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    タグ:中華人民共和国

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    台湾島が中国の一部になったのは、中国人が多くの原住民を追い払って移住した
    17世紀のことで、1949年に中国で内戦が終結すると、敗れた中国国民党は台湾島へ
    逃れ、新しい政府を設立して中華民国を樹立した。 アメリカをはじめとする
    わずかな国々は、この小さな国家が実際には何の力も持たないにも関わらず、
    中華民国を中国全体の正式な政府として承認した。

    しかし、1970年代になると、殆んどの国々が、大陸中国の共産党を中国政府として
    認めるようになった。 一方、台湾は、経済的には隣の大国を上回り、貿易を
    通じて富を築いた。 現在、多くの台湾人が独立を保ちたいと考えているが、
    中国を台湾を中国の中の反抗的なひとつの省とみなしている。

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    【文化大革命】
    1966年、毛沢東は、彼の思想に疑問をとなえる人々を攻撃し始めた。 毛沢東は
    若い世代、特に学生たちに、社会の『四旧』、すなわち、古い習慣、伝統、思想、
    文化を打ち破るように呼び掛けたのだ。

    『毛沢東語録』に収められた毛沢東の思想を理想とし、紅衛兵と呼ばれる集団を組織
    した青年たちは、政府の敵を探し出し、追放し始めた。 彼らは年長者を敬う伝統を
    拒否し、教師や学者、そして家族の一員さえ、『誤った考えの持ち主』として
    批判した。

    学校は閉鎖され、何百万人という人々が強制労働に送られた。 中には拷問を
    受けたり殺されたりする人もいた。 文化大革命は中国にとって悲惨な出来事
    だった。

    文化大革命の最中に成長した子供たちは、教育を受けられたかったし、また、工場や
    農地は生産力を低下した。 共産党は党指導者の多くを失ってしまった。

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    中国の人たちは、どんな国を目指すべきなのか、対立していた。 1920年代に、
    中国国民党の指導者となっていた蒋介石は、敵対する軍閥たちと支配権をめぐって
    戦った。

    新しい敵と戦う必要もあった。 共産主義者が1921年に中国共産党を設立した
    のだ。 共産党は1917年にロシアで起きた社会主義革命に刺激を受けていた。
    1930年代に入ると、日本が中国における領有権の拡大を図った。 日本軍は、
    1931年に満州を占領すると、1937年に、当時の中国の首都であった南京に
    向かって侵攻を始めた。

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    中国国民党と共産党は結局は協力して日本と戦ったが、1945年、日本が敗れると、
    再び元のように敵対関係に戻った。 痛ましい内戦の後、最終的に勝利を収め
    たのは、中国共産党だった。 1949年、毛沢東が中華人民共和国の樹立を宣言した。

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    蒋介石は国民党を率いて台湾に逃れ、そこで中華民国を打ち立てて抵抗した。
    毛沢東の指導の下、中国の全ての土地は国家が所有することになった。 人々が
    働く農地も工場も、政府や共同組合が経営することになった。 同じ社会
    主義国のソビエト連邦は、中国の産業の発達を手助けした。

    しかし、中国の人々は、ほとんど自由がなく、政府の決定に疑問を持つことは
    許されなかった。 毛沢東は食料生産に厳しい目標を設けたが、農作物の収穫が
    少なければ、多くの人々が餓死することになった。

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    中華民国から中華人民共和国へと外交関係を切り替える国が増える中、
    1980年代は台湾にとって不安定な10年になった。 台湾の指導者の地位に
    ついては、1978年から蒋介石の息子、蒋経国が就いていた。 彼は、大陸を
    取り戻すよりも、経済発展に力を入れることを選んだ。

    1985年には、アメリカの大統領レーガンが、民主化を推進するよう台湾に
    働きかけ、これを切っ掛けに台湾では、政治の自由化と民主化が、徐々に
    進んで行くこととなった。 1986年には、民主進歩党(民進党)が合法的に
    成立、いくつかの野党の活動も合法化された。 民進党は、台湾を独立国家に
    することを主張している。

    1987年には、38年間に渡って敷かれて来た戒厳令が解除された。 戒厳令は、
    戦争などの非常事態の際、軍に特別な権限を与えて厳重に警戒するための
    命令である。 歴史上、最も長い戒厳令が解かれて、台湾でもようやく平常時の
    社会建設を目指すこととなった。

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    1988年はじめに蒋経国が死ぬと、当時、副総統だった李登輝が後継者となった。
    台湾人初の中華民国政府の代表の誕生であった。 李登輝は、台湾の人々の
    民主化を求める声を受けて、憲法を5回に渡って改定するなど、政治を改革し、
    民主化を大きく進めた。 代表的な改革のひとつは、政府の代表である総統と
    副総統を直接選挙で選ぶようにしたことである。

