多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
共生社会を目指します。
日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:共産主義

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    ビシケク(フルンゼ)
    ビシケク散策は続きます。 中心部にはソ連時代の建築物が数多く残っているため、
    ソ連を感じたいのであれば、ビシケクはうってつけ。 大型で大げさなデザインは、
    ソ連式共産主義の象徴。 記念碑が妙に多いのもソ連の特徴で、街の至るところに、
    この様な記念碑が建っています。
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    ビシケク中心部を歩いていたところ、大学があったため、中を見に入りました。
    最近は、ロシアの大学とかでも、入り口にゲートが据え付けられており、なかなか
    中まで入るのは難しいものの、この大学には特に何もなかったため、すんなり中へ
    入れました。 地球の歩き方を持たずに適当に散策をしたため、恐らく、キルギス
    国立大学ではないかと思われます。

    ビシケクは緑の多い街で、市中心部でもこんなに緑があります。 晴れているので、
    暖かいように見えますが、この日の気温は5月の初めなのに、何と7度。 ビシケクは
    結構標高が高いため、涼しいを通り越して結構寒い。 よって、ゲストハウスの
    オーナーから、ジャージと傘を借りて出掛けました。

    【ビシケク】
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    楽しかったビシケクともこれでお別れ。 市内から約30キロ離れたビシケク空港に
    向かいます。 キルギスにもYandexタクシーがあるため、オーナーにタクシーを
    呼んで貰いましたが、このゲストハウスでは、色々と話し込んだため、非常に
    お名残り惜しい。 ビシケクに行ったら、またこのゲストハウスに絶対に
    泊まります。

    こちらは、ビシケク空港にあったキルギス土産の数々。 このモンゴルのゲルの様な
    物は、ロシア語では「ユールタ」と言うのだが、学生時代に覚えた単語なのに、
    意外と忘れていませんでした。

    【ビシケク】
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    ビシケク・マナス国際空港から、カザフスタンのエア・アスタナでアルマ・アタへと
    向かいます。 キルギス人に言わせると、カザフスタンは歴史を勝手に書き換えて
    いるそうで、元々は、どちらもキルギスだったとか。 中央アジアの歴史は、
    スターリンによって、かなりの資料を処分されてしまったため、明らかになって
    いない部分が多いものの、中央アジアの第一人者は日本には存在しないため、
    これから中央アジアを研究すれば、誰でも第一人者になれなくもないw マナス
    国際空港の空港コードは、旧名のFRUのまま残っております。

    【ビシケク・マナス国際空港】
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    ティラナ中心部にある広場は非常に明るい雰囲気で、また来たくなるような国
    アルバニア。 元々社会主義の国なので、建物は重厚な造りとなっています。

    ティラナで見る物と言えば、放置されたピラミッドぐらいだが、共産党時代に
    建設された物が今でも放置されているとか。 とかく、旧共産主義国家には、
    〇〇廟なる崇拝施設があるのだが、アルバには、そのような物はない模様。

    【ティラナ】
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    ティラナのバスターミナルは、中心部から歩いて約30分の場所にあり、鉄道の便は
    更に少ないため、東欧の移動はバスが主流となります。

    【バスターミナルの場所】

    ティラナのバスターミナルは、東欧に良くある情報が一切何も書いていないため、
    行き先表示板もなければ、案内所もないため、適当な窓口に入って、ポドゴリツァ
    行きのバスのプラットフォームを確かめたものの、定刻よりも15分程度遅れている
    そうで、暫く外でバスを待つことになりました。

    【ティラナ中心部~バスターミナル】
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    ティラナを出てモンテネグロへ向かう途中、アルバニア最古の都市にして、第4の
    都市であるシュコドラを通ったのだが、こちらの街もかなりの経済発展を遂げて
    いる様で、こちらは、元々は、モンテネグロ領だったらしい。

    シュコドラを越えて、再度モンテネグロへと入る際の国境がなかなか曲者で、国境を
    越えるだけで1時間以上も掛かりました。 モンテネグロに入ってからは、首都の
    ポドゴリツァまでは、ものの20分程度という至近距離です。

