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    タグ:中国大陸

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    1684年、清朝は台湾を福建省の管轄下に置き、統治を開始した。 しかし、
    その統治は軍事的に重要な澎湖諸島の安全保障と、台湾が将来、海賊や反乱者の
    拠点とならないようにするため、という消極的なものであった。 そして、
    その統治区域は、台湾全土には及んではいなかった。

    taiwanjyuumin


    オランダと鄭経が労働力と課税人口を増やそうと努力し、何十万人にも達して
    いた漢人の移住民を清朝は減らそうとさえした。 妻子のない移住民は、
    強制的に故郷へと戻し、新たな移民には厳しい制限を設けた。 しかし、
    中国大陸から次々に移民が渡って来た。

    殆どは中国南部の農村地帯からの人々であった。 そこは人口が過剰ぎみで、
    自分の農地を求めて密航の危険を犯して、台湾へ渡って来たのである。 彼ら
    農民たちは、島に渡るとすぐに土地を耕し始め、未開地は耕作地へと変わって
    行った。 1684年から1735年の間、農民たちは北西沿岸沿いの広い地域と
    南部の広大な土地を開墾して作物を植えた。

    しかし、この新田によって先住民たちは土地を奪われ、沿岸地域から内陸部へと
    押しやられた。 その反面、移住民と通婚するなどして一族諸共漢人化して行く
    先住民もあった。 一方、清朝の役人たちは、島の開発には興味がなかった。
    3年間の任期中、不法な手口を使ってでも自分の財産を増やすことに精を出し
    たのだ。 官僚の汚職がはびこり、台湾は無法地帯となって強盗や社会不安が
    日常化した。



    農業生産高の向上やサトウキビ、茶の輸出などで経済は次第に発展したが、
    利益は役人と商人に吸い取られ、一般の住民はますます不満感を高めた。
    1700年代から1800年代半ばまでに15回もの大きな反乱が起こり、小さな暴動は
    もっと頻繁に発生した。

    発展と混乱の続く1800年代中頃、貿易の拠点など台湾の商業的価値に目を
    付けたイギリスとアメリカは、台湾の占領を狙ったが、実現はしなかった。

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    戦後の香港は、著しい経済発展の時代でもあった。 戦前の香港の主要産業
    であった中国大陸との中継貿易は、共産党政権の誕生によって、大きな打撃を
    受けたが、大陸から香港に来た資本家が工業を興し、難民がこれに労働力を提供し、
    香港はやがて台湾、韓国、シンガポールと共に『アジア四小龍』と称される。
    新興工業経済地域(NIES)に数えられるようになったのである。

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    しかし、庶民の生活は苦しく、植民地支配の下、政府の福祉や弱者対策も不十分
    であった。 このため、1960年代までの香港では、暴動も頻発した。 1956年の
    九龍半島と新界の工業地区での暴動は、戦後初めてのものであり、10月10日の
    中華民国の建国記念日に、公共住宅に中華民国旗を掲げることへ不満を持った
    親国民党の派閥が起こした右派暴動であった。 1966年4月6日には、香港島と
    九龍を結ぶ庶民の足『スターフェリー』の値上げに反対する運動が暴動化した。

    中でも大規模なものは、大陸の文化大革命の影響を受けた左派系の派閥が主導した、
    1967年の暴動であった。 同年5月、九龍の造花工場の労働闘争が、香港政庁批判の
    政治運動と化した。 これを背後で共産党組織、広東省の紅衛組織が支援し、
    暴動化した。 8月には左派は、時限爆弾によるテロを開始し、半年以上の
    混乱の中、政府公表で死者51人、負傷者848人、逮捕者は5,000人以上、秘密裏に
    大陸に追放された者多数という悲劇を産んだ。

    これにより、香港の左派は、大きく信用を失ったが、同時に香港政庁もこれまでの
    高圧的な統治への反省を迫れらた。 1970年代になると、『中文公用語化運動』や
    『保釣運動(尖閣諸島の防衛)』など、地元意識の高まりを象徴する学生運動が
    多発した。 イギリスの労働党政権も、香港の福祉の充実を香港政庁に対して
    求めた。

    政庁と市民は、それまで政庁が政権を独占し、地元市民の生活は、半ば放置された
    ような状態にあったが、経済、社会の発展に伴い、相互に要求を伝えたり、民意を
    聴衆したりする必要性を認識した。 民主化は行われなかったが、香港政庁は、
    詰問などの仕組みを通じて、民意を汲み取ることに努めた。

    【お勧めの一冊】


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