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    タグ:二二八事件

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    中国大陸の国民党政府は、日本に次いで共産党との戦いに直面することとなった。
    ふたつの党は、第二次世界大戦中は、日本を倒すため停戦協定を結び、大戦が
    終わると内戦が勃発した。

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    当初、蒋介石は、共産党より軍事的に優勢だった。 しかし、国民党の軍隊は、
    農民から土地を奪ったり、政府の役人は外国からの支援を着服して私腹を
    肥やしたりしたため、軍事的な優位性も、蒋介石の人気も崩れて行った。

    毛沢東の指揮する共産党は、蒋介石の人気が凋落する間に北部で軍隊の強化に
    勤め、1949年、国民党軍に対して、強力な巻き返しを始めた。

    蒋介石は、敗戦が近いことを悟り、武器、産業物資、政府の財産をトラックに乗せ、
    台湾に移送するよう命じた。 台湾を拠点に共産党との戦いを続けるつもりだった。

    北京では、1949年10月1日に中華人民共和国が成立。 12月になると蒋介石は、
    台湾に向けて大陸を脱出した。 80万人の兵士と200万人の支持者が彼と共に
    渡った。 この亡命集団は、最初から自分たちこそが中国の正当な政府であると
    自認していた。 彼らは、中国大陸を取り返すという目標を達成するために力を
    注いだ。

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    【蒋介石による台湾統治】
    蒋介石の台湾到着は、台湾の大きな変化の予兆であった。 蒋介石は、政府を
    台湾に移したが、台湾の独立は認めなかった。 中華人民共和国も中華民国も
    台湾が中国の一省であると考えは共通していた。 だが両国は、どちらの政府が
    中国を統治するかという点で対立していた。

    この問題では、世界中の国がふたつに割れた。 アメリカをはじめとする国は、
    中華民国の強い反共政策を支持した。 また、ソビエト連邦をはじめとする国は、
    中華人民共和国の主張を支持した。

    この対立の影に、台湾の主人公であるべき台湾住民がいた。 台湾人(1949年
    以前に大陸から来た漢人系移民とその子孫で、『本省人』とも呼ばれる)と先住民
    である。

    二二八事件以来、台湾人と後で大陸から渡って来た中国人(『外省人』とも
    呼ばれる)との間の摩擦は絶えなかった。 台湾人たちは、中華民国に再統一
    されるのが、自分たちのためになるとは信じていなかった。

    独立運動も起こったが、蒋介石は過酷な弾圧を行った。 台湾独立の思想を広める
    ことは、国家反逆罪とされた。 蒋介石は数人の台湾人を政府の役職に就ける
    ことで、こうした対立をある程度治めた。 しかし、国民党は、台湾に厳重な
    統制を敷き、厳戒例を出し、台湾人を支配するために軍隊に大きな権限を与えた。

    1951年、日本は、旧連合国とサンフランシスコ講和条約を締結、この条約で日本は
    台湾の領有権を放棄、台湾は正式に日本の領有を離れた。 経済面では、蒋介石は
    食料生産の増加などに一定の成果を収めた。 台湾の工業力が発展しはじめるのは、
    アメリカから受けた膨大な経済的援助が背景にあった。 1951年から1965年の間、
    台湾15億ドルの主に軍事財政に向けられた経済援助と25億ドルの軍事資金を
    受けた。

    1954年、アメリカと結んだ米華相互防衛条約によって、近代化を進める上で必要な
    安全保障が確保された。 その目覚しい工業発展によって、台湾は1965年までに、
    自力で経済発展の資金をまかなえるようになった。

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    1930年年代後半、日本と中国とが交戦状態にあった時、日本の台湾総督府は、
    台湾住民を公民化する運動を開始した。 これは、台湾住民の日本人化を更に
    進めて、戦争の態勢を整えようとするものだった。 神社参拝の強要、新聞の
    漢文記事の廃止、日本語を使うよう進めて行く等の方策が採られた。 1940年代
    には改姓名といって、姓名を日本式にする運動も進められた。 これらに対して、
    台湾住民は、自ら協力する者、反抗の意思を示す者等、様々だった。 

    1940年代までに、日本は台湾を軍事基地化していた。 フィリピンの米軍基地を
    素早く空襲する理想的な基地となり、 そのため、米・英連合軍の激しい爆撃の
    対象となった。 多くの日本の工場や発電所は、瓦礫となり、飛行場は破壊され、
    陸上交通もほとんど麻痺した。

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    1945年、日本は、連合軍に降伏する。 やがて、中華民国の国民党政府は、
    新しい台湾行政長官を役人や軍隊と共に送り込んで来た。 しかし、この
    新参者達は、台湾住民の同胞ではなく、支配者のように振舞った。 日本人の
    残した住宅や産業等を摂取し、インフレが急激に進み、大規模な食糧不足が
    起きた。 そして、台北市内の小さないざこざから、台湾人と国民党政府との
    大きな衝突が起きた。

    1947年2月28日に起きたこの事件は、二二八事件と呼ばれているが、台湾住民の
    政府への不満の大きさから、事件は台湾島全土へと広まった。 国民党政府は、
    軍隊を出動させて鎮圧にあたり、台湾人らに2万人とも3万人とも言われる死者が
    出た。 重大な事態に蒋介石は、行政長官と呼び戻し、新しい長官を任命した。

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