多言語翻訳 Samurai Global ~多言語のススメ~

世界各国のニュースを知る事により、多言語、多文化
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日本ではなかなか伝えない世界各地の真実を伝えます。

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    タグ:世界遺産

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    世界遺産 シントラ
    シントラは、リスボンから電車で約40分の位置にある街全体が世界文化遺産に
    指定されている街で、それぞれ世界遺産に指定された宮殿、庭園、建造物等の
    見どころが沢山ある。 ムーア人が築いた城跡、ポルトガル王室の夏の離宮など、
    様々な年代の文化財が集積していることから観光地としても非常に人気がある。
    また、ユーラシア大陸最西端のロカ岬への観光の拠点にもなっています。

    出発はロシオ駅から
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    シントラは、歴史的な建物が多いため、この街を観光するためには、丸1日は
    必要だと思います。 ユーラシア大陸最西端のロカ岬に隠れた歴史的なスポットを
    見つけたので、次回は時間を作って、もっとゆっくりとシントラの街を観光しようと
    心に決めました。

    【シントラ】
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    ポルトガルの首都リスボンは、人口約55万人程度となっているが、周辺の都市圏を
    合わせると、300万人を越える大都市となり、ヨーロッパの中でも11番目の都市規模
    となっています。

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    リスボンの中でも、特に歴史的な地区としても名高いベレン地区には、ポルトガル
    大航海時代を再現した「発見のモニュメント」がある。 インド航路発見者の
    ヴァスコ・ダ・ガマ、ブラジル発見者のペドロ・アルヴァレス・カブラル、初めて
    世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼラン、喜望峰を初めて回りインド洋
    へと到達したバルトロメウ・ディアス、日本へ1549年にキリスト教を伝道した
    宣教師フランシスコ・ザビエルと、ざっと見ただけでも、かなりの偉業を達成した
    人物ばかり。

    【発見のモニュメント】
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    同じくベレン地区にある世界遺産「ジェロニモス修道院」は、エマヌエル様式の
    最高傑作とも言われ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。 建築資金は当初、
    バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、
    その後も香辛料貿易による利益によって賄われたが、途中で建設が中断したため、
    最終的な完成までには300年も掛かった。

    このすぐそばには、「ベレンの塔」があり、ジェロニモス修道院と共に、
    「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」の構成資産として世界遺産リストに
    登録されている。

    リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔
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    リスボンの交通機関は、デポジット式のプリペイドカードなのだが、実は、
    車内でも清算が出来るものの、料金が一気に跳ね上がり、前払いよりも約2.5倍の
    3.8ユーロ(約480円)となる。 基本料金の1.5ユーロ(約190円)と比較すると、
    非常に高いため、2回以上車内で清算をする可能性がある場合は、1日フリーパスが
    断然お得となる。

    リスボン中心部にある「コメルシオ広場」は、テージョ川河口付近にあるため、
    港町の雰囲気が漂っている。 リスボンの街はさほど大きくはないため、頑張れば
    歩いても回れるものの、ある程度は地下鉄や路面電車を組み合わせて効率良く
    回ると時間の節約にもなるため、利用価値が高い。

    【ベレン地区~コメルシオ広場】
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    テージョ川河口付近。 この川を下り、世界各地に探検家を送ったポルトガルは、
    スペインと並び、世界中に植民地を持つ大帝国となった。 この日は年末で
    あったため、コメルシオ広場では、新年の準備が進められていた。

    リスボン観光の目玉、サンタ・ジュスタのリフト(「エレベーター」はアメリカ
    英語)。 リスボンは港町であるため、高低差が激しく、このリフトで上に登る
    ことが出来る。 ポルトガル土産は、スペインと同じく、絵柄の付いたタイルが
    多いのだが、青い色が多いのは、海のそばにある街だからなのか?

