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    タグ:処刑場

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    ハイドパークは、ヘンリー8世が鹿狩りのためにウェストミンスター寺院から
    入手したものであり、その最古の一角は、イーバリー卿の荘園跡であった。
    この荘園は、広さが当時の土地の単位で1ハイドであったことから、これが公園の
    名の由来となったと言われている。

    ハイドパークは、ウェスト・キャリッジ・ドライブと呼ばれる道路1本を隔てて
    ケンジントンガーデンはと一続きになって、ロンドンの真ん中に広大な緑地を
    提供している。 ケンジントンガーデンは、元々、ハイドパークの一部であった
    ものを1689年にウィリアム3世と王妃メアリとがケンジントン宮殿に移り住んだ
    際に、ハイドパークから分離して造ったものである。

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    ハイドパークはまた、1851年には万国博覧会が開催された事でも良く知られて
    いるが、とりわけ有名なのは、公園の北東角のマーブルアーチとスピーカーズ
    コーナーである。 現在、マーブルアーチの建っている近くには、18世紀まで
    タイバーンの処刑場があり、見せしめのために残酷な処刑が行われたが、人々は
    あたかも見世物でも見物するかのようにそうし絞首刑を見に行った。

    19世紀半ば頃からハイドパークは、労働者たちの集会の場所となっていたが、
    そのような中デスピーカーズコーナーは自由な演説と集会の保証された場所と
    考えられるようになり、イギリスの言論の自由を体現した象徴的な場所であると
    考えられた。 かつては、マルクスやレーニンといった革命家やジョージ・
    オーウェルなどのジャーナリストなどもスピーカーズコーナーで演説をした事が
    あるが、現在では、日曜日に脚立や木箱を演台にして色々な人が好き勝手な
    話をしており、それを観光客がとりまいて面白がっている光景が見られる。

    Hydepark1

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    ロンドン塔は、多くの王侯貴族が幽閉されたり、処刑された場所として有名で、
    幽閉と処刑の場であったばかりではなく、それとは反対に、即位した国王が
    戴冠式までの数日をここで過ごしたという喜ばしい習慣もあったらしい。 1547年
    1月31日、ヘンリー8世の死が議会に報告され、その子供であるエドワードの即位が
    宣言されると、エドワードは、ロンドン塔に入った。 大勢の貴族が集まって臣下の
    誓いの儀式が行われた。 そして、ヘンリー8世の葬儀の4日後、2月20日に、
    ウェストミンスター寺院でエドワード6世の戴冠式が行われた。

    エドワード6世が1553年7月6日に亡くなると、その後を継ぐ筈だったジェイソン・
    グレイは、サイオン・ハウス(ロンドン西部にあったダドリー家の屋敷)から
    テムズ川を船で下り、ロンドン塔に入った。 そして、7月10日、イングランド
    王女としての即位が宣言された。 しかし、その9日後の7月19日には、一転して、
    ロンドン塔の因人となり、7ヵ月後の翌年2月12日に斬首となるという運命が
    待っていた。 17歳という若さであった。

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    ヘンリー8世の二人目の王妃であるアン・ブーリン(エリザベス女王の母)も、この
    ロンドン塔で運命の反転を受け入れざるを得なかった。 1532年6月1日の王妃の
    戴冠式に備えて、アン・ブーリンは、当時のグリニッジにあった宮殿から、ヘンリー
    8世と共にロンドン塔に入った。 二人の船に従う船は、4マイルの列をなしたという
    壮大な行列であった。 それが、3年後の1536年5月2日には、グリニッジ宮殿で
    罪状を知らされ、同じルートでグリニッジから船でロンドン塔に入り、ロンドン塔の
    グレート・ホールで裁判が行われ、5月19日に処刑された。

