北米大陸に最初の人類がアジアから渡来したのは、今から1万3千年以上も
前のことである。 以降、数回に渡り、複数の集団が大陸に渡来し、融合や消滅を
繰り返しながら、各方面へと拡散して行った。

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カナダの先住民とは、通常、ヨーロッパ人が到来する以前から保持して来た人々を指す。
現在、その先住民たちは、ヨーロッパ系の移植者達が創り出したカナダという国家の中で、
人口のみならず、政治経済的にも少数派となっている。

カナダでは、1982年に制定された憲法によって、先住民は、インディアン、メイティ、
イヌイットであると規定されている。 インディアンは、複数の先住民族の総称であり、
現在では、ファースト・ネイションズと呼ばれて、615のネーションにそれぞれ分かれている。

メティスとは、かつて毛皮交易に関わった人々の子孫で、独自の文化を形成し、保持して
いる人々である。 彼らの殆どは、アルバータ州やマニトバ州の指定保留地や都市に
住んでいる。 イヌイットは、カナダ極北地域を主な居住地とするイヌイット語を母語とする
人々である。

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2006年のカナダ国勢調査によれば、カナダ先住民の総数は、およそ117万人となっており、
カナダの総人口の約4%弱しかいない。 その内訳は、ファースト・ネーションズが、約69万
8,000人(約60%)、メイティが約39万人(約33%)、イヌイットが約5万人となっている。
イヌイット以外の先住民達の大半は、出身地を離れ、都市部等で生活をしている。

ヨーロッパ人との接触が始まった15世紀頃の北米大陸の先住民社会には、7つの文化
領域が存在していた。 そのうち、極北、亜極北、北西海岸、東部森林という5つの文化
領域が、現在のカナダに相当する地域に存在していた。

カナダの先住民達は、ヨーロッパ人との接触を通して、大きく変貌して行った。 16世紀頃
から、カナダ東部において、ビーバーの毛皮交易が始まり、先住民達を巻き込みながら、
西部へと斬進した。 18世紀から、19世紀初頭にカナダ北西部で行われたラッコの
毛皮交易には、多数の北西海岸先住民が参加した。 一方、16世紀以降、ヨーロッパ
出身の多数の入植者が東部海岸から西部へと農耕地や放牧地を求めてやって来た。

ヨーロッパ人らの入植により、先住民達は、先祖伝来の土地を奪われたり、立ち退きを
余儀なくされた。 更に、天然痘や、はしか等の伝染病が伝わり、人口が激減し、
19世紀後半には、カナダ国家の中に政治経済的に取り込まれた。

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北米において、イギリスがフランスに勝利し、1763年にパリ条約が締結されると、
フランス植民地は、極一部を除き、イギリス領となり、イギリス王国宣言が発布された。
この宣言により、北米における先住民政策が明らかになった。

1867年にドミニオン・オブ・カナダが形成されると、多数の移民がカナダ西部へと移住を
開始したので、カナダ政府は、1871年から1921年に掛けて、ここの先住民グループと
11の条約を締結し、土地を入手して行った。 また、1876年には、先住民政策の指針と
なるインディアン法を制定した。 土地に関する条約を締結したインディアンは、公認
インディアンとなり、それ以外の先住民は、非公認インディアンと分類された。

カナダにおいて、先住民の状況が変化し始めたのは、第二次世界大戦に兵士として
参加した先住民の貢献を評価し、市民権を与える等の方策が採られた時期であった。
しかし、主流社会による同化政策や先住民に対する差別が続いたため、権利の拡大や
獲得を目指す先住民運動が1960年代から盛んになった。

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カナダにおける先住民政策の流れが大きく変わったのは、1973年のカナダ最高裁判所
によるニスガ裁判であった。 この判決によって、条約を締結していない先住民の権原が
消滅していない事が確認された。 先住民の権原とは、先住民が持つ諸権利が発生
する根拠となる理由や原因の事である。 このため、カナダ政府は、1974年に先住民
権益審議局を創設し、先住民の土地の所有権や生業権、言語権等について、先住民と
政治的な話し合いを開始した。 現在でも尚、ブリティッシュ・コロンビア州の先住民達
とは、政治的な交渉が続いている。

先住民の諸権利は、1982年に憲法によって、守られることが明記された。 更に、カナダ
政府は、1995年に先住民の政治的な自治を容認する政策を打ち出した。 このように
カナダでは、先住権や先住民の自治権が徐々に承認され、実現されつつある。

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