    【サンタジュスタのリフト】
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    ポルトガル名物のエッグタルト。 同じ物は、旧植民地であるマカオにもあのだが、
    やはり、本場のリスボンで食べるエッグタルトは一味違う♪ この日は時間が
    なかったため、途中の乗換駅で、ピザとエッグタルトを買い、そのまま空港へと
    向かいました。

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    世界遺産の『モスタルの古い橋』では、ある一定の時間になると、
    橋の上から飛び降りて、見物客から小銭を稼ぐという見世物を行って
    いますが、なかなか飛び込まないのと、しょっちゅう小銭を集めに
    来るため、若干離れた場所から望遠を使って撮影するのが古い橋を
    撮影するコツ (^^)

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    こんな世界の果てとも言えるべき場所に、どうしてここまで観光客が集まって
    来るのかが非常に疑問ですが、モスタルの古い橋は、日中は激混みします。
    橋の袂でソフトクリームを購入する際に、日本語で『こんにちは』と言われ
    ましたが、こちらからすかさず、『ロシア語は喋れますか?』と聞いたところ、
    挨拶だけは出来ましたw 海外では、日本語では一切話し掛けて欲しくは
    ないのと、基本的に、ロシア語で喋っている方が楽なので、海外で日本語で
    話し掛けられた場合は、意味不明な場合が多いため、大概無視しますw
    ロシア語で話し掛けられた場合は、大体、話に乗りますw

    【モスタルの古い橋】
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    ここでは、イスラムのランプが欲しかったものの、かさばるため、断念しました。
    全く異なった文化に触れることは、好奇心を非常に掻き立てるため、ボケ防止にも
    良いと思いますw

    モスタルの古い橋の袂には、非常に多くのお土産屋が軒を連ねているため、
    いつまで見ていても飽きません。 モスタルでは、これ以外、特に見る物も
    ないため、朝からバスが出発する昼過ぎまでずっとこの場所に居ましたが、そ
    の後、大事件が起きました。

    【Hostel Lena】
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    モスタルからドゥブロヴニク行きの最終バスの時間は午後12時30分。
    準備万端でバスに乗り込み、出発を待っていた際に、念のためパスポートを
    チェックして見ると、ないことに気付きました(滝汗)。 大急ぎでバスを
    降りて、ホステルまで戻って見ると、朝から観光に行った際に、既にベット
    メイキングを終えていたため、毛布の下に隠していたパスポートと貴重品が、
    その毛布にくるまれて見えなくなっていたため、持って行くのを忘れて
    いました(涙)

    【モスタルの古い橋】
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    元々、このホステルに泊まる予定はなく、別のホステルに予約を入れて
    いましたが、宿の都合で、急遽3日間だけ閉鎖になっていました。 ホステルの
    係員は、何度呼び鈴を押しても、出て来ることすらなかったため、通りすがりの
    人に近所の安宿を紹介して貰い、このホステルに泊まることにしたのですが、
    何の予約もなしに急に訪れたのにも関わらず、英語でしっかりとした対応をして
    頂き、モスタルに行ったら、またこのホステルに宿泊しようと思っております。

    尚、同室の人は、イランからの初めての海外旅行でボスニアに来たと申して
    おりましたw 最終的には、このバスに乗り遅れたため、宿に帰って、もう一泊
    することとなりましたが、旅にハプニングは付き物なので、モスタルで焦らず
    ゆっくりとすることにしました。 尚、この影響により、計画していたコソボと
    マケドニアのには行けないこととが決定しました。

    画像では余り分からないものの、この日の気温は、9月中旬なのに32度(大汗)。
    外を歩いているだけでも非常に暑いため、カフェでほっと一息。 サラエボを
    含めて、3回目のボスニア風コーヒーを注文してみましたが、やはり、非常に
    濃くて苦い。 付け合せの水とスイーツがないと、ちょっと厳しい大人の
    ほろ苦さですw 尚、ボスニアは、イスラム教であるため、このような
    ファッションが普通です。

    【モスタルのお土産】
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    その後、モスタルで知り合いになった人と夕食(ボスニア風ケバブ)を食べに
    行きましたが、クロアチア語(ボスニア語)は、ロシア語と似ているため、
    こちらからはクロアチア語は大体理解出来るものの、ムスリム人のそのお方は、
    ロシア語が全く聞き取れない。 英語もドイツ語もダメとの事で、こちらからは
    ちゃんちゃってクロアチア語(ロシア語に適当なクロアチア語を混ぜるw)で
    何とか対応しました。

    そこでの話では、ボスニアの平均給与は約100ユーロ(約13万円)で、学校で
    選択出来る外国語は、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語とのことでした。

    【モスタル⇒ドゥブロヴニク】
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    前日に乗り遅れたドゥブロヴニク行きのバスに乗り、いざボスニアの国境越えへと
    挑みます。 クロアチアとの国境でパスポートチェックがありますが、何故か、
    パスポートをホテルに忘れたと言う人が続出。 特に、クロアチアはEUで
    あるため、ボスニア側からの入国が厳しく規制されており、このようなことは
    許されません。 よって、ここで数名バスから降ろされ、その後、別の場所に
    連れて行かれたため、恐らく、モスタルに強制的に連れ戻された模様。 前日に
    パスポートがないことをバスの中で気付いたが、もし、気付いていなければ、
    自分も危うく、こういう目に遭っていたと思うと、ドキドキワクワクしますw