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    1840年代のフランスの商人たちは、ベトナムの経済資源の開発に熱心だった。
    彼らはフランス皇帝ナポレオン3世に対して、ベトナムを侵攻するよう圧力を
    掛けた。 フランス艦隊は1858年に、ダナン港の攻撃を繰り返したが、制圧
    することが出来なかった。 翌年、フランス軍はサイゴンを占領すると、
    グエン王朝にメコンデルタを放棄させ、1867年には、この地域をフランス直轄
    殖民地にコーチシナにした。

    フランス軍は1880年代初めに更に北に進軍し、フエと紅河デルタを攻撃した。
    80年代末には、アンナン(ベトナム中部)とトンキン(ベトナム北部)が
    フランスの手に落ちた。 フランスはこの2地域とコートシナに加えて、やはり
    フランスが支配していたカンボジアとラオスを合わせて、フランス領インドシナ
    連邦を形成した。 フエのグエン王朝は内政だけは行う名ばかりの支配者に
    過ぎず、フランス政府が任命する総督が連邦全体を統治した。

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    植民地の統治者たちは、ベトナムの天然資源を開発して行った。 フランス人は
    メコンデルタの米を増産するために、湿地を干拓し、灌漑設も整えた。 植民地
    政府は、カンボジア国境沿いの土地をフランス人入植者に与え、大規模な農場や
    ゴム園を造らせた。 人口の希薄な中部高原地帯の土地所有者たちは、茶等、
    輸出でお金になる作物を栽培した。 北部では、フランス人は石炭と鉱物を
    採掘した。

    フランス人は、生産物を市場に出荷するために、ベトナム人労働者を使って港湾、
    道路、橋、鉄道を建設した。 だが、ベトナムの経済開発は現地の人々を潤さ
    なかった。 大抵の農民は、所有地の農場に住んでいない不在地主のために
    働いた。 不在地主は、収穫した穀物を現地で売らないで輸出した。 土地を
    失った大勢のベトナム人は、賃金も安く厳しい労働条件の下で、炭鉱やゴム園で
    働かなくてはならなかった。

    【抵抗運動と第二次世界大戦】
    フランスの厳しい植民地支配のため、インドシナ連邦に対するベトナム人の反対が
    強くなった。 貧しい農民たちは、高い税金、官吏の腐敗や、不在地主の権力の
    増大に抗議した。 20世紀初めには、ベトナム人の知識人グループが民族主義運動を
    起こし、フランスの支配を覆して立憲政治を打ち立てようとした。

    1920年代になると、ソ連の指導者レーニンの共産主義が、ベトナムの新しい世代の
    民族主義者に影響を与えた。 その中に、ホー・チ・ミンという若い活動家が居た。
    共産主義者たちは、農場、工場、鉱山等、全ての生産手段の国有化を唱えた。
    フランス滞在中に、ホー・チ・ミンはフランス共産党で活動するようになり、故国に
    戻って共産主義運動を始め、1930年にはインドシナ共産党を組織した。

    1930年代には、ベトナム人は、世界大恐慌を乗り切るのに必死で、政治不安も
    起きなかった。 インドシナ共産党は、不況で反仏感情を一層高めていたアンナンと
    トンキンで、特に運動を成功させた。 1930年代の終わりには、民族主義、
    非共産主義政党も沢山組織された。 これらの政党とインドシナ共産党は、フランス
    植民地政府によって強く反抗した。

    やがて、強力な日本帝国が東南アジアを脅かして来た。 第二次世界大戦で
    日本はアメリカとイギリスと戦い、1942年までにインドシナ半島全体を占領して
    しまった。 日本はベトナムに日本軍を進駐し、ベトナムの軍事施設を使用する
    権利と引き換えに、フランスのインドシナ連邦における主権を認めた。
    インドシナ共産党をはじめ、民族主義諸政党の指導者たちは、中国南部に亡命
    していた。 日本に反抗してベトナムの独立を勝ち取るために、亡命先で統一
    戦線を結成した。 この組織はベトミン(ベトナム独立同盟)と言われ、戦争が
    終わった後、フランスに対して反乱を起こす準備をした。

