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1945年7月10日、米軍のB-29爆撃機が2時間に渡って約13,000発の焼夷弾を
仙台市中心部に投下したため、仙台市中心部分は、ほぼ全て消失。 この時の
死者数は1,000名を超え、東北地方で最大の被害をもたらした。 この時、惜しくも、
国宝であった、瑞鳳殿と仙台城大手門は消失した。 その後、瑞鳳殿は市民らの
手によって再建されたが、大手門は、その後も再建される事なく、現在に至っている。

仙台市内の道路が、城下町にしては珍しく、片側5車線もあるのは、戦時に街の
中心部を全て焼き払われたためで、将来を見越して、かなりゆとりのある街づくりを
した結果。



『杜の都』の呼び名は、藩政時代からあったものだが、この時の仙台大空襲によって、
全ての杜が失われたため、現在のけやき並木は、戦後になってから全て新しく
植えたもの。 戦時中は、学生も総動員されたが、教育は二の次で、竹槍での戦闘
方法等、戦争の実践の方が重要視された時代であった。

仙台七夕は、藩政時代から続くお祭りではあるものの、戦中は、数年間に渡って、
開催が中止された。 現在の仙台七夕祭りが復活したのは、戦後間もなく。 よって、
今年で第70回目の七夕祭り。 仙台は、別名『杜の都』として有名だが、戊辰戦争で
敗れた仙台藩には、戦後、すぐに、仙台城二の丸に軍隊が置かれた。 これが
『帝国陸軍第二師団』。 その後、歩兵第4連隊も置かれたため、戦前の仙台は、
日本屈指の『軍都』として栄えた。

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戊辰戦争で町を焼き払われ、太平洋戦争で町を破壊され、東日本大震災でも沿岸部が
消滅した仙台には、『仙台の町はフェニックス』という言葉がある通り、戦後70年を掛けて
徐々に復興を果たしたものの、現在の仙台城三の丸には、戦後に50年間の約束で
仙台市が市民に提供した土地があるが、現在でもその場所では、出て行け出て行かないの
押し問答が繰り返されているため、沿岸部の津波被災地での集団移転には、この時の
二の舞いにならないように、しっかりとした復興計画が必要。 仙台市戦災復興記念館
では、戦争体験者等による語り部活動が続けられているが、既に80代後半以上とかなり
高齢化しているため、正しい戦争の記憶を次の世代へと引き継ぐための資料作りが
急がれている。



宮城県は、戦前まで、帝国陸軍第二師団が置かれていたため、仙台市のみならず、
全土で空爆された。 特に、航空自衛隊松島基地は、5回に渡って空爆をされており、
山本太郎がキチガイのように騒いでいる、原発のすぐそばに自衛隊がある。

仙台に帝国陸軍が置かれたのは、戊辰戦争で負けてしまった見せしめで、その後、
宮城県は帝国陸軍の基地に、福島県は東電の原発の基地になった。 戊辰戦争は、
会津ばかりが出て来るが、一番重罪を課せられたのは、仙台藩の方。

動画の中で『戦争は、温かい心が無くなった時に起きる』と言っているが、全くもって、
その通り。

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