東京通詞 ~多言語のススメ~

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    タグ:中央ヨーロッパ

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    20世紀のはじめのチェコ人は、ハプスブルグ統治からの独立を要求していた
    多くの民族のひとつに過ぎなかった。 数世紀に渡ってバルカン半島を支配
    していたオスマン・トルコ帝国は衰退し、答辞の南東ヨーロッパは不穏な情勢
    だった。 オーストリアとトルコの勢力に挑戦して、ロシア帝国などの列強が、
    中央ヨーロッパに領土拡大と支配の手を伸ばして来た。

    オーストリア対ロシアの不穏な情勢が、第一次世界大戦(1914年~1918年)の
    引き金となった。 オーストリアはバルカン半島で、ハプスブルグからの独立を
    求めるセルビア人と戦うこととなった。

    ドイツとオーストリアは同盟を結び、東でロシアと、南でイタリアと戦った。
    しかし、チェコ人は同じスラブ民族であるセルビア人はロシア人を相手に戦い
    たくなかった。 多数のチェコ人がロシアへ脱出して、チェコとスロバキア
    共同の軍隊を組織した。

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    対戦中、チェコの指導者トマシュ・マサリクとベネシュ、スロバキアの指導者
    ミラン・シュテファニックは、チェコとスロバキアにそれぞれ独立国を建て
    ようと計画していた。 しかし、情勢の成り行きを見たマサリクは、両者を合体
    したチェコスロバキア連邦共和国の建国を決心した。 アメリカ合衆国の州政府の
    ように、連邦政府の下にチェコとスロバキアそれぞれに、共和国政府をつくる
    ことを約束した。

    ドイツとオーストリアの敗北が目前となった1918年10月、マサリクは、チェコ
    スロバキアの独立を宣言した。 10日後、マサリクは、初代大統領に就任した。

    1918年11月のドイツとオーストリアの降伏の後、ハプスブルグ王朝は崩壊し、
    オーストリアとハンバリーも独立国となった。 旧オーストリア領内の国々も
    独立を勝ち取った。 同じ頃、ロシア革命が起こり、やがて、東ヨーロッパの
    国々を支配する共産主義国であるソビエト連邦共和国設立の切っ掛けとなった。

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    宗教や権力の対立に明け暮れて、ボヘミアの国力が衰弱していた時期、中央
    ヨーロッパは外国からの侵略の脅威にさらされていた。 オスマン・トルコが、
    1500年代はじめに小アジア(現在のトルコ)からヨーロッパに侵入して来た。

    ハンガリーとボヘミア王国を兼ねたラヨシュは、1526年にトルコ戦で死んだ。
    領主、聖職者、商工業者で構成されたボヘミア議会は、トルコからの侵略に備えて、
    ラヨシュと婚姻関係にある強力なハプスブルグ家のフェルディナンドをボヘミア
    国王として承認した。 これが、ハプスブルグのボヘミア王国支配の始まりである。

    その頃、宗教上の対立がドイツのウィッテンベルグで始まっていた。 マルティン・
    ルターがローマ・カトリック教会の腐敗に抗議し、教会は、彼を追放した。
    ボヘミアのチェコ人、ドイツ人もルターの改革に賛成したが、カトリックに忠実な
    フェルディナンドは宗教改革に反対し、1547年にチェコ人のプロテスタント反乱を
    鎮圧した。 ハプスブルグのボヘミア王国支配は、20世紀まで続いた。

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    【ハプスブルグの政治と三十年戦争】
    神聖ローマ帝国を継承するハプスブルグ家は、帝国の首都オーストリアのウィーン
    からボヘミア王国を支配した。 ボヘミア領は、豊かな土地と天然資源を持って
    いたので、ハプスブルグ領地の中で、最も価値の高い地方と見なされていた。
    ボヘミア領に居るドイツ系のカトリック教徒は、ハプスブルグに忠実であったが、
    領主、聖職者、都市の商工業者で構成されたボヘミア議会は、ハプスブルグ統治に
    反対した。

    ハプスブルグ家は、プロテスタントに信仰の自由を認めたが、カトリックと
    プロテスタントの対立はおさまらなかった。 カトリックの戒律を厳しく守る
    フェルディナンド2世が、1617年にハプスブルグ王家を継いだ。
    フェルディナンドは、プロテスタントを領地から一掃しようと決心した。

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    1618年、それに講義してチェコ人貴族の一段が、フェルディナンド2世の3人の国王
    参議官をプラハ城の窓から突き落とした。 参議官たちは、命拾いしたが、
    チェコ人の反乱が始まった。 議会は、国内からプロテスタントの国王を選び、
    ハプスブルグに対抗する援軍をプロテスタント諸国に要請した。

