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    タグ:共産党

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    1991年8月、共産党強硬派は、ゴルバチョフ大統領の改革路線に反対して
    クーデターを起こした。 新たに選出されたロシア共和国大統領ボリス・
    エリツィンは、クーデターに対抗して、モスクワの最高会議会館に立てこもった。
    モスクワ市民は、エリツィン支持を叫んで集結し、3日のうちにクーデターは
    失敗に終わった。

    1991年末にソ連は崩壊して、エリツィンを指導者とするロシア連邦が生まれた。
    1993年10月、エリツィンは、彼の改革に激しく反対する強硬派の議会を解散した。
    今度は、共産主義者と民主主義者が最高会議会館を占拠し、エリツィンは、これに
    対して、実力を行使し。 約150人の死者が出た結果、強硬派は敗北した。

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    それ以後、ロシアは、市場経済に向かって突き進み、犯罪と汚職が横行するなど、
    様々な問題を抱えながらロシアは変貌を遂げ、人々の生活は良くも悪くも変わり
    つつある。

    1992年、ロシアは、国有経済から自由市場経済への急転換を目指した。 最初は
    混乱と物価の高騰が起こり、通貨のルーブルの価値は急落した。 その後、一旦は
    持ち直したが、2000年代に入るまで、ロシア経済は混乱の真っ只中に居た。

    新しいビジネスが始まり、建物が修復されて、ロシアの都市は、その様相を急速に
    変えた。 ソ連時代に破壊されたクレムリン宮殿の壮大な階段、赤の広場の
    復活の門、救世主キリスト教会などの重要な歴史的な建物も元通りに再建された。

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    【ミハイル・ゴルバチョフ】

    1985年、新しいソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフは、改革
    (ペレストロイカ)、開放(グラスノスチ)の政策を慎重に取り入れた。
    ゴルバチョフは、改革に反対する共産主義者と一層の民主主義を求める急進
    主義者の両方から攻撃を受け、1991年8月のクーデターから4ヶ月後に退任した。
    しかし、新しいロシアを生み出したのは、ペレストロイカであったことに
    間違いはない。

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    【ボリス・エリツィン】

    建設技術者であったボリス・エリツィンは、1960年代にウラル地方の
    スヴェルドロフスクの党第一書記、1980年代には、ゴルバチョフの元でモスクワの
    共産党書記長となった。 1987年には、ゴルバチョフによって解任されるが、
    その4年後、ソ連最大のロシア共和国の大統領となった。 エリツィンは、ロシア
    史上最初の国民によって選ばれた指導者である。 1996年6月に行われた民主的な
    選挙では、隊長は十分ではなかったにも関わらず、再度大統領に再選された。

    1991年8月のクーデターから、12月31日までの4ヶ月は、ロシア史上でも最も混乱に
    満ちた時期だった。 その間に、共産党は解体され、ソ連邦を構成していた共和国は
    分解して、ゆるい関係の独立国家共同体(CIS)を作り、ソ連邦の最後の指導者
    であるゴルバチョフが辞任した。 ソ連の赤い国旗がクレムリンから降ろされ、
    そこに新しいロシアの国旗が掲げられた。 民主的なロシア連邦誕生の瞬間である。

    それまでのソ連邦を構成していた他の14共和国が分離独立しても、ロシアは、世界
    最大の国であり、潜在的な資源も極めて豊富に存在している。 ソ連邦の15共和国の
    うち、バルト3国を除く12共和国がCISへ加盟し、その後、グルジアとウクライナが
    脱退した。 トゥルクメニスタンは、当初から非公式な加盟国であったため、現在の
    CISの正式な加盟国は、9カ国となっている。

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    ロシアでの革命には、多くの要因があった。 1905年には、民衆の間で不満が吹き出し、
    ストライキ、暴動、反乱が起こった。 食糧不足、皇帝ニコライ二世の指導力の弱さ、
    第一次世界大戦でのロシア軍の惨憺たる戦いぶりなどが更に不安を強め、戦争を
    終結させられなかったことなどが、兵士や農民の怒りを招いた。

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    【怪僧ラスプーチン】

    ニコライ二世と皇后アレクサンドラに多大な影響力を持っていたのが、怪僧グリゴリー・
    ラスプーチン。 彼がそれほど信頼されたのは、皇太子アレクセイの血友病を治療した
    ためだった。 第一次世界大戦中、皇帝が前線に出ている間は、ラスプーチンがロシアを
    支配した。 1916年、評判の悪かったラスプーチンは、皇帝の親族によって殺された。

    1905年1月9日、若い僧であるガポンは、皇帝に請願するため、労働者と共に冬の宮殿に
    向かって行進していた。 そこへ兵士が発泡し、女性や子供をも含むデモ参加者が
    何百人も殺された。 この虐殺が、皇帝に対する国民の忠誠心を揺るがすこととなった。

    1914年、ロシアは、フランスやイギリスと共に、第一次世界大戦に参戦した。 ロシア軍は、
    最初のうちは、オーストリアとドイツに対して、勝利を収めたが、補強が十分ではなく、
    やがて負け戦となって、多くの損害や脱走兵を出した。 そのあたりから、国民の熱狂は、
    幻滅と厭戦気分に変わったのである。 

    そして、1917年2月、ペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)で暴動が起こった(2月革命)。
    これを切っ掛けに、ニコライ二世は退位し、臨時政府が後を引き継いだ。 1917年10月
    には、ウラジミール・レーニンが指導するボリシェビキ(共産)党が権力を握った(10月革命)。
    レーニンは、臨時政府を解体し、ウクライナを含む広大な領土を譲って、ドイツと講和を
    結んだ。

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    1917年の革命は、ペトログラードがほぼ無血のクーデターだったのに対し、モスクワでは
    暴力的なものとなった。 戦闘的な労働者は、臨時政府に忠誠を尽くす強力な士官学校と
    激しく戦った。 ボリシェビキが、このロシア第二の首都で勝利を収めたのは、クレムリン
    周辺での激戦が10日間続いた後のことだった。

    1917年3月、巡洋艦オーロラ号の水兵達が反乱を起こし、ボリシェビキに加わった。
    10月25日、ペトログラードの中心部のネヴァ川に怒りを降ろしたオーロラ号が1発の
    空砲を発射した。 これが、殆ど無防備の冬の宮殿で会議を開いていた臨時政府の
    メンバーを襲撃する合図だった。

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    【ウラジミール・レーニン】

    ウラジミール・レーニンは、学生時代からの革命家で、1897年にシベリアに流刑になった。
    『労働者は既成権力に対して立ち上がり、公正な社会を作らなければならない』と信じる
    レーニンは、1900年に外国で逃亡者のロシア社会民主労働党の支配権を獲得した。
    党は、ボリシェビキ(多数派)のレーニンのグループと、それに対立するメンシェビキ
    (少数派)に分裂した。 ボリシェビキは、革命を指導した。

    【レオン・トロツキー】
    レオン・トロツキーは、精力的な革命家で、1905年の革命で投獄されて流刑となったが、
    国外に逃亡して、1917年にボリシェビキに参加した。 トロツキーは、レーニンと共に、
    10月革命の中心的な役割を担った。 外務人民委員や国防人事委員を努め、内戦の
    時は、赤軍を組織して、これを指揮した。

    ボリシェビキ革命後は、帝政ロシアの数々のシンボルが破壊された。 1918年には、
    ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の巨大な像が倒された。 破壊を命じた
    レーニンは、彼の兄がアレクサンドル暗殺を計画して処刑されたことを決して忘れては
    いなかった。

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