多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

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    タグ:会津

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    白虎隊の学び舎 会津藩校 日新館とは
    江戸時代、全国300藩校の中でも、規模、内容共に随一と謳われたのが、会津藩の
    学校「日新館」で、多くの優秀な人材を輩出し、全国屈指の名門藩校と言われた。

    日新館は、5代藩主松平容頌(たかのぶ)時代の家老、田中玄宰(はるのぶ)の
    「教育は、100年の計にして会津藩の興隆は人材の養成にあり」との進言によって
    計画され、5年の歳月を掛けて享和3年(1803年)に鶴ヶ城の西側に会津藩の最高
    学府として完成した。

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    広さは東西226m、南北116m、面積8,000坪、建物は1,500坪もあった。 幕末に
    飯盛山で自刃した白虎隊の少年達も勉学はもちろんのこと「ならぬことはならぬ」の
    精神を学び、未来に夢を馳せていた。
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    日新館は、戊辰戦争で焼失した後、昭和62年に会津の精神文化を後世に伝えようと
    完全復元された。 藩士の子弟は10歳で入学して学問や武道に励み、心身の鍛錬に
    努めた。 約8千坪の敷地に武道場や天文台、日本最古のプールといわれる水練
    水馬池などがあり、新島八重の実兄・山本覚馬や白虎隊の少年達をはじめ、多くの
    優秀な人材を輩出。 覚馬はのちに、この日新館で蘭学の教授も務めました。

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    河井継之助は、越後長岡藩の家老であり、郡奉行の職に就いてから数々の
    藩政改革を行い、若くして重職に抜擢された。 戊辰戦争において、長岡藩を
    率いて新政府軍に徹底抗戦したことで知られる継之助ですが、本来目指して
    いたのは『武装中立』であった。 当時、日本に3門しかなかった最新鋭の
    ガトリング砲を2門購入し、戊辰戦争に投入した。 丸腰だけではどうにも
    ならないため、武装での中立を目指したのである。

    諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で
    生きて行くことを志向した継之助。 しかし、その先進的な考えは理解されず、
    開戦へと突き進み、戦いのなかで落命して行くこととなります。



    彼が目指したのは「庶民を豊かにすることで藩の財政を立て直す」という、
    現代の日本人が聞いても羨ましい立派なものでした。

    実際に、
    代官の収賄禁止
    100石以上の藩士の禄は減らし100石以下のものは増やす
    水が腐ったような土地の免税
    川の通船税取立て廃止
    などを敢行。

    そしてわずか1年で藩の余剰金9万9,000両を残すのです。



    戊辰戦争での継之助は、講和派で、会津をかばい、最後まで戦争を避けようと
    していた。 しかし、交渉は決裂し、長岡藩は奥州列藩同盟側として開戦を
    決意する。 継之助は、長岡城の攻防で指揮官として采配を振るい、落城し、
    敵に奪われた城を一度は奪還した。 だが、その時に膝に傷を受け、指揮を
    取れなくなった。 体制を立て直すため、長岡軍は会津若松へと敗走するのだが、
    彼は濃毒症を発症したと考えられ、只見に到着した時には、既に重体であった。

    先に会津へ落ち延びていた藩主が派遣した幕府の医師の治療も受けたものの、
    当時の技術では、銃創に対する適切な処置が出来ず、直接的な死因は、
    破傷風だったと言われている。 42歳だった。

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    長岡の陥落は7月29日。 川井継之助が只見に入ったのは8月5日。 逃れて
    来たのは兵士ばかりではなかった。 町を焼かれた庶民も只見に押し寄せた。
    8月1日から10日間ほどに、延べ1万5,000人の兵士や避難民が只見に滞在した。

    避難民は土砂降りの中、八十里越を越えて来た。 只見をはじめ、伊南川
    流域の村々に分宿し、60人ほどに班分けされ、徐々に会津若松に送り出されて
    行った。 主に只見川沿いのルートをたどったらしい。

    戊辰の当時、会津若松へ向かう兵士や避難民たちは、濁流渦巻く只見川を
    恐れながら旅をしたことであろう。 この時の豪雨は、もうひとつの悲劇を
    生んでいる。

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    2018年で150周年を迎える戊辰戦争では、鶴ヶ城こと若松城下での戦いが有名だ。
    戦火は会津藩領全域に及んでいた。