    ようやく、クロアチアの国境を越えたかと思ったら、ほんの数キロ走ったところで、
    またまた、ボスニアへと入国。 ここは、ボスニアで唯一の港町であるネウム。
    ボスニアは、内陸国に見えるものの、実はほんの数キロ程、海があります。
    ドゥブロヴニクは、クロアチアの飛び地であるためボスニア→クロアチア→
    ボスニア→クロアチアと激しく国境を跨ぎまくりました。 トイレすらない場所で
    20分程度休憩の後、ネウムを離れて、更にドゥブロヴニクへ向けて出発しました。

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    ボスニアの首都であるサラエヴォからバスで約3時間強で、ヘルツェゴビナの
    中心都市であるモスタルに到着します。 宿は、バスターミナルから歩いて
    数分のところに予約をしていたため、安心していたところ、その宿が一切何の
    連絡もなしに、急に3日間も閉鎖となり、急遽、すぐそばの宿に泊まることに
    なったものの、こちらの奥さんが凄く親切なお方で英語も堪能であったため、
    むしろ、こちらの方が良かったと思いました。

    とりあえず、モスタルに到着したら、世界遺産である『古い橋』を見なければ
    何も始まらないため、バスターミナルから約1キロほど離れた世界遺産へと
    出掛けました。

    【夜のモスタル】
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    モスタルでは、モスクが乱立しており、完全にイスラムの世界。 もしろ、
    ヨーロッパ的な要素は何もありません。 強いて言えば、石造りの街並みが、
    若干ヨーロッパ的なだけで、街中から聞こえて来るのは、コーランばかり。
    1ヶ所だけカトリックの教会がありましたが、単なるお慰み程度の教会であるため、
    稀にしかないクロアチア人のためだけにある教会なのでしょう。 尚、
    Julius Meinl は、オーストリアでは、BILLAと並んで、非常にメジャーな
    スーパーですが、何故かモスタルにもありました。

    この日は実は、夜まで何も食べていなかったため、モスタルの雰囲気のある橋の
    たもとで食事を取ることにし、ボスニア風ケバブとボスニアのビールを注文
    しました。

    翌朝は、午後12時30分にドゥブロブニク行きの最終バスが出てしまうため、
    朝一番でバス乗り場に行き、切符を購入し、そのまま、街中の観光へと繰り出し
    ました。 と言っても、モスタルは、基本的に、『古い橋』以外、特に見る物が
    ない街であるため、今度は中心部を通って、『古い橋』へと向かう途中、銃弾の
    跡が、あちらこちらに残っていました。

    【モスタル中心部】
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    モスタル市中心部を流れる川を渡る途中、山頂にある十字架が見えましたが、
    カトリック教会は、ボスニアでは、存在感が極めて薄いため、至る所で、これ見よ
    がしに巨大な十字架が建っていました。 この十字架を見て、このすぐそばには、
    カトリック教会があるという風に分かるシステムの様です。

    海外に行って、最も行く場所と言えば、マクドナルドw 基本的に、地元の料理
    なんぞは一切食べませんので、時間の掛からない、かつ、味が予想出来るマックで
    十分w 材料すら分からない得体の知れない食べ物は、非常に苦手。

    単に、橋の反対側を歩いて来ただけで、川のどちら側から来ても、『古い橋』
    までの距離は、余り変わりません。 ボスニアではカトリック教会は多少なりとも
    あるものの、セルビア正教の教会は見掛けなかったため、恐らく、内戦で破壊
    されたものと思われます。

    【モスタル市中心部】
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    それ以外は、100%イスラムの世界であるため、観光客もほぼ全員イスラム教徒
    ばかりでした。 その後に行った、ドゥブロヴニクとは、客層が全然違っています。
    正に、イスラムがイスラムを呼ぶという感じでした。 世界遺産である
    『モスタルの古い橋』は、内戦中に破壊されてしまったため、内戦が収まった後に
    再建されたため、よくよく見ると、修復後の境界線が分かります。 イスラム教徒に
    大人気の観光スポットであるため、昼間に行くと、満員電車並みの混雑に遭遇する
    こととなります。

