横浜通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

記事カテゴリーに CIS独立国家共同体(旧ソ連邦) 他を追加しました♪
    横浜通詞】横浜、大阪、仙台にある多言語翻訳会社
    多言語を専門とした翻訳会社を運営しています。 日本語⇔英語の他にも、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、中国語、韓国語他、世界80言語以上に対応しています。 お気軽にお問い合わせください。

    ブログランキングに参加していますので、クリックをお願いします!
    にほんブログ村 外国語ブログへ
    にほんブログ村
    人気ブログランキング

    タグ:労働力不足

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

    2005年、フランスで起こった移民系の若者を中心とした暴動は、警察に追われた
    若者2人が変電所に入り込んで感電死した事件が切っ掛けだった。 暴動は、
    フランス全土に広がり、死者が出るに及んで政府は、非常事態宣言を出したが、
    暴動が終息する気配はなかった。

    長い間、フランスは、移民や外国人を受け入れて来た国だった。 その理由は、
    ヨーロッパ中央に位置する地理的条件や、産業革命後の経済成長にある。 最初は、
    スペインやイタリアからの移民だったが、20世紀中頃からは、アルジェリア、
    モロッコ、チュニジアなど、かつてフランスが植民地としてきた来たアフリカ
    諸国を始め、中東、アジアからの移住が本格化した。

    3ce9c107

    背景には、第二次世界大戦で多数の戦死者を出し、人口が大きく減少したことや、
    戦後は自動車や建設業など、フランスの高度成長を押し上げた業界の労働力不足
    があった。 政府は、経済効率を優先させる政策を採り、移住して来た彼らに
    対しては、ほぼ無制限に滞在と労働の許可を与え、不法侵入者の取り締まりも
    あまいものだった。

    オイルショック後の1974年、当時のジスカール・デスタン政権は突如、就労
    目的の移民受け入れ停止を決定する。 その背景には、低賃金など過酷な労働
    条件や劣悪な環境の地域の形成、それに移民たちの労働争議が新たな社会、経済、
    政治的問題に発展することを恐れたことがあると言われている。

    7753335

    1976年には、『帰国奨励政策』が行われたが、これは、帰国を望む移民たちに
    1万フラン(約20万円)を支給することで、本国への帰国を促すものだった。
    1981年、ミッテラン大統領の誕生で、既に入国している移民については一層の
    権利の確立が保障されたが、その後の議会で、右派が過半数を占めると、権利の
    縮小や、1993年には改定移民法、国籍法修正案によって、入国も滞在した場合の
    保護も大幅に制限された。 また、1997年の移民法は、滞在許可証の更新を
    認めないという、更に厳しいものとなった。

    21世紀初頭、世界を襲った経済成長の鈍化や同時不況は、フランスでは、
    移民たちとフランス人との間で新たな摩擦を生むことになった。 移民の多くは、
    3K(きつい、汚い、危険)と呼ばれる職場で、しかも、低賃金の仕事しか
    貰えない。 にも関わらず、移民達が自分達の仕事を奪っていると考える
    フランスの若者達は、彼らの排斥に向かう。 こうした風潮の高まりが、大きな
    社会問題となって来ている。

    【お勧めの一冊】


    お財布.com - 無料で手軽に貯まる魔法のお財布

    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 海外生活ブログ ヨーロッパ情報へ
    にほんブログ村

      このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
    日本とブラジルの関係を語る時、日本人の移民とその歴史を抜きで語ることは
    出来ない。 日本からのブラジル移民が始まったのは、今から100年以上も前の
    明治時代まで遡ることが出来る。 明治時代に入り、日本は急激に近代化が
    進められたが、それに伴い、社会のあちらこちらに歪が生まれた。 農村では、
    今までお米で納めていた年貢をお金で支払うこととなり、貨幣経済に慣れて
    いない農民は、たちまち生活苦へと追い込まれた。

    cc87c6a3.jpg

    そんな生活から逃れるために、移民となって海外の新天地へと出掛けて行き、
    そこで働いてお金を稼ぐ人も出て来た。 出稼ぎ先は、はじめは、ハワイや
    アメリカ合衆国、メキシコ、ペルー等だったものが、やがて、アメリカの日本人に
    対する移民制限が始まった。 そんな時に、奴隷制度が廃止されて、労働力
    不足に悩まされていたブラジルから、日本政府に対して移民の誘いが届いた。