    そして、1996年3月、その第一回の総統直接選挙が行われた。 これに対して、
    中華人民共和国は、台湾を重視する李登輝の政治を非難してミサイルで威嚇する
    などしたが、李登輝はかえって多くの人々の支持を受け、初の選挙民が選らんだ
    総統として当選した。

    一方、李登輝への支持は、李登輝率いる国民党への支持とはならなかった。
    汚職や金権政治などの古い体質に、非難が集まったからである。 そして、
    2000年3月、第二回の総統直接選挙が行われた。

    李登輝は、以前から引退を表明しており、国民党からは、副総統の連戦が出馬した。
    野党第一党の民進党からは、まだ49歳の若さの陳水扁が出た。 そしてもうひとり、
    大陸出身で元国民党の宋楚揄が有力候補だった。 結果は、陳水扁が宋楚揄に
    わずかの差で当選した。 国民党の連戦は惨敗。 50年余り続いた台湾での
    国民党政権に終止符が打たれた。

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    しかし、国民党は、立法院(国会)では何とか多数派の議席を維持していた。
    また、宋楚揄は新政党親民党を作って、新総裁に対抗することになった。
    少数政権党を率いる陳水扁は、困難な政権運営を迫られたのである。 更に、
    経済が振るわず、陳政権に批判的な中国との緊張し関係も加わった。

    だが、民主と台湾重視という政治の流れは変わることはなかった。 2001年12月の
    立法院議員選挙では、民進党は議席を大きく伸ばして最多政党となり、国民党は
    党2党、次いで親民党となった。

    民進党の議席は、過半数までは届かなかったが、選挙の2ヵ月半前に結成された
    民進党寄りの台湾団結連盟との連立など、政権は安定への兆しが見えた。
    台湾海峡は、日本への重要な輸出入ルートであり、台湾の安定は、日本にも大いに
    関係している。

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    1950年代から60年代の間、国民党と中華人民共和国は、武力と宣伝活動
    による戦いを繰り広げた。 中華人民共和国は、金門と馬祖に砲撃を加え、
    中華民国は、軍備を増強し、しばしば福建省を空襲した。

    蒋介石は1954年、60年、66年、72年の4期に渡り総統に再選され、在任中の
    75年に死亡した。 死後10年余り、1986年まで本格的な野党の存在は許可
    されず、国民党以外にも補助的な小政党はあったが、実質的な一党独裁体制が
    続いた。 そんな中でも台湾は、高度な経済成長を続け、1970年代までに
    台湾の人々は、アジアでは日本や香港に次ぐ高い水準を手にするようになった。

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    この時期、中華民国は、国連加盟国として国際的な地位を維持し、また、
    中国の正当な政権であると主張していた。 アメリカなど多くの国々も
    この主張を認めて支持した。

    しかし、1970年、この図式に変化が起きた。 カナダが貿易改善のため、
    20年間の交渉の末、中華人民共和国との外交関係を樹立した。 イタリアや
    ベルギー、その他の国々も、中華人民共和国を正当政府として認める方向に
    動き出した。 そして、1971年、中華人民共和国は国連に復帰し、中華民国は
    脱退した。

    1972年、日本は中華人民共和国を国交を結び、中華民国とは断交する。
    その後、中華民国はいくつもの国と断交が続き、1979年1月、中華民国に
    とって最強の同盟国アメリカもまた、中華人民共和国を中国の正当な政府
    として承認した。 更にアメリカは、台湾問題の解決は、中国の国内問題で
    あると主張した。

    しかし、アメリカ議会は、台湾関係法を成立させ、非公式な関係を継続出来る
    ようにした。

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    中国大陸の国民党政府は、日本に次いで共産党との戦いに直面することとなった。
    ふたつの党は、第二次世界大戦中は、日本を倒すため停戦協定を結び、大戦が
    終わると内戦が勃発した。

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    当初、蒋介石は、共産党より軍事的に優勢だった。 しかし、国民党の軍隊は、
    農民から土地を奪ったり、政府の役人は外国からの支援を着服して私腹を
    肥やしたりしたため、軍事的な優位性も、蒋介石の人気も崩れて行った。

    毛沢東の指揮する共産党は、蒋介石の人気が凋落する間に北部で軍隊の強化に
    勤め、1949年、国民党軍に対して、強力な巻き返しを始めた。

    蒋介石は、敗戦が近いことを悟り、武器、産業物資、政府の財産をトラックに乗せ、
    台湾に移送するよう命じた。 台湾を拠点に共産党との戦いを続けるつもりだった。

    北京では、1949年10月1日に中華人民共和国が成立。 12月になると蒋介石は、
    台湾に向けて大陸を脱出した。 80万人の兵士と200万人の支持者が彼と共に
    渡った。 この亡命集団は、最初から自分たちこそが中国の正当な政府であると
    自認していた。 彼らは、中国大陸を取り返すという目標を達成するために力を
    注いだ。