    毎日、定時になると、川のほとりに複数あるモスクから、コーランの祈りが響き
    渡るため、ヨーロッパに居るとは思えない程の完璧なイスラムの世界です。 尚、
    ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴ内での民族浄化等により、ヨーロッパでも
    最貧国の部類に入りますが、月給にして2万円程度のウクライナと比較すると、
    平均月収は13万円程度あるそうなので、ウクライナと比較すると、相当ましです。
    物価も日本よりは若干安い程度なので、東京とさほど差はないと感じました。
    恐らく、東京での現在の平均給与は25万円程度で、横浜だと20万円程度しか
    ありません。

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    ベラルーシのミンスク経由で午後10時半過ぎにヴィリニュス駅に到着した。
    そのままタクシーに乗って、宿まで行く途中で、スーパーに寄って貰ったところ、
    周囲の人達が、2回程、何やら英語でアドバイスをしてくれたため、よくよく
    ロシア語(ヴィリニュスは大体ロシア語が通じる)で詳細を問い返してみた
    ところ、『午後8時以降はアルコールの販売が禁止されているため、購入出来ない』
    とのことだった。 買うのであれば、ノンアルコールにしなさいとのことで
    あったが、にわかにはその話が信じられなかったため、タクシーの運転手に
    再度確認したところ、やはり、午後8時以降はアルコールの販売が禁止されており、
    特に、日曜日は、午後3時以降はアルコール販売は禁止されていると言われたため、
    この日は、ミネラルウォーターのみを買ってすぐに宿へと向かった。

    翌日早朝から、いよいよ、十字架の丘へ
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    一夜明けて、午前7時代の電車で約2時間半掛けて、リトアニア第3の都市である
    シャウレイへと移動。 シャウレイ駅とバスターミナルは、歩くと実は10分弱
    掛かる。 しかも、バスの本数が非常に少なく、鉄道との接続が悪い。 更には、
    最寄の『ドマンタイ』のバス停から、十字架の丘までは、約2キロ程離れて
    いる。 このため、シャウレイ駅からタクシーで世界遺産の十字架の丘へと
    向かうことにした。

    実は、この十字架の下には、遺体は一切なく、すぐ隣りのラトビアやエストニア
    にも同様の十字架があるのだが、何故かリトアニアの十字架の丘だけが有名と
    なっており、世界遺産にも指定されている。

    今回、タクシーに乗って、時間を節約したのは、その後、リトアニア第2の
    都市であるカウナスへ移動するため。 実は、シャウレイからカウナスへは、
    鉄道で行くと、一旦ヴィリニュスまで戻って、更にV字に遠回りして行くため、
    1日で両都市を見て回る場合は、乗車時間の短いバスしかない。

    シャウレイからカウナスへは約3時間程度で、高速バスではなく、単なる一般
    バスであるため、距離の割には、妙に時間が掛かるため、どちらも余りゆっくり
    とは見て回る時間がないため、タクシーを使って、可能な限り、行きたい場所を
    限定して見て回るしかない。

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    十字架の丘の歴史
    リトアニアは1795年の第3次ポーランド分割で、ロシア帝国の支配下に置かれる
    こととなった。 ポーランド人とリトアニア人はロシアに対抗して蜂起を起こした
    (1831年の11月蜂起、および1863年の1月蜂起)が、いずれも失敗に終わる。
    これら2つの蜂起はこの十字架の丘の始まりに関係している。 反乱兵の家族が、
    彼らの遺体のかわりに十字架をこの丘に建てたのである。 1918年、リトアニアは
    独立を回復。 独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちの
    ために祈る場所となった。 その後、ナチスドイツのホロコーストや、再度
    ソ連の支配下へ置かれたりと、辛い時期を経験したリトアニアだが、この丘には、
    リトアニアの独立を願って、十字架を建てる人たちで溢れた。 1991年末に
    ソ連の崩壊と共に、リトアニアは再び独立を回復。 その当時、この丘には、
    約6万の十字架が建てられていたと言う。 現在は、約20万もの十字架が建て
    られているとも言われている。

    【十字架の数】
    1900年 130
    1902年 155
    1922年 50
    1938年 400 以上
    1961年 5,000 が破壊される
    1975年 1,200 が破壊される
    1990年 約 55,000

    リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を
    持っていた。 丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や
    遺産への忠誠心を示した。 それは、非暴力による抵抗を表していた。 にも
    関わらず、ソ連は3度に渡りブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとした。

