ロシア帝国では、農奴制に依存した貴族の大土地所有が続き、農業生産性の
低さもあって、工業化が遅れていた。 1861年の農奴解放令を切っ掛けに、
農村の余剰人口は都市への流入を開始し、露仏同盟を基盤としたフランス資本の
導入(シベリア鉄道の建設等)もあって、19世紀末に工業化が始まったが、20世紀
初頭の時点においてもその生産力は西欧やアメリカなどの先進工業国に大きく水を
あけられていた。 ただし、1905年のロシア第一革命で都市労働者と兵士の合同
評議会であるソビエトが組織され、ロシア社会民主労働党や社会革命党等の社会
主義勢力の支持基盤となった事は、その後のロシア政治にとって大きな意味を
持った。

レーニンは、ソビエト政権を防衛するための内戦を戦うため、1918年、全ての
企業の国有化、反革命と見なした貴族・資本家・地主の資産没収、農村における
穀物の強制徴発などを含む「戦時共産主義」とよばれる政策を実施した。 これは
ソビエト政権の勝利に大きく貢献した一方、特にウクライナなどの農村部で数百
万人とも言われる餓死者を出した。 また、有能な経営者の粛清や亡命もあって
工業生産力も極端に低下した。

その後のソビエト体制下での工業化の発展に伴い、農村部から大量の工業労働者が
流入したが、彼らは概ね、党や行政の住宅委員会の裁量で、かつで貴族や
ブルジョワの住まいであった大きな邸宅を小さく仕切って、そこに住み着いた。
そのような建物は、『コムナルカ』と呼ばれた。 共同住宅という意味である。
コムナルカでは、寝室は各世帯が別々で、食事を作る台所や手洗いは共同で使用
するものだった。 とりわけ、市の都心部には、コムナルカが多かった。 元々
住んでいた富裕層の家族も多くの場合、そうして仕切られた部屋の一つに格下げ
されて住んだ。

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不便な暮らしは、地域暖房が一般化するにつれて、解消した感があった。 地域暖房
というのは、1つの市域全体に暖房のネットワークを及ぼすというものである。
かつてロシアの家庭では、一戸づつに大きなペチカ(かまど)があって、暖房を
行っていた。 レーニンの共産党は、政権を取ると、『共産主義はソビエト権力
プラス電化である』というスローガンを掲げた。 モスクワでは、クレムリンに
近いモスクワ川の対岸に巨大な火力発電所を建設した。 そして、タービンを
冷やす時に生じる熱水を普通の水道水と並行的に各家庭に供給した。

モスクワ市内のどの家庭の台所にも、冷水と温水の2つの蛇口が付いているが、
これは、ホテルでも同じである。 こうすることによって、冬の最中でも、
モスクワの屋内の居間では、Tシャツ一枚で過すことが出来るようになった。

旧ロシア時代には『レニングラード』と呼ばれたサンクトペテルブルクでは、
1980年代までこうした共同住宅が利用されていた。 当時はアパートの40%近くが
コムナルカだったという。 ソ連時代に市中心部が大々的に改修されたモスクワでは
当時からもっとコムナルカが少なく、今ではほとんど残っていないのと対照的と
なっている。

サンクトペテルブルク市当局も2008年、コムナルカの住人全員を退去させる政策を
打ち出した。 その後7年間で、市内のコムナルカの数は11万6,000戸から8万3,000
戸に減少したという。

コムナルカでの生活には、一長一短あるという。 一人ぼっちにはならない代わりに
10人前後で台所や手洗いを共同で使用するため、隣人との関係が難しいという
問題を抱えている。 独居老人や一人が嫌いな人には打って付けの住居だが、
プライベートの空間が少ないめ、サンクトペテルブルグでも様々な問題が持ち
上がっている。 

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