    ひときわ山深い奥会津は、一時占領されたものの、その地形を生かしてゲリラ戦を
    展開。 新政府軍を追い散らし、戦いは会津軍優勢となって行った。 若松城下で
    敗戦間近だった時、奥会津では負けていなかったのである。

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    奥会津は山深い。 只見川、伊南川の流域は、この2川とそこに注ぐおびただしい
    数の支流が山ひだを縦横に縫って、深い谷をつくっている。 そして、それらの
    川筋に町や集落が散在する。

    奥会津は福島県会津地方の南西部。 柳津町、三島町、金山町、昭和村、只見町、
    桧枝岐村、南会津町の7町村を指す。 この町村に、会津若松市の一部、会津美里町
    高田地区の大部分、下郷町、更に栃木県日光市の一部を加えた地域が、かつては
    天領だった。 南山御蔵入領という。

    天領は直轄地だが、南山は長い間、会津藩が幕府に代わって統治する預かり地と
    なっていた。 山間で農地が少ないため、米は余り採れなかったが、下野(栃木)と
    並ぶ麻の一大産地であり、交易の盛んな土地だった。 その豊かな山河が幕末、
    戦火に蹂躙された。 慶応4年(1868年)、会津戦争の時である。

    大政奉還の翌年の1月、鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争は、江戸、関東、
    上越へと拡大して行き、会津に及ぶ。 戊辰の会津戦争と言うと、若松城の
    落城や、白虎隊の悲劇が良く知られている。 しかし、この南山でも、熾烈な
    戦いが領内の至るところで繰り広げられた。

    それは、幹線道である下野街道、越後街道をはじめ、八十里超、沼田街道など、
    若松城下へ向かう道が何本も南山を通っていたからだ。 この交通の要衝、
    各街道の入り口を防御することが、会津藩の死活に関わったのである。

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    同年閏4月、会津と旧幕府方の連合舞台(東軍)が下野街道を南下し、宇都宮領内で
    新政府軍(西軍)と衝突。 西軍が南山に侵攻する。 更に7月29日に越後長岡城が
    落城すると、南山が騒がしくなる。

    戦況は当初、西軍優位で進んだ。 南山統治の本拠、田島陣屋を奪い、一時は
    奥会津をほぼ制圧する。 だが、その直後に東軍は巻き返しをはかり、西軍を
    追い立てた。 占拠された田島陣屋を奪還。 更に各所に兵力を展開し、優位を
    取り戻すのである。

    意外にも、この時の東軍の主力となったのは、屈強で知られる会津藩正規軍では
    ない。 領内から集められた農兵を中心とする臨時編成の部隊だった。 しかも、
    奥会津での戦いは、9月22日に若松城が落城し、会津藩が降伏した後も、数日間に
    渡って続いた。

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    おいしんぼ騒動から早数ヶ月が経過したが、未だ、福島での鼻血騒動は、一部では、
    かなりの話題となっている。 震災関連のイベントに行くと、ほぼ必ず、福島の人たちと
    一緒になるが、ここで問題になるのが、この福島の人たち。

    ご存知の通り、原発事故後早々に、放射性物質による汚染、並びに、被曝を恐れ、
    福島を後にした人たちが数万人規模で居るが、福島にそのまま残った人たちと、
    福島を後にした人たちでは、事故に対する『想い』に相当食い違いがあるのも事実。

    実際に、福島を訪れて見ると、津波災害を受けたのは、沿岸部の極々一部だけで、
    すぐ隣の宮城県や岩手県と比較してしまうと、段違いで被災度合いが少ないのが
    すぐに分かる。 但し、福島の人たちは、周囲から『フクシマ』として世界中から注目を
    集めており、震災関連の様々なイベントにおいても、その大体が、『頑張ろう、福島!』で
    終るため、自分たちが、一番不幸な被災者だと思っている事が多い。 以前、試しに、
    福島の人たちに、最大の被災地である石巻を見に行って見ればと何度か言った事が
    あるが、福島の沿岸部の被災地を見た事があるので、どうして石巻に行かなければ
    ならないのかという返答であった。

