1279年から1368年の間、中国は元王朝のモンゴル人の皇帝に支配されていた。 
彼らは、北方の平原から馬に乗り攻め入った。 1215年、モンゴルの指導者、
チンギス・ハンは、南下して北京を占領した。 1279年には、その孫にあたる
フビライ・ハンが中国全土を征服する。 中国は、中央アジア全域に広がる
モンゴル帝国の一部となった。 フビライの王朝である元は、中国をほぼ1世紀に
渡って支配した。

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モンゴル人は平和と繁栄をもたらした。 代々の皇帝は交易に熱心で、旅人が
中国を訪れるようになった。 1275年、ベネチア出身のイタリア人商人、マルコ・
ポーロは、初めてフビライの宮廷を目にする西洋人のひとりとなった。 彼は、
17年間を中国で過ごした。 中国文明の様々な面をヨーロッパ社会に伝えた
『東方見聞録』は、ヨーロッパでベストセラーになった。

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その後、元王朝から明王朝となり、最後に清王朝となった。 清の支配者は、
中国北部の満州出身だった。 はじめのうち、清の政治は、上手く行っていたが、
次第に力は弱くなって行った。 1800年代になると、大規模な洪水や地震が
中国に深刻な被害をもたらした。 貧しい人々の多くは、中国がこのような災難を
被るのは満州出身の皇帝のせいだと批判した。

清は変化に逆らって、ヨーロッパとの交易を禁止した。 しかし、ヨーロッパ諸国は
次第に産業や技術の分野で中国を追い越すようになった。 清の力が弱まるに
つれて、イギリスの商人たちは、自国で非常に人気のある絹や紅茶、磁器なとを
自分たちに売るように中国に圧力を掛けるようになった。

それと引き換えにイギリスは、インドで栽培されるアヘンという麻薬を中国に
売り込んた。 多くの中国人がアヘン中毒になり、仕事が手につかなくなった。

清がアヘン貿易を禁止しようとすると、イギリスは無理やり中国に対して2度の
戦争を起こして、中国を破った。 イギリス中国から強制的に貿易の権利を入手し、
香港などの領土を奪った。

最後の皇帝溥儀
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フランスやドイツ、日本などの国々も、イギリスの動きに便乗して中国内に
領土と影響力を手に入れた。 清の支配に反対する人々が、中国各地で結集し
始めた。 1911年、大きな暴動が起こった。 最後の皇帝溥儀は1912年、退位
させられた。 新しく組織された国民党の孫文は、中国を共和国と宣言し、
大統領となった。

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