東京通詞 ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
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日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:仙台藩

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    アイヌ文化体験のため、日高地方にある二風谷を訪れた。 新千歳空港に
    降り立ってから、まず最初に向かったのは、すぐそばにあるウトナイ湖。
    8月下旬なのに、ウトナイ湖には既に白鳥が飛来しており、夜は10度位まで
    気温が下がっていて、完全に秋であった。

    胆振地方の中心地は室蘭なのだが、鉄の街はどこも地盤沈下が激しく、室蘭を
    抜いて、苫小牧が胆振地方では最大の街。 港湾を中心とした工業地帯で
    あるため、街中には煙突が数多く建ち並んでいる。

    札幌は常に人口増加率では全国でも1、2を争うぐらいの伸び率を示しているが、
    北海道全体で見ると、徐々に人口が減少している。 北海道で人口が増えて
    いるのは、札幌と苫小牧と帯広ぐらいで、それ以外の地域は、人口の減少が
    著しく、離農をした農家がほぼ全員札幌へと集まって来るため、札幌は常に
    人口が増加している。

    【苫小牧】
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    無料の日高自動車道を利用して、胆振地方から日高地方へと移動。 二風谷を
    訪れた8/24(日)は、たまたま、舟おろしのお祭り『チプサンケ』の開催日だった。
    『チプサンケ』とは、丸太舟を造って、川を下るお祭りなのだが、船の転覆が
    続出しており、乗船前に川に落ちても全て『自己責任』でお願い致しますという
    念書まで書かされた。 しかも、川下りであるため、同じ場所には戻っては来ない
    という理由により、持参したデジカメやスマホ等の荷物を一切預かっては
    くれないため、この行事は、舟が沈没するかどうかは、一か八かの賭けとも言える。

    二風谷は、同じアイヌ人居住区域の白老と共に、元々は仙台藩士が開拓した
    土地である。 仙台藩は元々、外様大名としては、最大規模の経済力を持って
    いたため、江戸幕府から再三お家取り潰しの嫌がらせを受けたのだが、幕末には、
    広大な蝦夷地の開拓を無理やり押し付けられ、後に、それが仇となり、戊辰戦争で
    負ける切っ掛けとなったとも言われている。

    実は、仙台藩が開拓した場所は、戊辰戦争で逆賊として負けた見せしめとして、
    開拓しても全く意味のない場所ばかり明治政府から与えられた。 最も酷い扱いを
    受けたのは、亘理伊達家で、老若男女武士一般人を問わず、1人残らず、全員
    蝦夷地の開拓をさせられたため、開拓の印として『伊達市』となったもの。
    戊辰戦争では、会津ばかりが注目されるが、最も領地を召し上げられて、
    明治政府から最も酷い扱いを受けたのは、実は仙台藩である。

    【二風谷】
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    アイヌ人は、北海道全体で見ても、数千人程度しか居ないとも言われていますが、
    差別を恐れて、アイヌ人とは言わない人が多く、和人との混血が進み過ぎており、
    既に、見た目的には判断出来ない人が多くなっているため、正確な数は分かっては
    いない。

    アイヌ人であったとしても、アイヌ語を自由に喋れるのは、高齢者しかおらず、
    この施設内に居たアイヌ人の方に、日本語とアイヌ語は、どちらが難しいですか?
    と訊いたところ、アイヌ語の方が難しく、普段は全く使っていないと言っていた。
    アイヌ語は、消滅危機言語の中でも、『極めて深刻』と判定されており、ロシア側の
    サハリンと千島列島のアイヌ語は、既に消滅している。

    【チプサンケ】
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    この日は、アイヌ模様の木彫り体験と、アイヌ語の語り部であるユカラを聞いた
    のだが、ユカラとは、アイヌ語で『叙事詩』を意味している。 この日語り部を
    していた方は、50歳を過ぎてからアイヌ語教室でアイヌ語を学んだそうで、
    それまでは、父親の方針で、家庭内ではアイヌ語を決して使わず、アイヌ人の
    知り合いが来ても、家の隅で聞かれないようにアイヌ語を使っていたため、
    アイヌ語には、全く触れずに育ったとのこと。

