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長野県東部に位置する上田。 2016年度の大河ドラマは『真田丸』に決定しているため、
今のところ観光客はまばらだが、東京から新幹線で1時間弱の場所にあり、かつ、上田城も
上田駅からほど近い場所にあるため、来年は観光客が押し寄せるものと思われる。
郊外には、『信州の鎌倉』とも呼ばれる程仏閣が多い別所温泉もあるため、首都圏からの
日帰りの旅行にも最適。
『日本一の兵』と呼ばれていた真田幸村は、 安土桃山時代から江戸時代初期に掛けての
武将。 本名は、真田 信繁(さなだ のぶしげ)だが、真田幸村の名で広く知られている。
直筆の書状を始め、生前の史料で『幸村』の名が使われているものは無く、『信繁』が
正しい。
江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の
寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康をあと一歩のところまで追いつめた。
後世に江戸幕府・諸大名家の各史料にその勇将振りが記録され、それらを基に軍記物や正しい。
江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の
寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康をあと一歩のところまで追いつめた。
講談や小説などが創作されて、真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的
武将として語られるようになり、庶民にも広く知られる存在となった。
大坂城入城の折には、信繁の率いた軍は、真田の赤備えと呼ばれ、鎧を赤で統一して
いたという。 この赤備えには、諸説あるが、赤は膨張色であるため、少ない兵をより多く
見せるために用いたという説が有力。
慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いに参加。 伊達
政宗隊の片倉小十郎重長を銃撃戦の末に一時的に後退させた。 翌5月7日、最後の
作戦を立案する。
それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と
突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、
合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。
しかし毛利隊が合図を待たずに射撃を開始してしまったため、作戦を断念せざるを得なく
なった。 これを受けて信繁は、『今はこれで戦は終わり也。 あとは快く戦うべし。
狙うは徳川家康の首ただひとつのみ』とつぶやき、真っ正面から真一文字に家康本陣
のみに狙いを定めて突撃を敢行した。
この突撃により、徳川勢は壊乱して総崩れの観を呈するに至った。 真田隊は、越前
松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破し、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦
しつつ、後方の家康本陣に突入。 親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙した。 真田隊の
凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。
しかし数度に渡る突撃戦により部隊は消耗し、兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、ついに
四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていた
ところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、『わしの首を手柄にされよ』と
最後の言葉を残して討ち取られた。 享年49。
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四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていた
ところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、『わしの首を手柄にされよ』と
最後の言葉を残して討ち取られた。 享年49。
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