    1993年9月7日、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、
    そして犠牲者のための場所であると述べた。 2000年、フランシスコ会の修道院が
    この丘の近くに完成した。 内部の装飾は、フランシスコの身体に聖痕が現れた
    とされるトスカーナのラ・ヴェルナのものと関連している。この丘は未だいずれの
    管轄にも属していないため、自由に出入りし、十字架を建てることが出来る。

    【お勧めの一冊】


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    知る人ぞ知る、富士山の麓にある最強の金運アップスポットの荒谷山神社。
    読み方は『あらや・やまじんじゃ』。 富士山のパワーを集めた日本一の
    金運スポットと言われており、富士急行の富士山駅から徒歩約30分ほど。
    バスも運行しているが、数時間に1本しかないため、富士山駅からは徒歩
    約30分ほど。 その途中に世界遺産にも指定されている北口本宮冨士浅間神社
    あるため、こちらも必見。

    所在地: 山梨県富士吉田市新屋1230


    【荒谷山神社への旅】
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    47304248335254
    473512103333
    968162383235880318028705
    0705265236684
    109610262096
    126779262488986
    72503212538654
    34869754398161
    81231688703725
    919051963252599
    374767598150
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    728860137054243
    0379096163676
    caption

    宮司さんにお願いをして無料のお祓いを受けた後に、『お伺い石』に自分の
    願いが叶うかどうかをお伺いしてみましょう。 この石は、願いを叶える
    石ではなく、自分のお願い事が叶うかどうかを教えてくれる石で、石を
    持ち上げた際に、1回目よりも2回目の方が軽く感じたら、願いは叶います。

    尚、最強パワースポットの荒谷山神社奥の院は、山梨県富士吉田市上吉田5615に
    鎮座しており、タクシーを使っても片道約30分は掛かるため、それなりの時間の
    余裕を持って出掛けましょう。

    【お勧めの一品】


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    モントリオールからセントローレンス川を230キロほど下ると、ケベック州の
    州都であるケベック市がある。 ケベックというのは、先住民の言葉で
    『川が狭まる所』という意味で、丘から見下ろすと、確かに、ここは川幅が
    狭まっているのが分かる。 ケベック市の下流は殆ど海のようであり、狭く
    なっていると言っても、上流も大型船舶が航行出来るだけの十分な広さがある。

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    ケベック市は、人口規模では、モントリオールの3分の1にも満たず、(2006年
    調査では49万人)、周辺部を入れても71万人程度で、州人口の1割にも満たない。
    しかし、ここから北米に『フランス的事実』が広がって行ったのである。 また、
    ここは、1759年にフランス軍がイギリス軍に敗北した場所でもある。 更に、
    この街で1864年にカナダ連邦形成に連なる『ケベック決議』が採択された。
    その意味で、ケベック市というのは、歴史の重みがあり、単なる州都を超える
    特別な地位を占めている。

    ケベック市の基は、1608年、サミュエル・ド・シャンプランによって築かれた。
    2008年には、ちょうど400週年にあたり、それを記念して盛大な記念式典が
    開かれた。 この街は、イギリス領となるまでは、北米におけるフランス
    植民地の中心地であった。 そして、19世紀中頃までには、ニューヨーク、
    ニューオリンズに次ぐ北米第三の港として隆盛を誇るようになった。

    輸出品の4分の3は、木材で、そこでは、イギリス系商人のために、多数の
    フランス系カナダ人やアイルランド系住民が働いていた。 しかし、1860年頃に
    なると、木材特恵関税の廃止等、いくつもの要因が重なって、木材取引は衰退し、
    ケベック市の経済力も衰えて行った。

    それに伴い、イギリス系やアイルランド系は、主として、モントリオールに移って
    行った。 だが、20世紀初頭には、産業化が進み、カナダでも有数の工業都市に
    なった。 経済の中心は、工業からサービス、金融、観光等へ移り、今日に
    至っている。 官公庁に携わる仕事も多い。 現在はカナダ7位の経済規模の
    都市となっている。

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    北米で唯一城壁に囲まれた都市ケベック市。 この街は、ユネスコにより、
    1985年に北米初の世界遺産に選ばれた。 城壁の内側には旧市街が、外側には、
    近代的な市街が広がる。 旧市街は、ダルム広場、その前にそびえ立つシャトー・
    フロントナック、ノートルダム大聖堂をはじめとした教会、そして、プチ・
    シャンプラン通り等。 恐らく、この辺りは、北米でも最もヨーロッパ的な地区
    であろう。