    このため、アイヌ民族は、バカにされるだけの存在だとずっと思っていたそうだが、
    アイヌ語を学ぶうちに、アイヌ民族は、決してバカではないことに気付いたとか。
    アイヌ語ネイティブは、基本的に90歳を越えているらしい。



    丸木舟での川下りは、実は、若干沈没し掛かったのだが、船頭さんが気転を利かせて
    川の中に入り、沈没しないように舟を引っ張ってくれため、この判断がなければ、
    恐らく、沈没していたと思いますw

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    仙台藩白老元陣屋とは、 今から約150年前の江戸時代末の安政3年(1856年)に
    置かれた陣屋跡。 当時、北海道はまだ蝦夷地と呼ばれ、日本はまだ鎖国をしていた
    時代であった。 幕末の日本沿岸には、アメリカやロシア等の諸外国が交易を
    するように迫って来ており、箱館(函館)が開港となった時、幕府は、松前藩だけで
    蝦夷地を守るのは困難と判断し、仙台藩をはじめとする東北地方六藩に蝦夷地の
    警備を命じた。



    元陣屋とは、本陣を示す意味があり、仙台藩では、十勝の広尾、道東の厚岸と根室、
    更に、千島列島の国後(トマリ)と択捉(フウレベツ)の5ヶ所にも出張陣屋という
    脇陣屋を置き、太平洋沿岸の東蝦夷地一体の警備にあたった。

    赤い部分が仙台藩の担当地域。 東蝦夷のほぼ全ての警備にあたった。
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    幕府は当初、仙台藩の元陣屋を当時交通の要所となっていた勇払(苫小牧)に
    置くように命じた。 ところが、仙台藩の重役三好監物が現地を調査したところ、
    勇払は湿地帯で陣屋を建てにくい上に波が荒く船の出入りには適していないため、
    箱館に近く、自然の地形をそのまま利用出来る白老が選ばれ、幕府にこれを
    許された。

    仙台から白老までは、約800キロほど離れているが、記録によると、この間の
    移動は、早い時で20日間、川の氾濫や津軽海峡のしけ等で2ヶ月以上も掛かる
    ことも珍しくはなかった。

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    仙台藩元陣屋には、約120人の藩士達が毎年交代で故郷を離れ、慣れない気候風土の
    中で暮らしていた。 藩士達は、弓や剣術の稽古の他、火縄銃や大砲の訓練に
    励んだ。 当時の白老には、400人ほどのアイヌ人達が住んでいたが、北の地で
    生活をするの多くの知恵を彼らから学んだ。

    山と川等、自然の地形を巧みに利用した白老元陣屋の面積は、66,000㎡で、堀と
    土塁と4つの門に囲まれたお城の形をしていた。 内曲輪は、上級武士達が住んで
    いたところで、本陣や勘定所、兵具庫、穀倉等の主要な建物があった。 また、
    外曲輪には、下級武士達が暮らす4棟の長屋と武芸をみがく稽古場等があった。

    慶応4年(1868年)、約260年続いた徳川幕府が倒れ、蝦夷地の警備にあたっていた
    陣屋の武士達は、賊軍と呼ばれて箱館から攻めて来た新政府軍に追われるように
    白老を去った。 こうして、仙台藩元陣屋は、12年間の歴史を閉じたのである。

    その後、東北各地では、仙台藩を中心として、戊辰戦争が始まったが、東北の
    各藩は、この幕末の蝦夷地での警備に資金を大量に費やしてしまったため、
    最新の武器を揃える事が出来ず、旧式の武器だけで戦うこととなっため、
    奥州越列藩同盟は、新政府軍に負けたとも言われている。

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    伊達62万石の城下町仙台は、東北最大の都市であると共に、東北最大の観光地。
    今回は、その歴史と主な見どころを紹介します。



    伊達政宗公の肖像画や木造は、生前片目だけで非常に親不孝をしたという遺言により、
    基本的に全て両目が入れられている。 仙台市博物館所蔵の肖像画に書かれて
    いるのは、辞世の句。 現代語に翻訳をすると、『少年時代は、いつも馬の上で
    過ごしたが、世の中が平和になり、白髪も多くなったため、この世を楽しまないで
    どうするよ?』