    【お勧めの一冊】


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    チェコスロバキア共産党は、戦後初の総選挙で多数を獲得した。 3年間ベネシュを
    大統領としていた共産党は、諸党と連立を組んで政権の座に居た。 共産党の首相
    クレメント・ゴットワルドは、共産党から主要閣僚を任命した。 経済の国家管理を
    掲げる共産党をはじめ、諸党から参加した人民委員会が企業の国有化を決定した。
    共産党の権力が高まるにつれて、政府内の多くの反共産主義派は、危機感を高めた。

    1948年をはじめ、内閣の反共産主党閣僚は、新しい選挙を強行するために辞表を
    提出した。 選挙をすれば、共産党の敗北は確実との確信があったからである。
    しかし、共産党は、選挙戦に参加する代わりに、プラハで威圧的な集会を開いた。
    深まる混乱を避けるため、ベネシュは共産党幹部たちを新政権の閣僚に任命した。

    CommunistParty

    1948年、ベネシュに代って、共産党のゴットワルドが大統領になった。 政府は、
    反対党を禁止し、チェコスロバキアを厳しい一党支配の国に代えた。 報道機関、
    学校、経済は、国家に管理された。 チェコスロバキアは、ソ連へますます接近し、
    ヨーロッパ共産主義国の軍事同盟であるワルシャワ条約機構にも参加した。

    ソ連を模範として、チェコスロバキアは工業、銀行、農業分野も政府の管理下に
    置いた。 政府は、高い生産目標を設定し、同時に価格を賃金を固定した。 国家は
    ソ連からエネルギーを輸入し、チェコスロバキア製品は、ソ連を市場として輸出
    された。 新しい体制では、ほとんどの労働者は、低賃金で長時間働いた。

    地方では、農民は土地と農業機械を共有し、強制的に共同組合に加入させられた。
    価格が固定された協同組合の収穫や家畜の販売先は、政府に限られていた。

    政府によって没収された土地は、国営農場に組み込まれ、農民は賃金労働者に
    なった。 例え、収穫が増えても農民は、生産の増収に値する賞与を受けて
    いなかった。

    【お勧めの一冊】


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    ポーランド人が10世紀にキリスト教を信仰するようになって以来、カトリック
    教会は、大きな影響力を持つようになった。 教会への忠誠心によって、
    ポーランド人は19世紀の分裂と外国支配の時期にも、民族としての自覚を保つ
    ことが出来た。 その後、共産主義政府が宗教活動を制限するようになっても、
    一部の教会や神学校は、人々の間で存続した。 教会の指導者たちは反体制
    運動に参加した。 1878年、ポーランド教皇、ヨハネ・パウロ2世となると、
    自分の影響力と人気を活用して、改革を推進させた。

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    クリスマスとイースターは、主要な宗教的祭日である。 8月15日の聖母
    被昇天の祝日には、多くのカトリック教徒がチェンストホヴォにあるヤスナ・
    グラ修道院に行き、『黒の聖マリア』の霊廟に礼拝する。 信仰の厚い人たちは、
    この聖母マリ像が17世紀のスウェーデンの侵略を阻止したと信じ、以来
    『黒の聖母マリア』は、ポーランド民族の象徴となった。

    ポーランド人の95%以上がカトリック教徒である。 残りの大部分はギリシャ
    正教徒、プロテスタント、または、ユダヤ教徒となっている。

    何世紀もの間、ポーランドはユダヤ人たちの信仰と知識と文化の重要な中心
    だった。 しかし、第二次世界大戦中、ユダヤ系住民たちは、ナチスの迫害に
    よって、蹂躙され、この戦争で生き残ったユダヤ人たちの大部分は、ポーランド
    国外に移住して行った。

    【お勧めの一冊】


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