    ハッキリ言ってしまうと、石巻と福島との被災度合いは、全くの別物で、何もかも津波で
    流され尽くした石巻と、一部しか津波に流されなかった福島とでは、死者・行方不明者と
    震災瓦礫が出た量で比較すると、一目瞭然となるぐらい、被災度合いが全く異なる。
    よって、被災時には、海外のメディアは、宮城県を襲った津波の画像を使用して、
    『これがフクシマの現実です』とお涙頂戴物語に仕立て上げて報道された。 但し、
    その津波の画像を使われ、死者・行方不明者、震災瓦礫も被災3県中、段違いで
    排出した宮城県は、完全に無視された。 さて、そこで問題となるのが、この『被災度合い』
    なのだが、福島の人たちも、当初は、控えめに自己アピールをしていたものの、
    世間からは、殆ど相手にはされず、そのアピールが段々と過激、かつ、大袈裟になって
    行った。 『福島から避難をした人たちの半数が、鼻血を出した経験がある』と、とある
    ブログで読んだのだが、恐らく、その3分の1程度は、事実。 但し、残りの3分の2程度は、
    ウソ、デマカセ、大袈裟の類。

    福島に残った人たちとも、福島から避難をした人たちとも、震災後に何度もお話をしたが、
    この両者の思考には、共通点は、ほぼない。 いわゆる、両端な考え方をしており、片や、
    放射性物質による被曝などなんのその、一切何も気にしない派と、東日本に残るなんて
    とんでもない、一族同族全員引き連れて日本の果てどころか、世界の果てまで逃げます派と
    なるため、そもそも、接点が生まれる筈がない。 さて、ここで更に問題になるのが、
    この『ブラジル移民1世』の時代に日系人の間で巻き起こった、『勝ち組』と『負け組み』の
    ようなこの感情的な対立。 福島に残った人たちは、何もかもなかったような生活を
    そのまま続け、福島を後にした人たちは、自分の財産やら、仕事やら、その他諸々、世間の
    しがらみを何もかもかなぐり捨てて避難をしたため、自分たちの被災度合いが、実は、
    被災3県の中でもブッチギリでましとは絶対に認められない。 よって、ろくに戻りもしない
    福島に対して、今度は、攻撃をする事により、自己を正当化しようとする。 この一連の
    正当化行動は、無意識のうちに行っているため、更にタチが悪く、どんどんと被害者意識
    だけが膨らみ、周囲に迷惑を掛けている事にすら気付かずに、凶暴化している。

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    自分が一番の被害者だと思いたいのは、分からないでもないが、それを世間に認めさせる
    ために、他者を攻撃してしまっているため、こちらも、やはり、同情はされない。 そもそも、
    国策で建設を推し進めた原発が事故を起こしたにも関わらず、国や東電が特に何もしなかった
    ため、この被害者意識は、一気にエスカレートした。 自己を正当化するための活動は、
    ますます勢いを増し、無視されれば、されるほど、過激になっている。 一部では、既に、
    子供を利用しさえすれば、何を言っても構わないという雰囲気すら醸し出している程。
    原発事故による被曝の事ばかり気にしている人たちが、この自意識過剰な被災者たちと
    結託したため、今度は、違う意味での二次災害が発生した。 高濃度汚染地域で鼻血が
    出たと言うのは、事実だと思うが、それを大袈裟に世間に言い触らすのも、逆にそれを
    攻撃するのも、どちらも間違っていると思う。

    福島の最大の問題は、県の名前を原発にしてしまった事であり、一口に『福島』と言っても、
    全国で3番目に広い面積を持つ広大な県であるため、『原発周辺地域』、または、
    『福島沿岸部』と限定的に言わない限り、その他の地域からの攻撃や、非難の矢面に
    立たされる事はなくならない。 福島県の対応も、原発周辺地域の人たちを納得させる
    ようなものではなく、単なる口封じに徹しただけ。 会津地方は事故を起こした原発からは、
    100キロも離れており、距離的には、宮城県仙台市と完全に同じだが、仙台で鼻血を
    出しているという話すら聞いた事がない。 宮城県境は、福島第一原発からは、45キロしか
    離れていないため、中途半端に原発から遠い福島県内の市町村よりも、宮城県の方が
    遥かに近いのだが、それでも、鼻血の話は聞いた事がないため、疑問しか感じない。

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