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    伊達政宗の従兄弟の伊達成実は、戦場では、決して後退りをしなかったという非常に
    勇猛果敢な武将で、常に政宗を助けた。 藩政時代の仙台藩の藩図は、明治政府に
    無理やり割譲させられた岩手県の南3分の1と、同じく、福島県に割譲させられた
    新地が含まれており、この他にも、仙台藩は、愛媛県の宇和島と、滋賀県にも領土が
    あった。 蝦夷地(北海道)が独り立ちするまでは、仙台藩が蝦夷地を統括して
    いたのと、戊辰戦争に負けた際に、仙台藩の武士は、蝦夷地へと強制的に
    送られたため、仙台弁と北海道弁は、概ね同じとなっている。 但し、言語的に別れて
    から、既に150年程経過しているため、北海道弁の方が古い形を残しているのが特徴。

    仙台藩は、豊富秀吉によって、現在の福島、並びに、山形の旧領地を全て召し上げられ、
    現在の宮城県へと国替えになったが、伊達家が最終的に目指したのは、武力ではなく、
    経済力による江戸の支配。 伊達家は、全国第3位の大大名であったものの、それに
    満足する事なく、近江の国出身で、治水の名手と言われていた、川村孫兵衛に命じて、
    河川を切り開き、水田と港を開いて他藩との交易を活発に行なった結果、仙台藩の
    実質石高は、その表高の約4倍にまで膨れ上がり、江戸に流通している米の約半分を
    完全に牛耳るまでになった。 その経済力を使い、仙台藩は、直接ローマやスペインとの
    交易を試みたものの、時は既に鎖国、切支丹弾圧へと進んでいたため、最終的には、
    うまくは行かなかった。

    仙台市博物館では、それらの資料が「慶長遣欧使節団関連資料」として展示してあり、
    現在は、国宝、並びに、世界記憶遺産として指定を受けている。 慶長遣欧使節団は、
    日本で初めて太平洋と大西洋を単独で横断した使節団であり、散切り頭で有名な
    岩倉使節団が欧州を訪れた際に、この事実を知り、非常に感銘を受けたと言われて
    いるが、それが幕末に大逆賊の汚名を着せられた仙台の地に日本で2番目の帝国大学
    (現在の東北大学)が開設された直接の理由とも言われている。

    支倉常長を描いた洋画は、日本人を描いた世界で初めての油絵で、切支丹へと改宗した
    常長の子孫が、幕府からの弾圧を恐れて折り畳んだ後、更に丸めて筒に入れて隠し
    持っていた跡がクッキリと残っている。 使節団の一部は、切支丹へと改修の後、
    弾圧を恐れて、そのままスペイン南部に残り、現在は、「日本」を意味する「ハポン姓」を
    名乗っているが、サムライの末裔である事を大変誇りにしているとか。 400年以上も
    前に、単独で船を建設して、危険を犯してまで海を渡ってスペインとの交易を試みたのは、
    表面上は、貿易のためとされているものの、実際のところは、当時世界最強の力を
    誇っていたスペインの力を借りて、江戸の徳川幕府を倒すためとも言われている。

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    毎年、仙台七夕の夜にだけ開催される瑞鳳殿のライトアップイベントでは、夜の瑞鳳殿を
    見る事が出来る。 瑞鳳殿は、伊達政宗公の御霊屋で、今でもこの下に遺骨が納められて
    いる。 仙台大空襲を受けるまでの瑞鳳殿は、国宝指定されており、日光東照宮と
    同時期に建てられたため、「奥の日光」とも呼ばれていたが、戦災で消失。 その後、
    昭和54年に再建されたものの、現在は、国宝指定はされていない。 派手好きであった
    政宗公の御霊屋らしい、安土桃山時代の豪華絢爛な建築様式となっているため、
    非常にお勧めのスポットとなっている。

    仙台は日本におけるスケート発祥地となっており、仙台城三の丸にある五色沼には、
    スケート発祥の地の碑が建っている。 二の丸の入口付近には、支倉常長の像が
    建っている。 本丸への入り口にある隅櫓は、戦災で消失の後、再建されたが、
    大手門は、消失したままの状態となっている。