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    47都道府県魅力度ランキングで、常にワースト1位の茨城と最下位争いをしている
    県と言えば、群馬。 毎年、46位が指定席であるが、今年は、かろうじて、佐賀を
    かわし、昨年よりも、順位を1つ上げて、45位に浮上。 富岡製糸場の世界遺産
    登録による好影響影響は、さほどなかったようだ。

    【知られざる群馬の魅力の数々】

    草津温泉のゆもみ
    県外の人のイメージで『群馬といえば?』で最初に出てくるのがこれであることが
    多い。 有名どころでは『伊香保』『草津』『万座』『四万』などがある。

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    上毛かるた

    『群馬県人ならばだれでも知っている』と言い切って過言でないほどの認知率
    であり、同郷の人が集まるとしばしばこれの話題で盛り上がる。 但し、県外の
    人間にとっては、何が良いのかすら分からない。

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    高崎だるま

    別名『上州だるま』とも呼ばれ、全国生産の80%に匹敵する年間170万個が生産
    されている。 特に『選挙だるま』のほとんどは高崎で生産されている。
    これにちなんだ高崎駅の駅弁『だるま弁当』も有名。
     
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    猛暑とからっ風

    夏は猛暑
    『館林』『伊勢崎』『前橋』あたりの暑さは有名。

    冬はからっ風
    別名『赤城おろし』とも呼ばれるこの冬の北西風は、立っているのも困難なほど。
    これらが『魅力』なのかどうかは微妙だが、特徴ということで上げておく。
     
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    尾瀬

    日本百景にも選ばれ、群馬、福島、新潟の3県にまたがる超有名観光地。
    群馬のイメージは薄いかもしれないが、都心から一番近い尾瀬の入口は群馬側。



    焼きまんじゅう

    群馬県地方の郷土食の一種。 蒸して作ったまんじゅうを竹串に刺し、黒砂糖や
    水飴で甘くした濃厚な味噌ダレを裏表に塗って火に掛け、焦げ目を付けたもので、
    軽食として好まれる。 とにかく濃厚。
     
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    富岡製糸場と絹産業遺産群

    富岡製糸場と絹産業遺産群は、長い間生産量が限られていた生糸の大量生産を
    実現した技術革新と、世界と日本との間の技術交流を主題とした近代の絹産業に
    関する遺産。 日本が開発した生糸の大量生産技術は、かって一部の特権階級の
    ものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものに
    変えた。

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    【首里城】

    琉球王国は、1429年から1879年まで450年間存在した王国で、中国や日本をはじめ、
    東南アジアとの盛んな交易を行い、琉球独特の文化が生まれた。 その中心地であった
    場所が、この首里城で、1945年の沖縄戦の戦火で灰燼に帰したが、 沖縄の日本復帰
    20周年にあたる1992年に復元された。 中国と日本の築城文化を融合した独特の
    建築様式や石組み技術には、高い文化的・歴史的な価値があるとされ、首里城跡は、
    2000年12月、日本で11番目の世界遺産に登録された。

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    1609年に薩摩藩が3,000名の軍勢をもって琉球に侵攻し、首里城を占拠した。
    それ以後、270年間に渡り、琉球王国の表向きは中国の支配下にありながら、内実は
    薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していた。 しかし、
    やがて日本の明治維新により成立した日本政府は、1879年に軍隊を派遣して首里城から
    国王尚泰を追放し沖縄県の設置を宣言した。 ここにおいて、琉球王国は滅亡した。

    「沖縄県となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。 1930年代
    には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。 戦後、
    跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に
    及んでいる。 復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。



    【国際通り】
    沖縄県庁前から1.6キロ続く国際通り。 道路の両側にはTシャツやかりゆしウェア、泡盛や
    スイーツなど沖縄らしいアイテムをそろえたショップが立ち並ぶ。 飲食店も充実しており、
    アメリカ文化にも影響を受けた沖縄ならではのステーキ屋やアイスクリーム屋の他、夜は
    沖縄料理を食べながら沖縄民謡を堪能できる店などもあって夜遅くまでにぎわっている。
    戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げたこと、長さがほぼ1マイルであることから、
    『奇跡の1マイル』とも呼ばれる。 沖縄県で最も賑やかな通りであり那覇最大の繁華街。