    このような処刑が行われたのは、イギリスの宗教改革と英国王位継承の事情が
    あった。 ヘンリー8世は、最初のスペイン国王カタリーナ・デ・アラゴンと
    結婚し、この時も二人は戴冠式の前夜をロンドン塔で過ごした。 10年のうちに
    6人の子供が生まれ、うち二人は王子であった。 しかし、いずれも生後間もなく
    死亡し、一人生き残ったのは、王女メアリーだけであった。 この時、英国王位
    継承を確保するためにどうしても王子が必要であったのは、想像するに難くない。
    これがカタリーナとの離婚につながり、更には、ローマ教会との決別、英国国教会
    設立という、英国特有の宗教改革につながった。

    1547年にヘンリー8世が死んだ時の子供は、カタリーナとの間に生まれたメアリー
    (31歳)、アン・ブーリンとの間に生まれたエリザベス(13歳)、ジェイソン・
    シーモアとの間に生まれたエドワード(9歳)であった。 メアリーと
    エリザベスは、いずれも非嫡出子とされ、王位継承からは外されていたが、
    最終的には、エドワードに続く王位継承者になった。 このエドワードの時代に
    英国国教会は、その土台を着実に築いた。 エドワード6世が15歳の1553年1月、
    重い病気に掛かった時に王位継承の危機が訪れた。

    この当時、40人の顧問官からなる枢密院が最高議会決定機関であり、そのリーダー
    であったノーザンバラトン公ジョン・ダドリーが事実上の政治的実権を握っていた。
    7月6日にエドワード6世が死ぬと、枢密院は、ジェイソン・グレイを王位継承者に
    指名し、7月6日にジェイソ・グレイはロンドン塔へ移され、戴冠式を待つこと
    となった。

    メアリーは、弟の死を知らされてもロンドンには行かず、カトリック支持の実力者が
    第三代ノーフォーク公トマス・ハワードび勢力下にあるイースト・アングリアに
    赴き、支持者を募った。 メアリーがケンブリッジ近くのソーストン・ホールに
    居るという情報を得たジョン・ダドリーが急遽兵を3,000人かき集めてこの館を
    急襲したが、メアリーを捕獲出来なかった。

    しかも、この館は、カトリック教徒の常識として、抜け穴、隠し部屋等の忍者屋敷
    さながらで、メアリーは、乳搾り女に変装して脱出したという。 メアリーのもと
    には、2万の勢力が終結していた。 ロンドンに残っていた枢密院は、ことの
    重大性を知り、先の決定をひるがえして、メアリーを継承者にすることを決定し、
    その旨をメアリーに伝えた。 7月19日のことである。

    このため、ロンドン塔に居たジェイン・グレイは、戴冠式を待つ身から一転して、
    ロンドン塔の因人になってしまった。 枢密院に裏切られたジョン・ダドリーも
    あっさり降伏し、反逆者として処刑される。 かつて王の後見人として実権を握って
    いたエドワード王の叔父エドワード・シーモアを失脚させて葬り去り、実権を
    奪取した男の末路であった。

    ジェイソン・グレイとギルフォード夫婦は、すぐには処刑されなかった。 
    メアリーには、この近親者を処刑する意図はなかった。 しかし、メアリーが
    カトリック宗主国スペインの皇太子フィリペとの結婚を表明すると、プロテスタント
    勢力の間に危機感が広がり、翌1554年1月26日、メアリーの廃位を目的とする
    ワイアットの反乱が起きた。 反乱は鎮圧されて、首謀者は処刑されたが、同じ
    ような反乱が起きることを防ぐために、ジェイソンとギルフォードも2月12日に
    処刑された。

    これが、メアリーによる粛清の始まりとなり、英国民の心に、カトリックに対する
    恐怖と偏見を深く長く刻み付けることとなる。 数年後、メアリーの突然の死に
    よって、悪夢が終わり、エリザベス女王の治世へと移り、再びプロテスタント国
    になると、ジェイソン・グレイは、その殉教者という地位を得ることとなる。

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