    昭和46年に建設された仙台港は、現在トヨタ東日本の積出港となっているため、新車が
    常に駐車されているが、東日本大震災の際には、これらの新車も全て津波に流され、
    瓦礫と化した。 仙台フェリーターミナルからは、北海道の苫小牧と名古屋までのフェリーが
    運行されており、苫小牧まで7,500円、名古屋までは5,000円で行く事が出来る。

    貨物専用駅の仙台港駅付近は、東日本大震災の際に、鉄路ごと流されたが、今では、
    全ての復興が完了しているため、細かく見て行かないと、津波の爪痕は残っていない。
    仙台港のすぐ裏にあった蒲生干潟は、津波で破壊されて、干潟ではなくなった。

    尚、「被災地に略奪はなかった」と言う都市伝説は、全くの大ウソで、仙台港付近では、
    かなり略奪が発生したが、東北の場合は、人が優しいため、「困っているのであれば、
    どうぞ持って行って下さい」と言った人が多かったため、結局は、略奪にはならなかった
    というのが事実。 但し、本当の略奪も実はかなり多かった。

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    1945年7月10日、米軍のB-29爆撃機が2時間に渡って約13,000発の焼夷弾を
    仙台市中心部に投下したため、仙台市中心部分は、ほぼ全て消失。 この時の
    死者数は1,000名を超え、東北地方で最大の被害をもたらした。 この時、惜しくも、
    国宝であった、瑞鳳殿と仙台城大手門は消失した。 その後、瑞鳳殿は市民らの
    手によって再建されたが、大手門は、その後も再建される事なく、現在に至っている。

    仙台市内の道路が、城下町にしては珍しく、片側5車線もあるのは、戦時に街の
    中心部を全て焼き払われたためで、将来を見越して、かなりゆとりのある街づくりを
    した結果。



    『杜の都』の呼び名は、藩政時代からあったものだが、この時の仙台大空襲によって、
    全ての杜が失われたため、現在のけやき並木は、戦後になってから全て新しく
    植えたもの。 戦時中は、学生も総動員されたが、教育は二の次で、竹槍での戦闘
    方法等、戦争の実践の方が重要視された時代であった。

    仙台七夕は、藩政時代から続くお祭りではあるものの、戦中は、数年間に渡って、
    開催が中止された。 現在の仙台七夕祭りが復活したのは、戦後間もなく。 よって、
    今年で第70回目の七夕祭り。 仙台は、別名『杜の都』として有名だが、戊辰戦争で
    敗れた仙台藩には、戦後、すぐに、仙台城二の丸に軍隊が置かれた。 これが
    『帝国陸軍第二師団』。 その後、歩兵第4連隊も置かれたため、戦前の仙台は、
    日本屈指の『軍都』として栄えた。

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    戊辰戦争で町を焼き払われ、太平洋戦争で町を破壊され、東日本大震災でも沿岸部が
    消滅した仙台には、『仙台の町はフェニックス』という言葉がある通り、戦後70年を掛けて
    徐々に復興を果たしたものの、現在の仙台城三の丸には、戦後に50年間の約束で
    仙台市が市民に提供した土地があるが、現在でもその場所では、出て行け出て行かないの
    押し問答が繰り返されているため、沿岸部の津波被災地での集団移転には、この時の
    二の舞いにならないように、しっかりとした復興計画が必要。 仙台市戦災復興記念館
    では、戦争体験者等による語り部活動が続けられているが、既に80代後半以上とかなり
    高齢化しているため、正しい戦争の記憶を次の世代へと引き継ぐための資料作りが
    急がれている。



    宮城県は、戦前まで、帝国陸軍第二師団が置かれていたため、仙台市のみならず、
    全土で空爆された。 特に、航空自衛隊松島基地は、5回に渡って空爆をされており、
    山本太郎がキチガイのように騒いでいる、原発のすぐそばに自衛隊がある。

    仙台に帝国陸軍が置かれたのは、戊辰戦争で負けてしまった見せしめで、その後、
    宮城県は帝国陸軍の基地に、福島県は東電の原発の基地になった。 戊辰戦争は、
    会津ばかりが出て来るが、一番重罪を課せられたのは、仙台藩の方。