    しかし、1620年11月、ハプスブルグ軍は、ビラー・ホラ(白い山の意味)の決戦で
    チェコ軍を破った。 決戦の後、ほとんどのチェコ人反乱貴族は、ボヘミアから
    追放された。 ビラー・ホラの決戦の後、ヨーロッパのカトリックと
    プロテスタントの国々の間で三十年戦争が始まった。 ハプスブルグ軍に対抗して、
    ドイツ、デンマーク、スウェーデンからプロテスタント軍がボヘミアに侵入した。
    相次ぐ戦争で飢餓が襲い、ボヘミアの都市、街、農村は根こそぎ破壊された。
    フェルディナンドは、チェコ人のプロテスタントを国外へ追放し、ボヘミア
    議会の立法権、法の執行権を剥奪した。

    1648年、ウェストファリアの平和条約で戦争は終わった。 条約により、ボヘミア
    王国領ボヘミアとモラビアは、ハプスブルグ支配下に留まった。 追放された
    チェコ人貴族の領地は、領地の農民ごと没収されて、新領主となったドイツ人
    カトリック教徒の手に渡った。 ハプスブルグはチェコ語での教育や出版を禁止し、
    ドイツ語が政治、教育の公用語となった。

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    少なくとも2500年に渡って、スロバキアには人類が住んでいた。 最も古い
    定住者が確認されているのは、ドナウ川流域での低地帯である。 そこでは、
    前史時代にわずかな穀物を栽培していた。 考古学者は、カルパート山脈の
    洞窟にも人間が居た形跡を発見している。

    紀元前500年頃、遊牧民のケルト人がヨーロッパの北と東からスロバキアへ移り
    住んで来た。 ボイイと呼ばれるケルト人グループが、現在のブラチスラヴァの地に
    要塞の町を築いた。 北のバルト海と南の地中海を結ぶ琥珀交易の道が、この地で
    ドナウ川を横切っていた。 戦略上、金属細工、武器や土器の取引を盛んに行った。
    ボイイは、スロバキアかやボヘミア、モラヴィアに定住した後、チュートン人の
    大規模な侵略に悩まされた。

    現在のドイツ人の先祖であるチュートン人は、ドナウ川上流の山脈や森から
    やって来た。 チュートン人の一族、マルコマーニは、紀元前12世紀にボイイを
    破り、スロバキアにあったケルト人の町を次々と侵略した。 その間にフランク人や
    他のチュートン人が、ドナウ川流域の平野の入って来た。 川に沿って砦を築いた
    フランク人は、南ヨーロッパを支配していた強力なローマ帝国軍の侵入に備えた。

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    【ローマ人とスラブ人】
    1世紀頃、ローマの軍団(陸上部隊)は、ドナウ川の南岸に到達した。 しかし、
    チュートン人を征服する事が出来ず、ローマ人は帝国の北方全線の要塞として、
    川に沿っていくつかの砦を築いた。 しかし、ローマ帝国は、イタリア半島の南に
    ある首都ローマから統治するには、版図を広げ過ぎた。 4世紀になると、ローマ
    帝国は、ローマを首都とする西と、コンスタンティノープルを首都とする東の帝国に
    分裂した。 両帝国共キリスト教を公認の宗教としていた。

    ドナウ川流域の要塞は、ローマの守備のために作られたのだが、流域の平野沿いに
    東からの侵入者がたやすく入り込めた。 4世紀にフン族が、中央アジアの平野から
    中央ヨーロッパに押し寄せた。 アッチラの指揮の下、フン族はローマ人をドナウ
    平野から追い出した。 5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、アジア系の
    アヴァール人がスロバキア、ボヘミア、モラヴィアを征服した。 6世紀には、
    何千というスラブ人がやって来たスラブ人は、カルパート山脈の狭い峠を通って
    スロバキアの平野になだれ込んだ。 彼らはアヴァール人と戦って、オクルフリチェ
    という小さな円形の村を作った。

    スラブ人は東、西、南の民族集団に分かれた。 ボヘミアとモラヴィアに定住
    していたチェコ人と、北方に定住したポーランド人、そして、スロバキア人は、
    皆西スラブ人である。

    623年に3集団は団結して、アヴァール人を中央ヨーロッパから追い出した。
    スラブ人のリーダー達は、武器売り込み承認のドイツ人サモをリーダーに招いた。
    アヴァール人を破ってからサモとスラブ人達は、フランク人の侵略を受けていたが、
    637年のヴァガティスブルグの戦いでフランク人に勝った。