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    【沖縄ちゅら海水族館】
     
    沖縄本島北西部の本部半島にある国営海洋博公園内にある水族館で、2005年に
    アメリカのジョージア水族館が開館されるまでは、世界最大の水族館であった。
    これまで困難とされてきた、ジンベエザメの複数飼育、並びに、世界最大のエイの
    一種であるナンヨウマンタの複数飼育と繁殖に世界で初めて成功したため、
    世界最大と世界初を一度に見る事が出来る、世界でも非常に珍しい水族館。
    付近には、いかにも南国を感じさせるエメラルドビーチがあり、海が非常に美しい。

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    【漢那ビーチ】
    国道329号線から至近距離にあり、少々さんご礁の化石が混じっているものの、
    基本的に砂地であるため、歩きやすい。 波際は浅めなので、子供も安心して
    泳ぐ事が出来る。 ビーチ設備は特になく、すぐ隣に公園がある。
     
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    【瀬底島】
    沖縄北部の本部半島にある離島。 沖縄本島とは、橋で結ばれているため、
    そのまま気軽に車で行く事が出来る。 隆起サンゴ礁の島で、主に琉球石灰岩で
    構成され、島中央部は、今帰仁帯と呼ばれる三畳紀の基盤岩類で成る。
    先史時代の貝塚やグスク時代の多数の遺構が発見され、中でも瀬底グスクでは、
    青磁や染付けされた陶磁器が出土している。 伝承によると、ウチグスク周辺に
    生活していた7世帯が瀬底島を開闢したとされる。 1469年に第一尚氏王統最後の
    尚徳王が死去すると、同系の今帰仁按司の一人の子供がウチグスクに住み渡り、
    瀬底島に村落を形成したと言われる。
     
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     【世界遺産 今帰仁城】
    沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡。 14世紀、琉球王国成立以前に存在した
    北山の国王・北山王の居城であった。 世界遺産、並びに、国の史跡に指定されている。
     
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    世界遺産平泉で春と秋に開催されている藤原まつり。 藤原4代、約100年間に
    渡って奥州の地に花開いた、仏教文化は、当時の京の都をも上回るとも言われ
    たが、鎌倉幕府を開いた源頼朝によって、滅ぼされ、現在その栄華は見る影も無い。

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    その藤原氏の栄華を再現した春の藤原まつりは、例年5月1日から5日までの5日間
    開催され、中尊寺や毛越寺で藤原氏の追善法要、稚児行列、開山護摩法要、郷土
    芸能、能や狂言の奉納が行われ、最終日には、武蔵坊弁慶に因んで、JR平泉駅前
    では巨大な餅を抱えて運ぶ力自慢の競技会『弁慶力餅競技大会』が開催されている。
    特に有名なのが、ゴールデンウィーク期間中の5月3日に開催される『源義経公東下り
    行列』である。



    この行列は、義経主従が兄である源頼朝の追討から逃れて平泉に辿り着いた時、
    藤原秀衡や地元民に歓迎された故事に倣ったもので、総勢約100名の参加者で
    平安絵巻を再現する。 午前中に藤原秀衡公出迎行列が中尊寺坂下を出発し、
    一行が昼過ぎに毛越寺へ到着すると大泉が池で『義経公ねぎらいの場』が再現される。

    午後1時30分頃に毛越寺を出発した本行列は、午後3時過ぎに中尊寺金色堂へ
    到着し奉拝する。  一行は地元の名士などが務めるが、義経公役は1973年頃から
    若い俳優・タレントなどの男性芸能人が務めており、東下り行列の知名度が定着して
    以降は沿道に例年16万人から18万人程の見物客が訪れる。

    特に2005年に行われた東下り行列には、当時放送中のNHK大河ドラマ『義経』で
    主演を務めていた滝沢秀明が参加したことで話題を集め、過去最高の観光客
    (当時の報道では25万人とも28万人とも報じられた)が訪れた。

    また、世界遺産平泉周辺には、厳美渓、猊鼻渓、達谷窟、須川温泉等、見所が多く、
    早春のみちのくを訪れるのには、お勧めの地となっている。

     猊鼻渓
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     厳美渓
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     達谷窟
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     須川温泉
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    被災地通信 に参加中!