    動画の中で『戦争は、温かい心が無くなった時に起きる』と言っているが、全くもって、
    その通り。

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    毎年7月31日と8月1日に開催されている『石巻川開き祭り』は、北上川の流れを変えて、
    石巻に港を開いた川村孫兵衛を称えるお祭り。 東日本大震災で、被災するまでは、
    川に灯籠を流す灯篭流しはなかった。

    宮城県内の河川は、沼地を開拓して、水田を開墾するために、江戸時代にその
    流れを変えたものばかりであるため、天然の河川は殆どない。 河川の流れを
    変える事によって、仙台藩は、その石高を元の約4倍まで引き上げたため、実際の
    仙台藩の石高は、約250万石とも言われており、伊達家は、最終的には、徳川宗家に
    次ぐ第二勢力にまでのし上がった。



    その中心地が、この石巻で、江戸時代までは、仙台藩唯一の港街として、体外的な貿易を
    一手に引き受けていたため、仙台よりも石巻の方が新しい物が入って来るスピードが早く、
    石巻の方が発展していると言われたほど。 その後、戊辰戦争に敗北し、明治政府の
    愚策により、幹線鉄道からは完全に外されてしまったため、現在に至るまで、石巻が
    発展する事はなかった。

     

    石巻川開きは、元々は、8月1日と2日に開催されていたが、恐らく、古川祭と1日被るため、
    日程が変更され、例年固定開催となっている。 被災直後は、東京ディズニーランドからも
    ミッキーとミニーマウスが来石して、話題になったが、最近は、被災の風化が進んだため、
    若干注目度が落ちている。



    マンガで街興しをしている町らしく、お祭りの期間中は、コスプレーヤーも登場するが、
    航空自衛隊アクロバット飛行隊の本拠地らしく、ブルーインパルスが展示飛行を行う
    という地方のお祭りとしては、かなり珍しい出し物もあるが、東北最大級とも言われて
    いた、花火大会が、予算不足のために、規模を縮小して開催しているため、真の意味
    での復興はまだまだ遠いと言えるのかも知れない。

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    伊達家家臣である、支倉常長(はせくら つねなが)は、今から約400年ほど前の
    1613年に、石巻市月ノ浦を出航し、慶長遣欧使節団を率いて、日本人として
    初めて、太平洋、並びに、大西洋を横断して、ヨーロッパまでの渡航に成功し、
    ローマで貴族に列せられた。 洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
    日本人として、初めてコーヒー、並びに、チョコレートを食した人物とされて
    いる。

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    世界記憶遺産に登録されている、仙台市博物館所蔵の『支倉常長』の肖像画

    慶長遣欧使節団は、仙台藩が単独で派遣を行った使節団であり、スペイン人の
    フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを副使とし、常長が正使となった。 総勢
    180名で組織され、ガレオン船サン・ファン・バウティスタ号でスペインを経由
    してローマを目指した。

    この使節団の目的は、通商のためとされているが、実際のところは、仙台藩と
    スペインとの軍事同盟を結ぶ事が目的だったとも言われており、伊達政宗が
    徳川宗家を倒すための足掛かりだった可能性も否定出来ない。

    慶長17年(1612年)、常長は、第1回目の使節として、ソテロと共に浦賀より
    出航するも、暴風に遭い座礁し、遭難した。 再度仙台へ戻り、慶長18年9月15日
    (1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。

    Hasekur

    出航後、常長らの一行は、まず、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコへと
    向かった。 アカプルコからは、陸路で大西洋岸のベラクルスへと移動し、
    ベラクルスから再度、大西洋を渡り、コリア・デル・リオ(スペイン・
    アンダルシア州セビリア県)に上陸した。 その後、慶長20年1月2日(1615年1月
    30日)には、スペイン国王フェリペ3世に謁見を果たしている。

    その後、更にイベリア半島から陸路でローマへと渡り、元和元年9月12日(1615年
    11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。 また、その後もマドリードに
    戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。

