先のモスクワ市会だった。

    モスクワ軍管区司令官がクレムリンの十月革命派にクレムリンの明け渡しを求め、
    武力衝突の末、十月革命反対派の部隊と士官学校生がクレムリンを占領した。
    クレムリン、ホテル・メトロポーリ、モスクワ市会、軍管区司令部、ニキーツキエ
    門等を拠点として、十月革命反対の軍が中心部を制圧した。 11月の第一週が
    過ぎる頃、ペテルブルグから革命派の応援部隊が到着し、攻撃を加えた。 市会や
    ホテル・メトロポーリが砲撃された。

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    革命派が今度は最終通達を突き付け、クレムリンを明け渡さないと砲撃すると
    通告した。 クレムリン砲撃の噂は、首都でも問題となり、教育人民委員会
    ルナチャルスキーは、このような文化の破壊に耐えられないとして、人民委員会を
    辞任した。 実際には、ホテル・メトロポーリは損害が大きかったが、クレムリンは
    門の辺りに着弾し、聖堂に数発弾丸が当たった程度であった。

    革命反対派がクレムリンでの戦闘を回避して、11月15日中にクレムリンから立ち
    去ったのである。 これによって、十月革命はモスクワでも認知されるように
    なった。 ただちに赤の広場のクレムリンの壁の際にモスクワの武力衝突で死んだ
    革命派の遺体240体が埋葬された。

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