    宮城県東松島市にある東北最大の海水浴場、野蒜海岸。 目の前に見えて
    いるのは、石巻湾。 本州で最もアメリカ大陸に近い場所で、外洋に開けて
    いるため、明治時代には、「明治三大築港」として、野蒜港がこの地に建設
    されたが、その数年後に、大型の台風が発生し、港湾設備がことごとく破壊
    されてしまった。

    その後、関東にある横浜に新たに港が開かれたため、この地に港が戻る事は
    なかった。 よって、野蒜が消滅したのは、歴史上これで二回目。 開港前
    までの横浜は、単なるひなびた漁村に過ぎなかったが、その後大きく発展し、
    今では日本第二位の都市にまで成長しているが、何とも皮肉な話である。 

    尚、この場所は、3年4ヶ月もの間、地盤沈下により、海に沈んでいた場所で、
    被災直後、暫くは、山のような瓦礫置場となっていた。 2013年の夏に
    入ってから、かさ上げ工事が本格化したため、ようやく、この場所は、3年4ヶ月
    ぶりに陸地に戻った。

    被災直後の東松島市野蒜付近

    東松島市は、市全域の60%強が、津波被害を受け、内陸側7キロまで、津波が
    押し寄せた。 明治三大築港であった、野蒜築港跡を世界遺産にという話も
    あったのだが、津波により、それすら流された。 松島の海岸は、砂が黒く、
    海の色が、深緑色で、余り綺麗ではないのだが、野蒜の砂は、白いため、
    海の色は、青ではなく青緑色。 別名奥松島。 日本三大渓谷のひとつ、
    嵯峨渓があるのもこの場所。


    被災直後のJR仙石線野蒜駅前

    この海岸では、500名以上が津波により犠牲となった。 現在不通となっている
    仙石線の電車は、下り列車は、地元の乗客の判断により、丁度高台地点に
    停車したため、乗客は、一昼夜その場所に留まったのだが、翌日には、救助隊が
    助けに来たため、全員無事だった。

    一方、同時刻に野蒜駅を発車した上り列車は、被災当初、乗客全員が死亡したと
    報じられた。 実際は、直ぐ近所にある、野蒜小学校に全員が避難したのだが、
    そこの小学校の校長が、学校の校舎に鍵を掛けてしまったため、折角電車から
    降りてわざわざ小学校の体育館まで避難をしたものの、最後は、津波に飲み
    込まれて、数名が亡くなった。
     
    被災時の野蒜小学校

    被災後、宮城県内の海岸では、4年近くを経ても、4ヶ所しか海開きを行って
    いない。 この野蒜海岸も、この先、いつ海開きが出来るのかすら分からない
    状況となっている。 10年後、この海岸で泳げる日は来るのだろうか? 石巻の
    被災状況は、時々ニュースでも取り上げられるのだが、東松島は、殆ど報道
    される事はなかった。

    この場所には、ユースホステルがあり、かんぽの宿もあり、民宿も沢山あった場所。
    今は、何もかもなくなった。 野蒜には、建物は、一つたりとも残ってはおらず、
    元々、この場所は、うっそうとした松林だった。 その松林も95%以上が流出
    したため、今では何もなくなった。 防潮林だった筈の松林は、津波の激流に
    押し流れ、最後は、人や建物を襲うための凶器と化した。


    燃料が足りず、火葬が追いつかなかったため、遺体は一旦土葬にされました

    この海岸には、約5メートルほどの防波堤があったにも関わらず、津波の高さが
    余りにも高過ぎて、何の役にも立たなかった。 それでも、25年ぐらい前に、
    2メートルほどかさ上げ工事をして、高くした場所。 何もかもなくなって
    しまったため、もう昔の景色すら思い出せない。

    福島の人たちは、避難生活が長引いて、苦しんでいるとは言うものの、それは、
    宮城県でも同じこと。 福島の場合は、特に景色は変わってはいないが、宮城県の
    場合は、何も残ってはいないため、この地に何があったのかは、自分の記憶に
    頼るしかない。 まさか、何もかもなくなるとは思っていなかったため、写真の
    1枚すら手元には残ってはいない。

    復興が進んでいるとは、名ばかりで、一番復興が遅れているのは、野蒜なのでは
    ないだろうか? こんなに綺麗で穏やかな海なのに、どうして、この場所で500人
    以上も死ななければならなかったのか、かなり疑問だらけ。
     
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    2011年12月末に撤去された、仙石線の下り電車

    すぐそばにある、航空自衛隊松島基地は、津波で水没し、被災後の数日間は、
    全く機能しなかった。 よって、この地で真っ先に救助活動をしたのは、
    アメリカ軍。 被災後は、この付近の住民たちは、美里町と松島町に分かれて、
    半年から1年近くも寒い体育館での寝泊りを余儀なくされた。


    長渕剛 松島基地 自衛隊員激励ライブ

    【お勧めの一品】


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