    しかし、この時既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、通商交渉は
    成功する事はなかった。 常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日
    (1620年9月20日)に帰国した。 この際、一部の使節団員は、既にキリスト教に
    改宗していたため、その地に残り、その後、その子孫達は、『日本』を意味する、
    『ハポン姓』を名乗り、現在に至っている。

    慶長遣欧使節団の帰国時には、日本では既に禁教令が出されており、常長は、
    帰国から2年後に失意のうちに死去した。 その後の支倉家は、嫡男常頼が後を
    継いだが、寛永17年(1640年)に、家臣がキリシタンであった事の責任を
    問われて処刑され断絶した。 しかし、寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の
    代に許されて家名を再興した。


    仙台は再び世界へ

    常長らが持ち帰った『慶長遣欧使節関係資料』は仙台市博物館に所蔵されており、
    平成13年(2001年)に国宝に指定され、2013年にはユネスコの『世界記憶遺産』に
    登録された。 その資料の中には、常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵
    としては最古のものとされている。 資料の中に『支倉』を古典ラテン語表記で
    FAXICVRA と表記した部分があり、当時『ハ行』を唇音で発音していた証拠と
    なっている。

    tsunenaga
    スペイン、イタリア、フィリピン、キューバを始めとして、世界各地に残る『支倉常長像』

    これらの資料は、主にスペイン側が保管していたものを、仙台市へと寄贈したもの。
    また、世界記憶遺産に登録を果たしたのも、スペイン政府からの後押しが強かった
    ためとも言われています。

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    最近、地方の方に電話を掛ける機会が多くなり、先日は、札幌、福岡、仙台に
    電話を掛けた。 さて、この中で、最も訛っている都市は、どこかと言うと、
    比較的標準語に近いとされている、札幌なんですねw

    私、何気に、東京⇔仙台⇔札幌を引越しで行ったり来たりしております関係上、
    標準語に加えまして、東京弁、仙台弁が完全ネイティブ、北海道弁は、仙台弁の
    南側の方言である、仙南弁が変形した方言であるため、こちらも、ほぼネイティブ
    となっております。

    仙台弁と北海道弁は、単語も70%程度同じで、イントネーションは完全に同じ。
    『いづい』と『したっけ』は、仙台弁と北海道弁以外は使っていない方言で、
    『いづい』は、標準語で言うと、『しっくりこない』になるのだが、ニュアンスが
    標準語とは、かなり異なりる。 また、同じ仙台弁から派生した単語である筈が、
    北海道の場合は、『今日の天気いづいね』とも言うため、仙台弁の使い方からは、
    既に逸脱している。

    Ja_da_ya

    北海道弁で言うところの、『今日の天気いづい』とは、仙台弁では、『今日の天気
    おがつねー』と言うので、既に全くの別物。 『したっけ』に至っては、共に基本的
    には、『~すると』と言う意味で使うのだが、北海道弁では、『またね』という意味
    でも使うものの、仙台弁には、そのような意味は一切ないため、完全に元の意味が
    変形したもの。

    尚、仙台弁で『またね』は、『んでね』と言います。 『したっけ』と
    『しったっけ』は非常に似ているのだがが、全く別の意味で、『しったっけ』は、
    『~していたら』という意味。

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    北海道は、かつては蝦夷地と呼ばれた外地で、松前藩が完全に独立をするまでは、
    仙台藩が直轄地として、一時蝦夷地を治めていた場所。 その後、戊辰戦争~
    明治維新を経て、東北列藩同盟の各藩が、蝦夷地の開拓を強要されたのだが、
    その中でも、仙台藩からは多くの武士たちが強制的に蝦夷地の開拓をやらされたため、
    北海道には、その方言が完全に残った。

    その他、現在の愛媛県宇和島市は、仙台藩の支藩だったため、藩祖伊達政宗公の
    長男である、伊達秀宗公が、初代藩主となり、仙台藩から、家臣を引き連れて、
    宇和島入りしたが、その方言自体は、現地に完全に吸収され、全く残ってはいない。

    これと同様に、約400年ほど前に、石巻の月の裏から、ローマに向けて出帆した、
    慶長遣欧使節団の一部は、その地でキリスト教へと改宗し、スペイン南部に
    留まったが、こちらも、現地の人たちと同化し、今でも、その名残として、
    スペイン語で、日本を意味する『ハポン』姓を名乗っている。