    勝利の後、サモは、スロバキアのドナウ川低地にスラブ人のサモ王国を建国し、
    支配することが許された。 しかし、658年にサモが死ぬと、国はすぐに崩壊した。
    その後2世紀に渡ってスロバキアは広い範囲に渡って荒廃し、政治的な混乱が続いた。
    各地で衝突が起こり、スラブ人の農地や町は荒れ、やがて姿を消した。 強力な
    中央政府がないため、スラブ人領主は自分達の小さな領地を独自に治め、領地拡大の
    ために戦った。

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    1993年のはじめに、チェコスロバキアが分離して、チェコとスロバキアという
    ふたつの国が生まれた。 スロバキアは、歴史上初めて完全な独立国となり、
    長く続いた経済不況と、共産党の一党支配から抜け出す機会に恵まれた。
    しかし、国の将来については、意見がいくつも分かれ、スロバキアの政治は
    まだ安定していない。

    1918年以前のスロバキアは、中央ヨーロッパの王国、ハンガリーの一部であった。
    ハンガリー人は、スロバキアの独立要求を許さなかった。 そこでは、様々な
    権利や特権(例えば、投票権)を持った大地主が農場を経営して、その農場で
    働くスロバキア人農民は、投票権さえ持っていなかった。

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    第一次世界大戦(1914~1918年)の結果、中央ヨーロッパには劇的な変化が
    起こった。 ハンガリーが世界大戦で負けたのを機に、民族的に近いチェコ人と
    スロバキア人が一緒になったチェコスロバキアが建国され、独立した。
    スロバキアは国の東半分近くを占めていた。

    第二次世界大戦(1939~1945年)後、チェコスロバキアは、東ヨーロッパの強大な
    共産主義国であるソビエト連邦と親密な関係を築き、その政治勢力の下に入った。
    チェコスロバキアの共産党指導者は、民営の企業を禁止し、工業、農業、貿易の
    分野で厳しく管理した。 政府は、国家の情報や報道を規制し、全ての野党を
    禁止した。

    1950年に、スロバキアは、急速に工業化された。 共産党政府は、地方に巨大な
    工場を建設し、多数のスロバキア農民は、都市へ移動した。 雇用が増えて、
    政府は国民に医療福祉の恩恵を与え、生活水準は改善に向かった。 それでも、
    スロバキア人は、スロバキア自治を望んだ。 1968年に新しく連邦制となり、
    チェコとスロバキアは、それぞれの地方政府を持つことになった。

    チェコスロバキアでは、1989年まで、厳しい一党支配が続いた。 その年に
    起こった市民革命は、共産党政権を辞任させた。 チェコでは、国家が決める
    計画経済に代わって、需要と供給が賃金と価格を決める自由市場経済の原理を
    取り入れた。 しかし、それまで共産党員であったスロバキアの指導者達は、
    未だに国家管理の計画経済を支持している。 その結果、国営企業の民営化は、
    チェコの方がスロバキアよりも遥かに早く進んだ。

    1990年代の半ばに、スロバキアの企業は、外国からの投資に門戸を開いた。
    スロバキア工業製品の多くは、依然として時代遅れであるため、輸出が難しい。
    結果として、高失業率や物資不足、生活水準の低下に悩まされた。

    その上、共産主義の崩壊の後生まれた諸政党は、まだ混沌といしている。
    スロバキアの指導者達は、急速な経済改革を強く批判している。 そのため、
    政府は、重要な政策決定を下すことが出来ない。 スロバキア人は、ついに手に
    入れた自由と独立を喜ぶ一方で、国の将来に横たわる問題に不安を抱いている。

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    オーストリアの首都ウィーンは、スロヴァキアとの国境から、およそ64.4kmの
    ドナウ川南岸にある。 人口は、約160万人で、国の総人口のおよそ5分の1
    となっている。 市内や郊外に数多くある宮殿や歴史的な建造物は、かつて
    権力の中枢だったこの都市の重要性を良く示している。

    ウィーンは、ヨーロッパ中部の重要な交易ルート沿いに位置する。 およそ
    2000年前、ケルト人達は、ここに最初の定住地を建設した。 紀元前15年に、
    ローマから来た兵士達は、そのケルトの町の跡に、ウィンドボナという名の
    要塞を築いた。 ウィーンは、13世紀以来、政治の中心であり、文化と産業の
    中心でもある。

