世間体ばかりを気にして、『良い人』を常に演じなければならない全体主義の
日本では、本音と建前の乖離が激しい。 凄まじい人の場合だと、本音と建前が
完全に反比例しており、全くの別人と言わざるを得ない。 いわゆる、二枚舌、
あるいは、ダブルスタンダートと呼ばれているこの乖離性は、人前でも堂々と
ウソを付いても良いというお墨付きのようなもの。
本音と建前の乖離性が少ない、あるいは、ない人の場合は、特に問題は
ないのだが、この乖離性が激しい人の場合は、ある種、二重人格とも言える
ような病んでいる状態であるため、いつ何時、急にそのストレスが爆発する
のかが分からない。
このような事柄を避けるためには、多様性を認め、話し合いによって、何でも
許し合える社会を構築をする必要性があるのだが、多様性を全く認めない
全体主義社会では、答えは常に1つしか存在せず、個人の自由や意思は完全に
無視して、全て同じ思想の人間ばかりを強制的に量産している。
これらの事柄は、集団行動が否が応でも強要される、学校や職場等では特に
端的に現れる。 人格形成を行う場である筈の学校では、いじめや判で押した
ような画一的な思想の押し付けがまかり通っており、例え、教師であった
としても、いじめの対象になり得るため、これら社会問題の根本的な解決には
至ってはいない。
ブラック企業に代表される悪徳経営者らによる人権侵害が近年社会問題化
しているが、そもそも、学校においても、他者を批難しないように骨の髄まで
教育されているため、理不尽な経営方針に対して、疑問を抱きながらも、
ついつい従ってしまう人間が多くなっている。
特にこのような場面では、本音と建前の乖離性が進むのだが、ここで
我慢せずに、ハッキリと本音を述べておけば、社会のためにもなるのだが、
このようなことを平気で出来る人間は限られるため、そのような場合には、
多少汚い建前、あるいは、より綺麗な本音を述べることをお勧めする。
本音と建前の乖離性が進んだ社会では、本音を隠して生きなければならないため、
その苦痛感から逃れるために、視点を完全にずらしたお花畑な話題ばかりが軒を
連ねるのだが、そのような会話は全く持って意味を成さない。
人間の深層心理として、多数派に属している方が安心感が得られるのは理解出来る
ものの、おかしな集団に属して安心感を得るのは到底頂けない。 個人の思想を
完全に無視して、他人を奴隷扱いして平気で居られるのは、封建時代の支配者だけで
あり、現代社会においては、思想の自由が保障されていなければ、先進国とは到底
言えない。
画一的な思想から逃れる方法としては、常にアンテナを張り巡らせて情報収集をし、
更に、良い人を演じることを止めて、本音だけで生きることが一番なのだが、
急に本音で語り出すと、周囲に衝撃が走るため、徐々に小出しに本音を述べる
のはどうであろうか?
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