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    【蒋介石による台湾統治】
    蒋介石の台湾到着は、台湾の大きな変化の予兆であった。 蒋介石は、政府を
    台湾に移したが、台湾の独立は認めなかった。 中華人民共和国も中華民国も
    台湾が中国の一省であると考えは共通していた。 だが両国は、どちらの政府が
    中国を統治するかという点で対立していた。

    この問題では、世界中の国がふたつに割れた。 アメリカをはじめとする国は、
    中華民国の強い反共政策を支持した。 また、ソビエト連邦をはじめとする国は、
    中華人民共和国の主張を支持した。

    この対立の影に、台湾の主人公であるべき台湾住民がいた。 台湾人(1949年
    以前に大陸から来た漢人系移民とその子孫で、『本省人』とも呼ばれる)と先住民
    である。

    二二八事件以来、台湾人と後で大陸から渡って来た中国人(『外省人』とも
    呼ばれる)との間の摩擦は絶えなかった。 台湾人たちは、中華民国に再統一
    されるのが、自分たちのためになるとは信じていなかった。

    独立運動も起こったが、蒋介石は過酷な弾圧を行った。 台湾独立の思想を広める
    ことは、国家反逆罪とされた。 蒋介石は数人の台湾人を政府の役職に就ける
    ことで、こうした対立をある程度治めた。 しかし、国民党は、台湾に厳重な
    統制を敷き、厳戒例を出し、台湾人を支配するために軍隊に大きな権限を与えた。

    1951年、日本は、旧連合国とサンフランシスコ講和条約を締結、この条約で日本は
    台湾の領有権を放棄、台湾は正式に日本の領有を離れた。 経済面では、蒋介石は
    食料生産の増加などに一定の成果を収めた。 台湾の工業力が発展しはじめるのは、
    アメリカから受けた膨大な経済的援助が背景にあった。 1951年から1965年の間、
    台湾15億ドルの主に軍事財政に向けられた経済援助と25億ドルの軍事資金を
    受けた。

    1954年、アメリカと結んだ米華相互防衛条約によって、近代化を進める上で必要な
    安全保障が確保された。 その目覚しい工業発展によって、台湾は1965年までに、
    自力で経済発展の資金をまかなえるようになった。

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    いくつかの点で、台湾の歴史は中国の歴史と切り離すことが出来ない。
    台湾が経験して来た多くの変化は、中国で起こった出来事が原因である。
    とは言え、強い海流、予想のつかない天候変化、台風と言った航海上の危険を
    伴う台湾海峡によって、ふたつの地域の間では、何世紀もの間、大きな人口
    移動が妨げられて来た。

    石器や土器等の考古学的発見によれば、2万年前、台湾には旧石器時代の
    現代人に繋がる人類が住んでいた。 一部の学者は、こうしたヒトは、中国が
    起源だと言う。 また、別の学者は、東南アジアのマレー半島辺りから渡って
    来た最初の移民だと考えられている。 起源は、いずれにせよ、この頃の人々は
    低地一帯だけではなく、深い山林にも住んでいたのは確かである。

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    【初期の歴史】
    台湾に関する中国・唐時代の記録によれば、漢人とは、この島を流求と呼んだ
    と言う。 後に、琉球と字が変わった時には、沖縄の事を表し、台湾は、小琉球と
    呼ばれた。 また、6世紀はじめに隋の皇帝が兵を送っている。 その頃住民は、
    木を切り倒し、それを焼き払って農地を開墾し、イネ、アワ、マメ等の穀物を
    植えていた。 島には階級支配制度があり、1人の指導者と、何人かの副指導者が
    治めていた。 敵の頭を切り落とし、勇気の証拠として飾る首狩りの風習もあった。
    隋の兵は、彼等を数千人も捕虜にして連れ帰り、以後は関係が絶えたと言う。

    960年から1279年まで続いた宋の時代、近くの膨湖諸島へ渡る者もあった。
    宋代の貨幣や陶器のかけらが膨湖諸島で発見されたことから、島へ渡るように
    なったのは、11世紀頃から考えられる。 島の近海で獲れる豊富な魚にひかれて
    漁師が渡ったのかも知れない。 台湾まで探検する者も居たことであろう。

    13世紀、台湾と膨湖諸島への探検は更に盛んに行われるようになった。 この頃、
    中国北部の勇敢な民族であるモンゴル人が南下し、宋王朝を現在の浙江省にある
    杭州にまで追いつめていた。 南シナ海に面する江南に移った宋の政府は、造船
    技術の向上を支援し、南海貿易を奨励した。 また、船乗り達は、磁気針を水に
    浮かべて、方位を測定する方法を用いて、中国大陸と台湾の間の海域をより正確に
    航海出来るようになった。 水針は、後の明の時代に羅針盤に発展する。 こうした
    航海術の向上が海上交通を盛んにしたのである。

