日本では、むやみに他人を批判するなだとか、年上の人間は敬えとか習うのだが、
それは、まともな社会においてのみ言える事であり、既に何でもやりたい放題で、
まともではなくなっている社会においては、そうとばかりは言えない。 むしろ、
そのような事実をありのまま突き付けてやらないと、平気で理不尽なことばかりを
して来るため、防戦一方となり、ひいては、自殺に追い込まれることもある。

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日本では、きれいごとばかり述べている人が極端に多いのだが、そのような場合、
物事の根本的な部分を見ずに、自分の主観ばかりを押し付けて来るため、実際は、
見捨てられているのと同じ。 そもそも、自分の足元が見えていないため、当然、
遠くの事も全く見えてはない。 きれいごとは、分かりやすく説明をすると、自分の
気分を害さない程度に興味のない事柄を全て切り捨てている状態を指すため、
始末に負えない。

日本では、きれいごとを述べる人たちが支持される事が多いため、皆こぞって
きれいごとばかりを述べるのだが、そのような薄っぺらい意見を述べられた
ところで、同調するのは、似たような人間ばかり。 似たような人間同士で凝り
固まった結果、現実を一切見ない社会へと成り果てた。 自分が知らないことは、
一切存在しない事となっており、暗黙のうちに、何もかもが黙殺されてしまう。

世の中には、知らない事の方が多いのだが、きれいごとばかりの世界では、
ウソで何もかもが塗り固められているため、それを頑なに信じ込んでいる人達も
実は多い。 社会のマイナスな部分へ目を向ける事もなくなった現在では、
社会の掃き溜めの上にフタをして、その上に花を飾って、その一点だけを見つめて
きれいだと述べているに過ぎない。 よって、その足元には、きれいごとだけでは
済まされない現実が取り残されているのだが、わざと見ないようにしているため、
当然、無視される事となる。

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一寸先は闇の現代社会においては、いつ足元が抜け落ちて奈落の底へ突き落とされる
のかが分からないため、人付き合いも慎重にならなければならない。 社会批判が
大人のたしなみとされているヨーロッパにおいては、批判的な事柄を見つけると、
社会の改善点が見えたとして、解決の糸口を探す手立てとなるのだが、日本の
場合は、何もかもが、マイナスな事柄としか扱われないため、社会批判もまま
ならない。

そもそも、社会をまともに批判出来ない事自体が、健全ではないのだが、それすら
自由に出来ないのは、この国が全体主義で、民主主義が根付いた事がないためと
言える。 きれいごとばかりを述べている人達を見ていると、ある意味、幸福なの
だろうが、逆を言うと、薄っぺらい意見ばかりを述べているだけの不幸な人間にも
見える。

社会のマイナスな事柄を無視し続けた結果、自分の気に入らない、あるいは、関心が
ない事柄は、全て何もない事となったため、改善の余地すら与えられず、日々、
黙殺が当たり前の社会となってしまった。 肝心なのは、一人ひとりが声を上げて、
社会を改善して行く事なのだが、自分の意見を公の場で述べる事以前に、自分の
意見を持つ事すらまともに許されていない国であるため、根本的な教育から改善して
行くしかないのであろう。

自由には、必ず責任が伴うのだが、日本では、言論の自由がない代わりに、責任も
ないので、無責任な人間にとっては、天国、まともな人間にとっては、地獄と
なっている。 思考停止社会においては、何も考えない事が大原則となっており、
何もかもが右から左で、そもそも、責任の所在というものがない。

きれいごとは、物事の本質を見極めてから述べるべきで、本質的な事柄を見抜けて
いない人間が言ったところで、一切何の説得力すらない。 自分の知らない事柄は、
存在していないのではなく、単に無視しているだけである。 何もかもを否定しろ
とは言わないが、全てを肯定的にとらえろというのにも限界があり、肯定派と
否定派に分かれて、徹底的に討論を重ねる事が重要なのだと思う。

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