    支倉常長を団長とする、この慶長遣欧使節団については、下記のリンクを参照。

    >>遠い帆 ~日本で始めて海を渡ったサムライ~

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    今回は、仙台が、どうして、宮城県という名前になったかについて、お話しようと
    思います。
     
    時は遡り幕末の京。 仙台藩は、鳥羽伏見の戦いで、理不尽な条件ばかりを飲まされ
    そうになった会津藩をかばい、当初は、薩長に会津藩を許してくれるようにと懇願
    しますが、全く受け入れられず、逆に仙台藩が責任を持って、会津を倒すようにと
    命じられます。 その後、福島で長州の責任者と再度会談を試みるものの、ここで、
    かなり屈辱的な事を言わる事となったため、その大使を殺害してしまいます。
    これが、戊辰戦争の始まりです。
     
    この時に、米沢藩と共に、他の奥州列藩軍を率いたのが、奥州最大の藩であった
    仙台藩。 白河城を奪われたところから、続々と退却を余儀なくされた奥州列藩軍
    ですが、いよいよもって、仙台藩の砦である白石城も落城し、最終的には、
    仙台城は落城しなかったものの、仙台藩は、薩長軍に降伏を余儀なくされます。

    仙台藩は、自分が力尽きる最後の最後まで、会津を裏切りませんでしたが、会津の
    味方をしただけで、特に何も悪い事をしなかったのにも関わらず、その後に
    課せられた罪は、会津藩以上でした。 当時の仙台は、繁栄を極め、ここよりも
    大きい町は、その当時、江戸・京・大阪・名古屋・金沢だけでしたが、その後、
    大逆賊の汚名を着させられて、没落する事となります。

    04 

    伊達家一の家臣である白石の片倉家は、領地が全て没収となったため、伊達家には
    迷惑を掛けられないという理由で、全員で率先して、当時何もなかった札幌の
    開拓へと行きます。 現在の札幌市白石区は、この当時の名残で、北海道弁は、
    仙台弁の南側の方言である仙南弁が完全にベースになって変形したもの。

    仙台伊達家は、わざと開拓しても無駄な白老の開拓に行かされ、亘理伊達家は、
    伊達市の開拓に、岩出山伊達家は当別の開拓に行く事となります。
     
    その後、廃藩置県が進められたのですが、仙台藩の元々の領地は、現在の宮城県
    全てと、岩手県の南3分の1だったのにも関わらず、『今後仙台が二度と発展しない
    ように』との戒めを込めて、北半分を『水沢県(正確には、涌谷県、登米県、
    一関県と目まぐるしく名前が変更)』として分離、南側は、一時期だけ『仙台県』
    として存在しましたが、仙台は戊辰戦争を率いた大逆賊として扱われたため、
    その名称を使う事だけは許されず、他の名前を付ける事となりました。 これは、
    現在の被災地である、岩手、福島も同様の扱いでした。



    水沢県は、その後、南北に分割され、北側は、盛岡へと割譲、岩手県となりました。
    岩手県の南3分の1では、今でも仙台弁が話されていますが、それは、この時の名残。
    岩手県の陸前高田市が、わざわざ仙台の旧国名である『陸前』と付けているのは、
    市の名前を持ってして、盛岡とは違うと言っているため。 その後、水沢県の
    南半分は、元の仙台へと吸収され、仙台市がある『宮城野』の名前を取って、
    宮城県となりました。
     
    仙台人は、基本的に、『宮城』とは余り言いたがりませんが、それは、『仙台』
    という単語が、今の岩手県の南側も含むため。 学区制を敷いていた当時は、
    『仙台』『東北』と付くと、男子校、『宮城』と付くと、女子高という規則が
    ありました。 よって、仙台人は、今でも、『宮城』と聞くと、女を連想します。
     
    戊辰戦争での大敗を期に、結果的に福島は、東電の植民地と化しますが、宮城は、
    軍事基地にされました。 宮城県内の自衛隊が、かなり大規模なのは、帝国陸軍
    第二師団だったため。

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