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    中国大陸東南沿岸部の沖に浮かぶ島である台湾は、今大きな経済力を持つまでに
    発展し、世界中の市場に加工品を輸出している。 20世紀中頃までは、台湾の主な
    産業は農業であった。 島とは言え、台湾には豊かな歴史と文化がある。 17世紀、
    ポルトガル人から『フォルモサ(美しの島)』と呼ばれたこの島は、一部が
    オランダ、次いで清朝の統治を受けた。 やがて、日本と清朝との間に戦争が
    起こり、1895年には 大日本帝国の領土となる。 そして、1945年には、
    中華民国政府が台湾を統治するようになった。

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    その後、中国大陸で起きた大事件が、台湾に大きな影響を与える。 中華民国の
    国民党軍と中国共産党軍との衝突が、中華民国政府の安全を脅かしたのである。
    1949年、蒋介石を首脳とする中華民国指導部は、中国全土を支配した共産党軍から
    逃れ、蒋介石は台湾に渡り、亡命政府を置いた。 そして、1949年には、
    共産党が、中国大陸に中華人民共和国を樹立する。

    国民党が来てから台湾住民は、新たな混成となった。 最大グループは、台湾人で、
    過去数世紀の間に島に移り住んだ漢族の子孫だけが、多くは先住民との混血が
    見られる。 1949年前後に大陸から来た人々も漢族だが、別のグループとなって
    いる。 そして、最も少数派は、台湾原住民と呼ばれる、この島の先住民の
    子孫である。



    台湾と中国大陸との両政権は共に、台湾は中国の一省であり、中国は統一すべきで
    あるという考えを掲げて来た。 だが、統一実現後の政治体制についての考えには
    大きな隔たりがある。 また、独自の道を歩むべきとの考えも台湾では根強く、
    両者は台湾海峡を挟んで対峙が続いている。

    国際連合は長年、中華民国を中国を代表する政府として支持していたが、1970年代
    には、国連加盟国の多くが、中華人民共和国を承認するようになった。 中華民国は
    国連から脱退し、外交関係を持つ国は30カ国足らずである。

    この挫折にも関わらず、台湾の経済成長は1950年代以来、高水準で続き、1970年代
    後半には、アジア最高水準の人々の生活を実現するのである。 更に、その経済力を
    背景に、台湾の政府は、国際関係で積極的な活動を続けた。 台湾は外交的に
    不遇とは言え、日本等多くの国と経済的、文化的な交流を維持している。

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    1988年1月、父親蒋介石の後を継いだ蒋経国が死去し、副総統だった李登輝が
    台湾出身初の指導者になった。 李登輝は民主化を進め、1996年国民による
    初めての直接選挙で総統に選ばれた。 それに継ぐ2000年の総統選挙では、
    野党の民主進歩党から出馬した陳水扁が総統に選出され、国民党は野党になって、
    平和的な政権交代が実現した。

    陳水扁政権は、台湾本位の政策を進める政権としてスタートする。 しかし、
    中華人民共和国は、軍備の拡大や経済面での締め付け等で統一への圧力を
    高めている。

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    1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して、連合国に無条件降伏した。
    戦後香港を中華民国が統治すべきか、イギリスが植民地支配を再開すべきを
    めぐっては、両国の間に意見の相違があった。 中華民国の蒋介石は、1943年の
    カイロ会議で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領から、戦後
    中華民国が香港を統治することへの同意を取り付けていたが、イギリスの
    ウィンストン・チャーチル首相は、イギリスが統治を回復すべきだと考えていた。
    この考えは、ルーズベルトの後を受けたハリー・トルーマン大統領に支持された。
    結局、9月16日、イギリス政府が日本軍の降伏を受ける形となり、イギリスの
    香港統治が再開された。

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    中国大陸の内戦は、徐々に共産党に有利に展開し、1949年10月1日には、共産党は、
    中華人民共和国の成立を宣言した。 南下して来た共産党軍は、10月17日には
    香港との境界である深圳に達した。 共産党は香港を軍事的に攻略する能力を
    備えていたとされるが、結局、香港に侵入する事はなかった。 中国は周恩来が
    提起した『長期的に考え、充分利用する』との方針に基づき、即時に領有する
    ことは目指さず、イギリスに香港統治を続けさせ、外貨の供給源や貿易の窓口
    として、香港を活用しようとしたのである。

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    こうして、戦後もイギリスは香港を統治し続けることになったが、中国によって
    香港が軍事『解放』されるようなことがないために、イギリスは中国を刺激する
    ことを避けざるを得ず、このとは、ロンドンや香港政庁の政策の幅を制限した。
    イギリスは、1950年、西側主要国としてはいち早くから中華人民共和国を
    承認した。

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