第二次世界大戦後の1948年2月、チェコ革命(二月事件)で政権を掌握した
共産党は、一党支配体制の下で社会主義建設を推し進めたが、1953年に始まる、
ノボトニー独裁政治は、社会全体の停滞を招いていた。

これに対して1960年代から党内に台頭した改革の動きは、『人間の顔をした
社会主義』をスローガンとして、1968年1月にノボトニーを退陣させた。 そして、
改革派の指導者ドゥプチェクが党第一書記に選ばれ、『検閲の廃止』
『言論や集会の自由』『市場経済導入の試み』等が、次々打ち砕かれて行く
のであった。

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1968年3月、ワルシャワ条約機構首脳会議が招集され、ソ連のブレジネフ書記長を
中心とする各国指導者はドゥプチェクを激しく批判したが、チェコスロバキアの
改革は進められ、社会全体に浸透して行った。  市民達は『二千語宣言』を発表
して民主化への支持を表明し、宣言には、女子体操のチャスラフスカ選手も名を
連ねていた。 この民主化と自由化への動きは『プラハの春』と呼ばれたが、
1968年6月になると、ソ連の軍事介入の威嚇が始まる。
 
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1968年8月20日、ソ連軍と東欧共産主義諸国軍によって構成されるワルシャワ条約
機構軍がチェコに侵攻。 抵抗する市民の中には兵士達によって射殺された者も
いた。 また、軍事介入に抗議する学生2人は、プラハ市内で焼身自殺を遂げた。
チェコにおいて『人間の顔をした社会主義』を指導していたドプチェク第一書記は、
モスクワに連行され、チェコにおける改革の中止を認める書類に署名を強制された。

更に、1969年4月17日には、チェコ共産党の第一書記として保守派のフサークが
選出され、ソ連軍が駐留し、『正常化』の名の下に、チェコにおける自由化の
動きは完全に押さえ込まれてしまった。

チェコに本当の春が訪れたのは、1989年であった。

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