1945年、ソビエト、イギリス、アメリカの3国は、ポーランドの新しい国境線に
ついて合意した。 ソビエトは、ポーランドの東部地域で18万1,300平方キロ
メートルの土地を併合し、ドイツの領土だった10万3,600平方キロメートルの土地が
ポーランドに加えられた。 国境線の変更によって、800万人ものドイツ人が
ポーランド北部と西武から立ち退いて行った。

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ポーランドの共産主義者達は、ソビエト連邦の共産党をモデルに、ポーランド共産党
(統一労働党)を組織した。 この党は、労働組合を創設し、各都市と各州に行政
委員会を置いた。 1947年、共産党は、選挙干渉を行って、ポーランド国内で
共産主義者が多数を占めるようにした。 共産主義の指導者達はその後、自分達の
国名をポーランド人民共和国と改めた。

ポーランド政府はやがて、全ての民間企業を国営化した。 物価も労働賃金も政府の
企画担当者が設定した。 農民達は、強制的に集団農場に加盟させられ、集団農場
では種まきも収穫も農産物の販売も全て国家の管理の下に置かれた。 政府は、
教会の土地を接収し、政権を批判する人々を逮捕し、いくつかあった反対党を
共産主義者の管理の下に再編成させた。

ポーランドは、ヨーロッパ中部に形成された共産主義国家ブロックの一員となった。
このブロック内では、貿易も産業もソビエト経済と密接に繋がっていた。 ポーランド
政府は、新しい工場を次々に建設したが、これは大型機械、その他の工業製品を
ソビエトへ輸出するためだった。 ポーランドの共産主義者の中でも、ソビエトの
影響に反抗する者は、その地位を失って行った。 1948年、ポーランドの共産主義
指導者であるヴァワディスワフ・ゴムウカは、ソビエトの政策に異議を唱えたため、
投獄された。

それでも、ポーランドの学生、芸術家、労働者は、政府に対して抵抗し、1956年、
反政府暴動がポズナニに発生した。 このため、ポーランド政府はゴムウカを
釈放した。 ゴムウカは、ポーランド共産党第一書記(党首)に就任した。

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ゴムウカは、投獄されていたカトリックの聖職者達を釈放し、集団農場の大部分を
個人農民に返還した上、西ヨーロッパ諸国との接触を強めた。 しかし、
1960年代を通じてゴムウカは、ソビエト指導部の設定した政策の大部分に追随した。
国内では、共産主義への反抗がなおも続き、1970年に経済状態の悪化を巡って、
広範な暴動が頻発したため、ゴムウカは退陣した。

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