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    市街の最も古い部分は、リング(輪)と呼べれる大通りに囲まれている。
    リングの1.6km外側には、ギュルテル(帯)という第二の環状道路があって、
    比較的新しいアパートやオフィスビルが、ギュルテル沿いに建っている。

    ウィーンの主な建造物は、第二次世界大戦中の爆撃で損害を被ったが、市民達は、
    せっせとそれを再建した。 15世紀に建てられた聖シュテファン寺院は、今でも
    街の中心にそびえている。 国立オペラ劇場は、1800年代にリング沿いに建て
    られた厳しい建造物の1つである。 かつてオーストリアの君主達が暮らしていた
    ホーフブルグとシェーンブルンの両宮殿は、今では歴史と美術に関係のある、
    様々な文化財を展示するために使われている。

    この国第一の工業都市であるウィーンは、機械、薬品、繊維、電気製品、食品、
    各種手芸品等が生産されている。 ウィーン大学の他、美術、音楽の大学も
    ここにはある。 国家間の協議や平和会議もしばしばここで開かれた。 国連の
    機関のいくつもがウィーンに置かれている。

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    【その他の都市】
    シュタイヤーマルク州の州都であるグラーツは、人口25万人で、かつてここには
    大きな要塞があり、トルコ軍の攻撃から何度か、ウィーンとハプスブルグ帝国を
    防衛した。 現在のグラーツは、工業都市で、薬品、鉄鋼、自動車等の工場がある。
    近くの鉱山からは、鉄鉱と石炭が採掘される。

    ドナウ川沿いの都市リンツは、人口20万人で、古代のローマの時代から河港として
    交易の中心だった。 リンツは、ヨーロッパの北部と西部諸国を、東部と南部諸国に
    結び付ける重要拠点だった時期もある。 1832年、リンツと現在のチェコ領との間に
    オーストリア最初の鉄道が開通した。 現在、この都市には、大型機械、薬品、
    鉄鋼を生産する大工業コンビナートがある。

    人口13万8,000人の都市ザルツブルグは、付近でザルツ(岩塩)が採掘されること
    から付けられた地名となっている。 ドイツとの国境に近いザルツァッハ河畔の
    この都市は、18世紀の大作曲家モーツアルトの生まれ故郷で、毎年夏に開かれる
    モーツアルト音楽祭には、世界中から大勢の音楽愛好家達が集まる。 旧市街には、
    大きな要塞や教会等の歴史的建造物が多い。

    人口11万6,000人のインスブルックは、チロル州の首府で、13世紀に建設され、
    北ヨーロッパとイタリアとを結ぶ交易の重要な拠点として成長した。 ここでは、
    1964年と1976年の2回、冬季オリンピックが開催され、その際に建設された
    スポーツ施設には、今でも冬季スポーツの愛好家達が多数訪れる。

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    ドイツ、オーストリア、ハンガリー等、ヨーロッパ中部にある一部の地域には、
    クリスマスシーズンになると、子供達に沢山のプレゼントを配る聖ニコラウス
    とは対照的に、悪い子供達にお仕置きをする伝説の怪物が居る。

    この怪物は、民間伝承に登場する、半分ヤギ、半分悪魔の姿をした怪物のことで、
    『クランプス』と呼ばれている。 クランプスは、子供達にプレゼントを配る
    聖ニコラウスとは対照的に、悪い子供達を叩いたり、連れ去ったり、更に、
    地獄へと引きずり込んだり
    する。



    毎年12月の上旬になると、伝説に則り、悪魔クランプスが聖ニコラウスと共に、
    野外を練り歩きく。 12月の最初の2週間、特に12月5日の晩になると、若者達が
    クランプスの扮装をして、錆びた鎖と鐘を持ち、子供と女性を怯えさせながら
    通りを練り歩くのが毎年恒例の伝統行事となっている。

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    クランプスは、毛むくじゃらの皮膚を持ち、鋭く長いツノ、大きく開いた口に
    ドラキュラのようなキバが生えている。 怒りをあらわにしている表情が非常に
    恐ろしい。 ドイツの古い言い伝えでは、クランプスとサンタクロースは、双子
    という設定となっており、一方が良い子にご褒美としてプレゼントを配り、
    もう一方が悪い子にお仕置きをして素行を正すという役割を担っている。

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    昔は、仮装をした人達が家々のドアを叩いて酒を要求し、出さなければ騒ぐぞと
    脅すことが極当たり前に行われていたという。 アメリカ等で行われている
    ハロウィンや、日本のなまはげにもこのクランプスと同様の趣旨が含まれており、
    恐ろしい見た目で、厳しく子供達を諭すということは、世界共通なのかも知れない。

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