    【コーヒー農園での移民の暮らし】
    第一回の日本からの移民158家族、781名を乗せた笠戸丸が、ブラジルの
    サントス港に入港したのは、1908(明治41)年6月18日のことであった。
    日本からは、約50日間の船旅であった。 当時の移民の多くは、コーヒー農場に
    1年契約で雇われた。 移民家族は、農場内の住居に住み、朝から晩まで
    コーヒーの木の手入れをした。 1つの農場には、何万本ものコーヒーの木があり、
    家族ごとに木が割り当てられ、草取りからコーヒーの実の収穫まで責任を負わ
    された。

    収入は、出荷した袋の数に応じてお金が貰える仕組みであったが、出来の良い
    コーヒーの木があるとは限らなかった。 霜の害により、コーヒーの木が全滅
    することもあれば、逆に採れ過ぎて、価格が暴落してしまい、殆ど収入がない
    こともあった。

    日本からの移民の多くは、3~4年もすれば、沢山お金を稼いで帰る『出稼ぎ』の
    つもりで来ていた。 しかし、夢と現実の落差に気付き、ブラジルの大地に
    しっかりと根をおろして生きて行こうと決意する人達も居た。 また、ある人は、
    農業を辞めて、街に出て別の職業に就く人も出て来た。 このような苦労を重ね、
    日本人移民は次第にブラジルに定着して行った。

    この移民は、日本政府の援助の下に行われ、第二次世界大戦前にブラジルに
    渡った日本人の移民は、約19万人を超えた。

    Affiche

    【戦中、戦後の不幸】
    第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まると、ブラジルは、中立の立場を
    取っていたが、1942年、アメリカが属していた連合国側に付いて参戦した。
    そのため、ブラジルは、敵対する日本からの移民に対し、公の場での日本語の
    使用、日本語で書かれた書物の所持、日本語新聞の発行等を禁止した。 日本の
    敗戦をめぐっては、日本人移民同士での『勝ち組』『負け組』の対立にまで
    発展した。 『勝ち組』は、日本の敗戦を信じず、『信念派』、『負け組』は
    日本の敗戦を認め、それを知らせようとした人達で『認識派』とも呼ばれている。

    ブラジルに出稼ぎに来ているという認識が強かった当時の移民の中には、
    ポルトガル語を理解しようともせず、また、当時、日本で受けて来た教育の
    影響で、日本への想いが非常に強く、敗戦が信じられない人達も居た。 更に、
    日本語新聞の発行禁止により、情報が伝わりにくくなったため、孤立した人達も
    居た。 そのような人達が、『勝ち組』を襲って殺害する事件が、1950年頃まで
    続いた。



    【戦後の日本人移民】
    1951年、サンフランシスコ講和条約(対日平和条約)が日本とブラジルを含む
    連合国との間で結ばれると、翌年からブラジルへの移民が再開された。 敗戦後の
    日本は、外地から引き揚げて来た人達で人口が増え、食料が不足する状態で
    あった。 そんな時、ブラジルへの移民は、日本人にとって、大きな希望と
    なった。 戦後の移民も、初めは、農業移民が募られたが、そのうち、工業化を
    進めるブラジルと共同で事業を行う工業移民が募られた。 しかし、1960年代に
    入ると、日本が高度成長時代を迎え、経済的に恵まれるようになったため、
    1995年を最後に、ブラジルへの移民政策は、打ち切られた。 現在、
    ブラジルには、三世や四世等を合わせると、140万人以上の日系人が居ると
    言われている。



    【日本へ出稼ぎに来る日系ブラジル人】
    一方、最近では、ブラジルに移民した日本人の子孫である日系ブラジル人が、
    逆に日本に出稼ぎに来るという現象が続いている。 ブラジルは、1980年代から
    度重なる不況で失業者が増え、逆に、日本は、その時期には好景気となっており、
    人手不足が深刻となっていたため、ブラジルから多くの日系人がやって来た。
    日本政府は、外国人が仕事のために来日することを厳しく規制してしたが、
    1990年に日系人に対しては、三世までと、その配偶者に限り、日本での労働を
    認めたため、最大で、日系ブラジル人は、約30万近くまで膨れ上がった。

    その後、日本は長期に渡るデフレ不況に陥ったため、逆に、国策によって、
    ブラジルへの帰国が促され、ブラジル経済が活性化して来た影響もあり、現在、
    日本国内のブラジル系日系人は、15万人程度にまで激減りしているとも言われて
    いる。

    【お勧めの一冊】


    >>トップページに戻る



    クリックをお願いします☆
    にほんブログ村 外国語ブログ 通訳・翻訳(英語以外)へ
    にほんブログ村

    このページのトップヘ